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2000年11月号/第101号  [特集]    仁木町/小樽市

80年の歴史を糧として知的障害者の幸せを追求し人と地域にとけこむ後志報恩会のチャレンジ
地域ぐるみの幸せづくり・後志(しりべし)報恩会

  JR小樽築港駅から車で10分ほどの丘の上に、和光学園があります。敷地内には目的や対象の異なるさまざまな施設が点在し体育館からは明るく活気にあふれた声が響きます。建物はまず事務所、食堂、体育館などからなる学園本部。それに続く居住棟では、平均年齢28歳の中軽度知的障害者70人が生活しています。入所者や通所者が取り組む授産作業の作業棟。お弁当づくりの通所授産施設や、就職者が個室で生活する福祉ホーム。在宅障害者のレクリエーションや交流を目的とするデイサービスセンター、そして裏手には広大な栗の林があり、利用者の散策の場になっています。
 介護保険の導入、社会福祉法の制定など福祉をめぐる社会的枠組が大きく変わろうとする今、北海道の民間福祉の歴史をふまえ、和光学園を含めた後志報恩会の新しい試みが実り始めています。

北海道立から後志報恩会へ 和光学園の民間移管

和光学園(〒047-0156小樽市桜4丁目3番1号 TEL:0134-54-7606)は、40年前の1960年、北海道立和光学園として現在の場所に設立されました。小樽の知的障害者父母による熱心な誘致運動によって実現した、知的障害者更生施設北海道第1号でした。これが10年前の1990年、社会福祉法人後志報恩会に民間移管され、現在に至っています。

道から和光学園の移管を受けた後志報恩会は、北海道余市郡仁木町でふたつの知的障害者入所施設(重度障害者のための銀山学園と、高齢者優先の大江学園)を経営し、地域ぐるみの施設運営実践で知られる社会福祉法人です。

この後志報恩会の歴史は、大正7年に創立された知的障害児施設・札幌報恩学園(社会福祉法人札幌報恩会)までさかのぼります。

札幌報恩学園の創始者小池九一(きゅういち)さん(故人)は、道の教護担当官で、問題を抱える子どもたちを集め自宅を生活の場として開放するうち、彼らの中に、単なる非行ではなく知的障害の人が居ることがわかり、自宅で民間の精神薄弱児施設を開設しました。これが札幌報恩学園の始まりです。

そして50年後、当時学園の理事で、小池九一さんと意気投合して北海道の民間福祉を切り開いてきた野村啄民(たくみん)さん(故人)が、故郷の仁木町に土地をもとめ、新しい施設を作ることを提案しました。こうして1970年(昭和45)、銀山学園が生まれました。

他者の痛みを思うことで苦しみから救われた野村さん

イメージ(野村健さん)
野村健さん

この時、新しい学園を創設する役割を担って着任したのが現銀山学園総合施設長の野村健さん(67)と現和光学園園長の山崎忠顯(ただあき)さん(57)でした。健さんは、実は野村啄民さんの息子さんですが、当時札幌市福祉事務所に勤務し、どんな境遇の人も心を開き、誰からも慕われる名ケースワーカーとして有名でした。当時の心境を野村さんはこんな風にふりかえります。

「福祉事務所に14年間勤務しましたが、そこで勉強させてもらったのは、人はみな痛みを持っている。その痛みを感じてあげれば、気持ちが通じて、信頼関係が生まれるということでした」。

「私は青春時代に吃音(きつおん)とか、肺結核とか、失恋とか、いろんな苦しみを自分なりに味わいました。そのとき気づいたことは、自分のことだけ思うからそれが自分を苦しめているのであって、意識的に他者の痛みに集中しようということでした。痛んでいる人たちの立場に立って感じてあげればいいわけです。考えるのではなく、感じてあげる。自分なりに人間的な苦しみが与えられたことが生涯を、生き方を決めた原点なのかなという思いがしています」。

入所者の無断外出で人間としての共通欲求を知る

イメージ(銀山学園創立30周年記念ふれあい祭(2000年9月3日))
銀山学園創立30周年記念ふれあい祭(2000年9月3日)

9月3日、仁木町の銀山学園では「第30回ふれあい祭」が開かれました。学園の収穫祭に地域の人たちも参加して、共に秋の味覚を楽しむ恒例行事です。ゆでとうきび、きのこ汁、名人が釣ったやまべの天ぷら、学園で飼育する黒豚の串焼きやソーセージ焼き。家族とともにおいしい秋を満喫する入所者は、みんなとてもおしゃれで、のびのびとしています。

イメージ(銀山黒豚の串焼)
銀山黒豚の串焼

今年は開園30周年ということで、64の団体と個人に感謝状が贈られました。贈呈者名簿には、地域の農協や郵便局、自衛隊、中学校生徒会、おすし屋さんや美容院、ミュージシャン、和太鼓の名人などたくさんの名前が並んでいます。このような人たちとの、日常的なつながりこそが、地域を基盤とする後志報恩会の根幹です。

ここへ至るきっかけであり、野村さんが大きく発想の転換を迫られた事態は、銀山学園の入所者の無断外出でした。

イメージ(そば・うどんコーナー)
そば・うどんコーナー

「無断外出なんていう表現をしていますけれども、平たい言葉で言うと施設から逃亡するわけです。それは逃げるほうが当たり前で逃がさないようにしようとする発想そのものが、人間の幸せということからみると間違っているんだろう。施設に居ること自体がこの人たちの痛みなんだ。そこまでわかったんですが、具体的にどう解決すればいいのかわかりません。2年くらい、本当に考えました」。

「頭で考えていたときはいい知恵が浮かびませんでした。副園長の山崎氏と一緒に施設で寝泊りしていたんですが、私たち職員は、みんなを寝かせてからたまに出かけられるわけです。久しぶりに呑みに行こうかという時、学園のある山から降りてくるものですから、まばらな人家の明かりが、人間が住んでいるという感動をあたえたんですね。それを思い出したんです。理性ではなくて、感性に訴えてきた。ああ、この感動を施設に入っている人たちにも味わってもらおう、みんな俺と同じ人間なんだ。これが出発点でした」。

この発想転換で野村さんが考えついたことは家庭訪問でした。旅行ではなく、日常生活を通してできるだけ自由に出かけることができないだろうか。

「家庭訪問をさせてあげようと職員に話しました。全員、それはいいことだと合意してくれまして、職員宅から始めました。するとそれを見ていた隣近所の人たちが、うちに連れてきてもいいよ、というような話で輪が広がっていったという経過です。家庭訪問させてもらって本当にびっくりしたんですが、無断外出が無くなりました」。

障害者も住民のひとりとして地域づくりに参加

どんなに施設を良くしても外出欲求は満たされない。日常生活でぶらっと出たいときに出かけられるのは地域しかない。野村さんは地域づくりにとりかかりました。

農閑期、野村さんは銀山地域に住む行動力のある若い人たち10人あまりに声をかけ、学園に集まってもらいました。呑んで話すうち、小さなことでも自分たちの力で生きがいを感じられることをしようと「銀山の明日を考え行動する会」の活動が始まりました。

例えばお祭り。小さい頃は銀山でもお祭りがあった。それを今の子どもたちにも味わわせてあげようと、手づくりのお祭りが実現しました。学園の入所者も焼きとうきびの焼き手や売り手、そのほか買い手ともなって参加し、そこで住民としてふれあうなかから、少しずつ知的障害者への差別感が薄らいできました。また意外に儲かったお祭りの収益で、地域の子どもたちのための遊園地をつくろうという若者たちの発案があり、学園の入所者も遊園地づくりに参加しました。

「すると住民の意識が少しずつ変化していったんです。福祉といえば何かしてやるという気持ちしかなかったわけですが、反対に地域の子どもたちのために作ってくれている、してもらってるという感じになった。やはり若い人たちの感性って素晴らしいなと思いました」と野村さん。

また銀山学園の職員は、早くから地域の子どもたちに、英語や数学を教えたり、野球のコーチをしたり柔道を教えるなど、文化やスポーツ面などで積極的に地域活動をしました。それぞれの特技を生かしたこの活動は地域に根をおろし、のちに福祉の仕事を志す人材をも輩出しています。

家庭訪問の受け入れなど、銀山学園がお世話になっている高橋賢彦(まさひろ)さん(56)は、銀山自動車工業の社長さん。学園が出来て2年後に札幌から銀山へUターンしました。高橋さんは当時を回想します。

イメージ(高橋賢彦さん)
高橋賢彦さん

「川や山が好きでよく知っていたから、無断外出で入所者が居なくなったっていうと探して、何人か見つけました。私たちも学園に助けられて独特な村づくりができた。都会なら無理だろうけど、小さな地域だから、学園の入所者が歩いていれば誰かが声をかけたりして、目が届くんです」。学園の卒業生が高橋さんの整備工場で働くようになって16年になります。

知的障害者の可能性を拓く和光学園の挑戦

1989年(平成元)、札幌報恩会から財産の無料譲渡を受けて後志報恩会が分離独立しました。

翌年、道から移管された和光学園には、銀山学園創設以来、副園長として野村さんとともに新しい施設経営を担ってきた山崎さん(前出)が園長として小樽に赴くことになりました。

イメージ(山崎忠顯さん)
山崎忠顯さん

山崎さんは、野村さんが銀山学園創設にあたって「相棒はこの人しかいない」と望んだ同志です。当時、野村さん37歳、山崎さん27歳。ふたりは札幌市社会福祉事務所で3年間机を並べた先輩後輩の間柄です。思索とアイデアの野村さん、行動力にすぐれた山崎さん。20年間、共に走りつづけてきたパートナーなのです。

銀山学園は農業中心の地域にあり、和光学園は小樽という都会に位置するという違いがありますが、知的障害者施設を地域ぐるみの幸せづくりの中心に据えようとする考えに変わりはありません。新しい和光学園がここからスタートしました。

さて和光学園では、国語や算数などを学習するわけではありません。社会人として暮らせるための、訓練、作業、実習などが学園の日課です。園生は毎日どんな生活を送っているのでしょうか。

イメージ(小樽市内にある織物班作業実習所)
小樽市内にある織物班作業実習所

学園敷地内にある通所授産施設ウィリング和光では、市内の事業所で働く障害者や高齢者のための宅配弁魔イ理しています。月曜から金曜の昼食は、通常20食あまり、学園の実習生が事業所へ出かける火曜と木曜には80食。金曜日には、小樽市内11地域の独居老人に夕食145食を届けます。曜日によって対象を考慮したメニューをつくり、材料の買い出し、調理、盛り付け、回収した容器の洗浄など、滞りなくすすめる職員の杉田宏子さんは、目の回るような忙しさでも笑顔を絶やしません。もうすぐ配達に出かける時刻です。「ここの時計は10分ほどすすませてあるの、時差があるんです」と杉田さんがニッコリ。

色とりどりの糸と作業中の織物が美しい織物班作業実習所。おしゃれな工房は小樽市花園の教会を借りています。みなさんバスで通ってきて、マフラーやテーブルセンター、コースターなど、一人一人が織機を持ってオリジナル製品「織(お)っ樽(たる)」を織り上げています。

イメージ(バスで通う作業所・織物班)
バスで通う作業所・織物班

「12人いるんですが、決して同じ物はつくりません。同じコースターでも、必ず色を変えます。すると、自分しか織れない自分のものだ、他の人とは違うんだという気持ちが生まれてくるんですね。そういう気持ちがずんずん上手にさせるんです」「住んでいるところと離れているから、気持ちの切り替えができて楽しいんですね。調子が悪くても、ここへ来るまでに治っているんです」と、職員の津田裕子さん。

イメージ(小樽市内の「パンショップ和光」)
小樽市内の「パンショップ和光」

パンショップ和光(小樽市錦町)は、1991年(平成3)にスタートした最初の通所授産施設シェアリング和光の分場という位置づけです。道産小麦「はるゆたか」を100%使った天然酵母、無添加無着色の手づくりパンが小樽市民の人気を呼んでフル回転の忙しさ。和光学園の作業の中で最も高い売上をあげています。利益は100%働いたみなさんに還元されるシステムで、パンショップでは1人あたり年間30万円とのこと。焼きあがったばかりのレモンパンはふんわりと爽やかな香りが口一杯に広がります。これはチーフの小黒(おぐろ)栄さんがアイディアを積み重ねた「きまぐれメニュー」50余種類のうちのひとつ。「パンづくりは趣味ですから」言葉少なに語る小黒さんに、和光学園職員の心意気を感じました。

イメージ(おいしく出来たよ。)
おいしく出来たよ。

さて昼食の時間。それぞれお盆を持ってカウンターでおかずとみそ汁を受けとり、ジャーから自分でご飯をよそって、自由に席に着きます。当り前の光景ですが、この形を学園に導入、定着させるまでには、発想の転換と根気強く段階を踏む試行錯誤が必要でした。

イメージ(食事はセルフサービスで(和光学園))
食事はセルフサービスで(和光学園)

「70人の食事を全部テーブルの上に並べるとなると約30分かかります。当然、温かいものがさめてしまう。こういう食事の仕方が本当にいいんだろうか。あたたかいうちに食べることは本当にできないんだろうか、やってみよう、ということになりました」。

最初は日曜日の朝だけ。それから少しずつ増やして、現在は365日朝昼晩すべてセルフサービスで40分間のうち好きな時間に食べられるようになりました。

「ごく当たり前でしょ、なにも不思議でない。それなのに施設ではできないことがたくさんあるんです。本当はこうなんだということが、本当にできないのかどうか。それをするのが私たちの仕事だと思えばけっこうできることもある。凝り固まった観念を常に取り払って知恵を働かせる必要があります」と、山崎さんは話します。

イメージ(実習先で、手さばき軽く。)
実習先で、手さばき軽く。

職員の方が同行する引率実習はいつも希望が多く、交代で参加します。和光学園の作業実習生の受け入れや知的障害者の雇用をすすめているワタキュウセイモア株式会社北海道支店は、シーツ、ふとんカバーなどをホテル、病院、施設などにリースする会社です。山積みされたタオルをたたむ作業。これだけは人間の手作業が一番早いのだそうです。

実習には勉強という側面のほかに、外から認められているという意識から情緒が安定するという効果があるそうです。

イメージ(ガラス工芸班・吹きガラスでグラスをつくる(和光学園))
ガラス工芸班・吹きガラスでグラスをつくる(和光学園)

ガラス工芸班が昼食後の散歩からもどってきました。日中はこうして作業班単位で行動します。さて作業開始。この日は注文を受けた400個の文鎮づくりです。真っ赤に溶けたガラスをポトリ、ポトリ、丁寧な作業が進められます。長い管をあやつる吹きガラスの技も確かです。それにしても高温の炉やガラスを扱う、危険もありそうな作業に、あえて学園で取り組むのはなぜでしょうか。山崎さんが説明します。

「地元小樽の産業に関連すること、オリジナルのものを作れること、販売できること。新しい作業について考えた先にガラスがあったのです。職員はあきれた顔をしてましたけど、そこで辞めたら結局また知的障害者は限られた中でしか活動できないということになります。やってみなきゃわからない。誰でも出来ることは、知的障害者にもできるという気持ちもありました。苦労するのは職員ですね。ガラスにしても、パンづくりにしても、1年とか2年とか、プロに弟子入りして技術を身につけるわけですから」。

生活にゆとりと楽しさを 福祉が模索する新しい方向性

在宅知的障害者デイサービスセンター「ウェルサポート和光」。この施設が行うサービスは、1991年(平成3)9月、厚生省が定めた「在宅精神薄弱者デイサービス事業実施要綱」に基づいて小樽市が和光学園に委託している事業で、全国でもまだ数少なく、道内では現在3ヵ所が取り組んでいます。オセロに熱中するひと、花火の切り絵を製作中の「和光の山下清」さん。みんな楽しそうです。この新しい分野には山崎さんも大きな期待を寄せます。

「これまで知的障害のみなさんは何かしら仕事をおぼえて社会に出るということしかやってこなかったんです。いつもいつも訓練、作業、仕事というのはつらいことですよ。デイサービスは作業や指導や訓練が目的ではありませんから、それぞれに趣味の活動やレクリエーション、季節に応じて外へ出かけるなど、楽しいわけです。作業だけが全てじゃない、これが出来たことでぐんと幅が広がりました」。休館は月曜日。土曜の夜、日曜日も開いています。

イメージ(木原槇枝さん)
木原槇枝さん

和光学園の近所に住む民生児童委員の木原槇枝さんは1927年(昭和2)生まれ。10年前からボランティアグループ「翔の会」をつくって学園を応援しています。園生を招いての食事会、月に一度のおやつづくり。学園の体育館で行われる「クリスマスを祝う会」の装飾は、毎年みんなが楽しみにしています。会の名前は、障害者も社会にはばたいてほしいという願いから。「メンバーは学園のそばに住んでいる人ばかり10人、足元から始めた会です。そのほうが呼びかけや連絡がしやすくて、お互いの事情もよく分かる。近所だから園生と顔を合わせる機会も多くて、ふれあいが密になります」と木原さんは話します。

異業種との交流を通じて地域社会を変える試み

イメージ(和光学園)
和光学園

日本の福祉が大きく変わろうとしている現在、公共的事業を担う民間団体は、経営基盤の大きな変化によって、発想そのものを変えなければならない事態に直面しています。

「30年前、私たちが銀山学園を始めた1970年(昭和45)には、70人募集に対して200人の応募がありました。およそ3倍の申し込みがあり、当時、野村さんと話しあって一番困っている人から順に受け入れることにしました。ところが今は、空きがあっても入所者を探すのが難しい時代になってきました。少子高齢化で子どもの数が少ないですから、お子さんに障害がある場合、手元において、小規模作業所や施設の通所部門などに親元から通わせることができるようになりました。入所施設が今すぐなくなっていいほど地域福祉が充実してるわけではありませんから、入所施設は必要です。ただ、サービスの質を高め、入所者が良かったと思えるような、あるいは保護者も安心できるような、開放された施設になっていかなければなりません」と山崎さんは話します。

若い人の多い和光学園では、入所者同士の恋愛も難しい問題のひとつ。ほどほどに、というわけにはいかないのが恋ごころです。また、園内の出来事について、どんなことでも父母への説明を徹底させることが、信頼関係を築くうえで大切だということです。

今年5月に成立した社会福祉法によって、これまでの措置制度が変革され、2003年(平成15)4月1日から措置費が利用料に変わるということが決まっています。措置から契約の時代へ。これは福祉施設にとってとても大きな変化ですが、かねがね、さまざまな改革に着手してきた和光学園にとって、このような時代の要請は望むところ。利用者の声を聞く「なんでも意見箱」の設置や、学生を宿泊させ気づいたことを指摘してもらう「学生モニター制度」など、次々と新しい試みを打ち出しています。

また、福祉を必要とする人達について、福祉関係者だけで話し合うことが、従来のパターンでした。山崎さんはそれではいけないと考え、異業種の人とも積極的に交流する場として北海道中小企業家同友会に参加しています。

福祉の関係者と地元経済界が本音で話しあえる環境を自然のうちに創ることが重要と考え、山崎さんは講演会の開催を企画しました。北海道中小企業家同友会小樽支部が主催するこの催しは、来る11月6日(月)午後6時30分から、和光学園体育館で行われ、電子部品を製造する株式会社富山ハイテック(富山市)社長の山下順一さんが「競争から自発性へ、自分新記録を目指そう。障害者雇用から学び実践していること」と題して、自らの経営理念と実践事例について講演します。

「事業所のために、従業員のために、障害者本人のために、事業所の中で出来る仕事は必ずあります。障害者を雇用して業績をあげている事業所は、色々な面で輝いている。日本でも近い将来、企業の地域貢献、社会貢献が問われる日が来ますからね。経営者の意識が変わると、やがて従業員の意識が変わっていきます。1人の障害者を雇用することが、やがては地域社会を変えることにもつながります」と山崎さんの夢は広がります。

社会福祉法人 後志報恩会

理事長 佐野康治
法人本部 銀山学園 余市郡仁木町銀山2丁目134番地
電話 0135-33-5311

沿革
1970年 5月 社会福祉法人札幌報恩会 銀山学園J設
1971年 4月 銀山学園定員増
1984年 4月 大江学園開設
1986年 8月 大江学園ふきのとう(地域共働作業所)開設
1989年 1月 大江学園定員増
      3月 銀山学園地域交流作業所ドライフラワー開設
      8月 社会福祉法人札幌報恩会より分離独立 社会福祉法人後志報恩会設立
          銀山学園・大江学園社会福祉法人後志報恩会に分離譲渡
     11月 銀山学園地域交流ホームふれあい開設
1990年 9月 北海道立和光学園社会福祉法人後志報恩会に移管
1991年 4月 和光学園通所部開設
     7月 知的障害者地域生活支援事業開設(グループホーム) 大江学園通所部開設
1993年 4月 通所授産施設シェアリング和光開設
1994年 4月 知的障害者地域援助センター活動事業の指定を受ける 北海道単独事業 和光学園
      7月 大江学園陶芸館(喫茶店)開設
1995年 4月 和光学園通所部定員増
1995年 4月 シェアリング和光分場(パンショップ和光)開設
1996年12月 銀山学園老朽(移転)改築
1997年 4月 老人デイサービスセンター(D型)開設
1998年 4月 ウィリング和光開設 ウェルサポート和光開設 福祉ホームマリンシップさくら開設

事業内容
知的障害者更生施設
 銀山学園(重度:入所定員140名/通所定員5名)
 大江学園(高齢者優先:入所定員50名/通所定員5名)
 和光学園(軽度:入所定員70名/通所定員15名)
知的障害者授産施設(通所)
 シェアリング和光(手づくりパン・定員20名)
 パンショップ和光(シェアリング和光分場:定員7名)
 ウィリング和光(宅配弁当:定員20名)
在宅知的障害者デイサービスセンター(小樽市委託事業)
 ウェルサポート和光(定員1日15名)
知的障害者福祉ホーム
 マリンシップさくら(定員10名)
知的障害者地域生活支援事業
 グループホームふれあい、長橋寮、弥生寮、新桜町寮、こぶし、手宮寮
 生活実習寮 きらら、どーも、桜寮、信田寮
知的障害者短期入所事業
 銀山学園、大江学園、和光学園各施設実施
知的障害者地域援助センター事業
 (和光学園/北海道単独事業)
老人デイサービスセンターえんれいそう
 (銀山学園/仁木町委託事業)

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