十勝の大地は広大だ。
カラマツ、カシワの防風林。はてしなく続くビート、豆、馬鈴薯の畑。まっ黒でほくほくと肥沃な土壌とグリーンのつやつやと輝く葉が、規則正しいストライプを描いている。放牧牛とタワーサイロ。刈りとられた牧草が四角い束にまとめられている。中札内村。帯広市の南西、国鉄広尾線を28キロ南下する。大きな幾何学模様を左右に、整備された農道を車で走り抜ける。中札内は、畑作と酪農の典型的な十勝の農村だ。
じりじりと照りつける内陸性の暑さも一気に終わりを告げると、青あおとした豆も枯色に変わり、やがて実りの時をむかえる。ドイツから輸入したという大型コンバインやハーベスターが活躍している。
中札内は、1970年(昭和45)から急速に農業生産高を高め、現在、10アール当たりの農業粗生産額8.1万円(十勝平均5.6万円)、牛1頭当たり乳量6,386キロリットル(十勝平均5,570キロリットル)、十勝の農村のなかでもトップにある。
中札内の土壌はけっして恵まれてはいない。火山灰土壌で粘土分が少ない。土壌の組織も荒く、地味はやせている。また、気温の差は激しく、冬は零下30度にもなるが積雪は遅く、土壌凍結や表土流亡をまねいている。しかも化学肥料に頼っていた農業。化学肥料により土はやせ、地力は戻らない。
このような悪条件のなかでの今日の成果は、中札内の人々が協同の精神で取り組む、村一体となった地域循環有機農業によるものといえる。
モスグリーンの巨大なタンクが見える。養鶏団地や養豚団地、牛舎から排出されるふん尿を溜めておくスラリータンクである。直径18メートル、高さ5メートル、1,000トンが貯蔵できるタンクと400トンのタンクが、合わせて22基ある。
酪農家からでるふん尿をスラリータンクに貯蔵する。有機質肥料を求めている畑作農家に、そのふん尿をバキュームカーで畑に散布する。逆に畑作農家からビートパルプなどが飼料として酪農家に提供されるという、中札内独自の循環システムだ。これを地域循環有機農業と呼んでいる。
土壌管理は、知的、科学的なものだ。仮にそのノウハウを持っている篤農家でも、1人ではその実行がむずかしい。畜産専業農家と畑作専業農家との複合化によって、初めて大規模に、地域全体が協同してすすめる有機農業が可能になった。
「有機肥料が土にとってよいことはわかっているが、大規模に行なう方法が見つからなかった。1軒の農家で畑もつくり牛も飼うというやり方では、効率も悪く、農民はいつまでたっても重労働から解放されない。ましてや地域全体の土づくりも広がらない。スラリータンクを動脈とするこのシステムで、いま、10アールあたり1.8トンの有機肥料を投入することができるようになったうえ、コストダウンにもつながった」と中札内農協の麻生勲参事。
37ヘクタールの畑を経営する山田辰春さん(45)は10年前から計画的に有機肥料を投入してきた。
「うちの畑のビートの反収は5トン。だんだん反収はあがってきている。すぐ隣の更別村の友達に、ビートの反収が1トン違うとうらやましがられた。いまは土づくりに力を入れ、土に投資をしている時期」と語る。畑を財産としてではなく生産手段として考えている。綿密なコスト計算を経た有機質肥料の投入だ。
1964年(昭和39)、1966年(昭和41)、北海道は連続して大冷害に見舞われた。豆が8割の中札内は手痛い打撃を受ける。豆は冷害に弱いだけでなく、投機的性格が強く市場価格も変動する。地力を吸いとる作物でもある。
その反省から、中札内では「3.3農法」を考え出した。酪農と飼料3分の1、馬鈴薯やビートなどの根菜を3分の1、豆作を3分の1として、経営の安定を図り、輪作というローテーションをとり地力を回復させる方法だ。
「農業にもノウハウがある。農業は技術です。私は技術屋になりたいと思っている。農家はバカでもできるといわれた時代がありました。しかし、いまの農業は技術屋でなければできません」と山田さんはきっぱり。
「馬鈴薯・ビート・乳量ではアメリカやEC諸国との技術の差、農作物の品質の差はありません。いや、むしろ追い越したといえる。しかし、機械や肥料は輸入すると2倍、3倍の価格になる。日本の農民は外国より何倍も高い機械と肥料で競争をさせられているため、コストだけは国際競争にかないません」
農家の置かれている現状を国際的視野で話す。
養鶏を営む大谷正蔵さん(60)。「有機農業を村一体となってとりくむプランを持っていた中札内にいたからこそ、これだけのことができた」と語る。
クリームイエローの2階建ての建物が3棟。『ジー・ピー・ファーム』と名づけ、2軒で共同経営している。ここで飼っている鶏は7万羽。年間1千トンの卵を出荷し、売り上げは2億円。
1978年(昭和51)、2億円の設備投資をして近代的な無窓高床式の養鶏舎を建てた。換気、給餌、給水、すべてが自動。上から下へ空気を流し、ふんが鶏の体温により乾いて自動的に下に溜まる方式。鶏ふんをここで2年間醗酵させる。畑作農家は鶏ふんを取りに鶏舎にトラックを横づけする。乾燥した鶏ふんば扱いやすい。
13年前、当時24歳だった長男の正広さんがアメリカで1年間研修。大谷さん自身もオランダ、イギリス、フランス、カナダ、アメリカヘ視察に行き、鶏ふんも利用する鶏舎を研究した。鶏ふんと畑作との関連を最初から位置づけている。
農協に2億円の経営計画書を提出。おりしも、全国的に養鶏経営は悪化し、他の町村では養鶏の計画は縮少に向かっていた。しかし、中札内農協は「思いっきりやれ」とバックアップしてくれた。
1羽当たりの設備費を計算すると、昔ながらのスタイルの鶏小屋も2億円かけた近代的な設備も、結局同じだということもわかった。ここでも綿密なコスト計算が貫かれている。
畑作農家の山田さん、養鶏を営む大谷さん。それぞれは専業として地域とかかわりながらも、中札内のトータルなビジョンをふまえた土づくりを考えている。「3.3農法」から、さらに中札内全休の農業発展と土づくりをめざした地域複合農業へとすすんでいるのである。
このように村の人々が一体となった広域な土づくりが、中札内ではなぜ可能だったのだろう。それはこの30年間の中札内農協の歴史、農村の民主化と農民の心を解き放す運動の歴史を知らなければならない。
1948年(昭和23)に発足した中札内農協は、1953年(昭和28)、大きな負債をかかえて役員は総退陣した。そのあと、新しい農協づくりに立ち上がったのが北海道農民同盟系の人びとと、農協青年部の若者であった。
戦後の一連の民主化は、村民、とりわけ青年層に大きな影響を及ぼした。激しい労働で1日が終わると、だれかれとなく集まり、炉端に座り、一杯飲みながら、彼らは明日の農業と村づくりについて語りあった。家父長制の色濃く残る農家では、青年たちは労働力の実質的な中心ではあっても、農業経営に対しても、地域でも発言権は弱かった。
そうした青年たちのすぐれたリーダーとして登場したのが梶浦福督(よしまさ)さん(71)―現中札内農協名誉組合長―だ。
梶浦さん一家は、梶浦さんが7歳の時、砂川から中札内に入植した。
「朝の4時から日がとっぷり暮れるまで農民は働いている。決して怠けているわけではない。しかし生活は苦しい。いつも、いつの時代も農民は貧しい。なぜだ。なぜなんだろう。そのことをずっと考え続けた人生だった」と梶浦さんは語る。
外に目を向けると、道路工事をしているタコ労働者たちの姿があった。彼らも死と隣り合わせで1日中働いている。何かが間違っている。
「ただ、やみくもに働くだけでは駄目だ。機構を、農民の、労働者の働きを吸い取る大きな機構を変えなければ…。それが子どものころから体に染みついていた」
正義感の強い、勉強家の少年だった。
梶浦さんは40歳の若さで中札内農協の組合長を引き受け、1984年(昭和59)の退任まで31年間、中札内の農業を、十勝有数のレベルに引き上げるのに大きな役割を果たした。
若き組合長は、“自助・協同・民主・公正”のロッチデール精神にもとづいて、「協同組合の原則」に立ち、村の民主化、農協の民主化に情熱を燃やした。
最初に取り組んだのは、村の農事組合を生産小組合にすることだった。
「習慣と伝統から抜け出せず、合理性も科学性も入り込む余地のない農家」集落、農協、団体、自治体、国家、それらの「いく重にも張りめぐらされている目に見えない農家の心の規制を取り除くことを考えて」(梶浦)生産を重点とした小組合をつくったという。
当時、地域の会合というと、一家の戸主だけが集まるものだったが、その場に婦人や青年も参加させるようにした。婦人、青年が農業経営を学ぶ場を広げ、自主的に生産と生活設計を考える道が開かれた。農民の心を解放する、意識を変えていく―並大抵のことではない。
「新しい組合長はヘンなことを言いだしたゾ」「何をするもんだか」と村の長老たち…。
梶浦さんを先頭に、農協の職員たちは、毎日毎晩、自転車で農家を一軒一軒、歩きまわった。炉端に座り込んで新しい農業、新しい農家のあり方を話して歩いた。「話し合うなんてもんじゃない。もうケンカだったよ」梶浦さんは当時を思いだして愉快そうに笑う。
家父長として家族に君臨していた男性が、対等平等に家族と話し合うというスタイルは一朝一夕にはつくれない。頭でわかっていても、つい怒鳴りだすという場面も展開されただろう。しかし、小組合の会合へ参加することにより、婦人も農業経営に意見を述べるようになり、農協の青年部は活発になった。
「農民のレベル以上の農業は存在しない」と農協は自ら学ぶことを推進した。小組合のなかからもちあがったテーマで、学習会が開かれた。農協はテーマに適した講師を派遣する。また、冬期間、家の中にとじこもりがちになる農民のため、農協ではブルドーザーを3台購入し、除雪作業を行ない学習活動を助けた。しかし「農協側から一方的にテーマを決め会場を設定して村人を召集するということはなかった」と、当時の農協幹部職員のひとり、西山茂さん(中札内村農業講造改善指導員)は振りかえる。
中札内農協は1958年(昭和33)農家の法人化を推進し、この年、3法人が誕生した。家計と経営がごっちゃになっている農家。「おヤジは馬そりに小豆を積んでいき、それをカタにパァッと帯広で飲んでくる。これは会社なら横領になる」と西山さん。収益、利潤、経費を区別する感覚がない。
しかし、毎日の農作業の中で伝票をいちいち切ってはいられない。それを農協が代行。1軒1軒の損益計算書、貸借対照表ができあがってくる。夫と妻の口座それぞれに“給料”がふり込まれる。作物別のコストも一目でわかる。中札内の人びとはいつの間にか収支決算もわかるようになった。自分の農業経営を管理できる農民に生まれ変わっていった。
昔、「農民のいちばん気持ちのよいのは隣の家の蔵がつぶれること」といわれた。そうした“狭い心”の農民を、生産と生活を分離し、農業経営を計量化することで、隣近所と率直に経営の話ができ、協同して農業をすすめられるような農民に変えていこう―それが法人化の目的だった。現在、中札内の法人は47。法人化は個人の自由で、法人化をとらずとも山田さんのように数字に強い経営感覚を身につけた農家も生まれている。農協の購買部を廃止し、婦人を主体とする生活協同組合を発足させた。生活物資を購入する婦人が、生協を自ら組織・運営することで、いっそう社会的活動の場が広がったのである。
小組合の理念は、農協の強力な指導と法人化によって、また一歩前進した。
「地域的な連帯がなくては、畜産農家から出る有機物もただの“廃棄物処理”になってしまう。使う相手の身になって、大きく農業を考えられる人づくりがあったからこそ、中札内の土づくりは成功したのだろう」北海道畑作経営技術研究所の江崎克美さんは、中札内農業をこう語る。
農業は、体力や伝統ではない。協同組合精神を貫き、村民のこころがひとつとなった土づくり。土壌学、植物学、動物学、遺伝学、これらの高度な蓄積による科学的な管埋。中札内の人々は、たゆまぬ努力と知力で地域循環有機農業による“土づくり”に成功したのである。
そして中札内農協は、いま、「新農業団地」構想という大胆な青写真をかかげている。農業経営理念の合う者で、自由契約による土地の共同利用。農家が現在使用しているトラクターなどの農業機械を3分の1に減らす機械銀行・機械センターのシステムづくり…。「新農業団地」構想にはNSA運動と副題がついている。Nはノウハウ―未開発分野のシステム化、Sはソフト―技術の高度化・能率化、Aはアタック―攻める農業。あくまで国際競争に勝つ農業づくりが、そこには描かれている。
『ぼくは、トラクターにのるのが、だいすきです。大きくなったら、おじいちゃん、おとうさんのようにトラクターのハンドルをにぎって、はたけに、でてみたいです』(田中伸和くん)子どもたちは、父を、祖父を、あこがれと誇りをもってみつめている。「人間をはぐくむのは大地であり、農業です。大地と農業を大切にしない国は、けっして人間をも大切にしないでしょう」江崎さんは静かに語る。
人口・3,947人
戸数・1,044世帯
農家戸数・273世帯
面積・29,207メートル
農地面積・6,400メートル
農家一戸平均経営面積・23ヘクタール
農家一戸平均粗収入・2,967万円
主要作物・豆、馬鈴薯、ビート、麦、飼料作物
飼養家畜・乳用牛、肉用牛、豚、採卵鶏、ブロイラー
●畑作と畜産の研究所
1959年(昭和34)北海道畑作経営技術研究所設立。1984年(昭和59)中札内村畜産研究所設立。それぞれ北大矢島武名誉教授、帯広畜産大学西村正一教授を所長とする。村と農協が2分の1づつ経費を負担し、研究の成果はすベて組合員に報告、還元している。
●十勝産業(株)
1962年(昭和37)設立。農民の手による牛乳の加工流通経路を開発し、“十勝牛乳”の名で、販売。さらに道東一円から斃獣を集め、蛋白質飼料を製造するレンダリング工場、油脂工場、食鶏の精肉処理加工販売、食鶏のスモーク加工工場などがある。
●南十勝合理化澱粉工場
1962年(昭利42)設立。でんぷん製造過程で作られるでんぷんかすに含まれている蛋白質を餌料化し、畜産農家に還元する。南十勝6農協によって運営されている。
●養鶏営農団地
1969年(昭和44)設立。村全体の農業生産構造を立体化し、豚、鶏など豊かな有機質肥料をつくるために、農協がモデルとして整備した。
●農業管理センター
1971年(昭和46)完成。「農業は今まであまりにも管理されすぎた。これからの農業は農業者自らが管理する」という考えから管理センターと名づける。農協をはじめ農業関係機関が入り、農業情報はすべてここに集中する。
●作物別事業部会
1975年(昭和50)麦・豆作、てん菜、馬鈴薯、酪農、畜産の5つの部会を発足。組合員の一人ひとりが得意な分野、または関心のある分野の部会に入り、事業計画・生産計画に直接参加し責任をもつ。組合員全員参加の農協運営をめざす。