北海道には現在、ローカルなスキー場もふくめると、約130カ所のスキー場があります。地域別には、リゾートスキーの一大メッカ、ニセコスキー場群をふくむ胆振・後志・檜山・渡島の道南エリアに20カ所、石狩・日高を道央エリアとすれば札幌市内の10カ所をふくめて約23カ所、留萌と空知を合わせた空知エリアに21カ所。宗谷・上川・網走の道北エリアは大雪山系一帯と夕張山系に属す山々に恵まれ、約40カ所のスキー場がひしめいています。そして十勝・釧路・根室の道東エリアには、日高山脈の北端にあたるトマムやサホロなどのもうひとつのメッカをふくめ、24カ所のスキー場があります。
これらほとんどのスキー場は大自然のなかに造営され、どこまでも雄大な白銀の世界が広がっています。
雪は天からの贈りもの…。大雪山系は、世界的な雪博士・中谷宇吉郎が「雪の結晶」の研究をしたほどの恵まれた自然条件。そのため、黒岳スキー場はとくに、道内でもトップクラスの雪質を誇ります。
「本州から帰って第一に感じるのは、北海道の雪質のすばらしさです」と称えるのは、全日本スキー連盟指導員、北海道アルペンスキー研究会副会長の中浦皓至(こうじ)さん。「日本に近代スキーを伝えたレルヒも称賛したように、北海道は標高1,000メートル以下のコースでもパウダースノーが楽しめ、冬の自然のやさしさを体感できます。もう少し標高が高くて気温が低ければ、雪質はアスピリンスノーになります。その新雪を舞い上げて滑降するのが、北海道でのスキーの最大の魅力ですね」。そして「ゲレンデは平面な二次元の世界。それが新雪になると三次元の世界になるのです。パウダースノーに覆われたダウンヒルを越えてゆくときの軽やかな上下動と、左右に振られるときの感触。二次元と三次元の世界が同時に楽しめるスリルが魅力なのだ」と分析します。
1989年に来日して札幌のテイネハイランドスキー場で2シーズン指導員を勤め、スキー愛好者の陽子さんと結婚後ニセコでアウトドアスポーツの企画と指導をしているロス・フィンドレーさん(有限会社ニセコアドベンチャーセンター代表取締役)も、北海道の雪質のすばらしさを語ります。
「ニセコのように、シーズンの3~4カ月間、毎日のようにパウダースノーが降り、新雪で滑ることができるスキー場は、世界でも珍しいです。私の祖国オーストラリアのスキー場は広いけど、山が低くて暖かく、重い雪質です。それに比べて、北海道はほとんどが1,000メートル級の低い山なのに、適当に寒くて雪質が良い。これは、北海道のスキー場の特殊性だと思います。ヨーロッパやアメリカでも、北海道のような雪質を求めようとすると、標高2,000メートル以上の山に行かなければなりません」。
スキー場にのぞまれる大切な要素のひとつは、アクセスが手近なことです。その代表的なのが、180万都市の住宅地に囲まれたなかにある札幌藻岩山スキー場。
ここは都心からクルマで15分という至近距離の市民スキー場で、標高差214メートルという小さい山ながら、最高斜度35度の上級者向けうさぎ平コースから、斜度8度程度のビギナー向きファミリー、フレンドリーの両コース、詩情に満ちた林間コース、歩くスキー向けの観光道路コースなど11ものコースがあります。もちろんリフト、ロープウェイ完備。ほぼ全コースがナイター営業をしており、アフターファイブのTラリーマンの利用も多いスキー場です。
そのスキー場を自宅の裏庭のように利用している少年たちがいます。
藻岩スキー場の南側山麓の住宅街に住む湧井大雪(たいせつ)君(高2)と弟の晃(ひかる)君(中2)は、父の孝一さんにつれられ、幼児のうちから札幌藻岩山スキー場で滑っていました。自宅前までスキーで滑って帰ってくるほど近く、ナイターもできるので、いまはシーズン券を買ってもらい、学校から帰宅後、気軽に滑りに行くそうです。冬休みともなれば、朝から連日出かけるといいます。
「ぼくは運動神経が特別いいわけではないけれど、スキーだけは人並み以上なのが自慢です。小学生のころスキー学校にも入りましたが、一般の2級まで取ってやめました。どちらかといえばスピードが好き。思いっきりスピードを出して自由に滑るのが最高です」と大雪君。
藻岩山ロープウェイの山麓駅近くに住む関淳之介君(中3)も、朝から夜遅くまでこのスキー場で楽しむスキー少年です。関君も晃君も、ハードなコブが連続するうさぎ平コースがお気に入り。そして関君は「緩やかな斜面ではターンの練習をします」。
その3人が昨年4月、カナダのウィスラースキー場へ行く機会に恵まれ、はじめて海外のゲレンデを体験しました。
「カナダのスキー場は、あまりに大きいのでびっくりした。とにかく規模がちがう」。3人は口をそろえて感動を語ります。
大雪君がさらに、その大きさをこう説明します。「リフトを10本くらい乗り継ぐんだけれど、途中に山の中腹とは思えないような大きなロッジがあって、そこでひと休みしてまた上がるんです。あれは氷河だと思うけど、ゲレンデの最上部につくと、そこはなんともいえない青緑がかった氷の世界なんです」。そして「日本のゲレンデなら2分もあれば下まで降りてしまうけど、、ウィスラーはたぶん最短でも30分は滑っていられると思う。いろいろと分かれ道があって、ガイドがいなかったら迷っただろうな」。
関君も「藻岩山の11のコースはその日に制覇できるけど、カナダは広くてぜんぶのコースに行けなかった」と残念そうです。
関君はまもなく受験。「早く勉強から解放されて、思いきりスキーがしたい」。湧井兄弟は相変わらずスキーに通う毎日ですが、カナダから帰った3人に、それぞれの両親はふとした瞬間、ひとまわり大きくなったように感じるといいます。
札幌藻岩山スキー場のコースは緩急さまざまで、市内でいちばんおもしろいとのこと。「とくに、うさぎ平コースとダイナミックコースからの夜景はめちゃめちゃきれいだよ」。晃君はいま、ダウンヒルを飛び越すジャンプにそう快感を感じているといいます。
大雪君は「スノーボードは友だちに借りてやったけれど、そんなに難しいものじゃない。ほんとうにスピードが出るのはスキーのほうだし、奥が深いと思う。もっとうまくなって、またカナダでプロのように滑りたい」とスキーへの夢を語ります。
人類とスキーの歴史がいつからなのかは、定かではありません。フィンランドの首都ヘルシンキ市にある国立博物館内に展示されている古代スキーは、約2千6百年~2千7百年前のものとされ、さらに4千年くらい前のものも発掘されたといいます。
ただ、暮らしのなかのスキーが冬の遊びになったのは、19世紀になってから。1877年(明治12)にノルウェーのテレマーク地方に最初のクラブが誕生。翌年にクリスチャニアの近くの丘で最初のジャンプ大会が開かれたとあります。これがノルディック種目の始まりです。
日本に近代スキーが伝来されて、90年になります。この間、わが国のスキー発祥については長く論争の的でした。新潟県高田(現上越市)でオーストリアの軍人レルヒ少佐によって開かれた講習が先か、北海道大学のドイツ語講師ハンス・コラーの紹介が先かというものでした。
この発祥史を丹念に調査し、『日本スキー・もうひとつの源流』(北海道大学図書刊行会)を著わしたのが中浦さんです。
「オーストリア軍参謀のレルヒ少佐が、日清・日露両戦争に戦勝した日本の軍事研究を目的に来日したのは、1910年(明治43)11月。スキーの達人で、配属はスキーのできる雪国軍隊にして欲しいと陸軍省に願い出ています。日本軍もロシア出兵したナポレオンが冬将軍に敗北したのを知っており、第13師団長も北欧視察で雪中行軍の交通用具と兵隊の体力向上にスキーが役立つことに注目していました。そこでレルヒ少佐によるスキー技術講習を開始したのです。1911年1月でした」と説明します。
また、「1908(明治41)年7月に来日したコラー講師が、スキーを北海道大学の学生たちに紹介したという説があります。スキーを習得していないコラーがお国自慢の1つとしてスキーのことを学生に語ったところ、実物が見たいと学生たちにせがまれて船便で取り寄せたというのが現在までの事実と考えられます」。それが1909年と中浦さんは推測しています。
たしかに、北海道には高田よりも早くにスキーが存在していたようですが、正規に技術を習得したのではないため、中浦さんは「近代スキーの技術導入は高田が発祥」とし、北大説など北海道のスキー史は「もうひとつの源流」と結論づけています。
レルヒ少佐はその後、1912(明治45)年に旭川の第七師団に転属、さっそくスキーを士官たちに教えました。札幌市月寒の連隊から参加していた三瓶勝美中尉らが札幌の連隊でも講習会を開き、学校職員など民間人にも冬の交通手段として教えました。
一方、コラー教授が取り寄せたスキーを目にした北大の学生たちも月寒の講習会に参加し、全国初の学生スキークラブを発足させました。第1回総会は1913年(大正2)2月、冬山登山をかねて藻岩山山頂で開かれています。
若者の遊びごころは、ときとして何かを生み出します。この北大生たちのエネルギーとアカデミックな考え方は、その後1914(大正3)年2月に第1回のスキー大会を、1920年(大正9)には北大スキー部が主催する、札幌と小樽の中学校(現在の高校)スキー大会を開催させました。現在の全国高校スキー競技大会の前身となる、日本のスキー競技史上のエポックといえるものでした。
1972年(昭和47)の第11回冬季オリンピック札幌大会は、道内選手が70メートル級ジャンプでメダルを独占するなど人びとに大きな感動を与えるとともに、「歩くスキー」の普及ももたらしました。
小学校3年生から競技スキーに出場し、札幌市がオリンピック開催を記念して翌年に開催した歩くスキーの催しにも参加した中川信吾さん(故人)が、このスポーツのそう快さを市民にも味わってもらおうと、「北海道トリム札幌歩くスキークラブ」を創設したのです。「クロスカントリー」とか「ラングラウフ」と呼ばれていたこの競技名を、あえて「歩くスキー」と親しみやすい名まえに変えての出発でした。
こうしてその翌年から、札幌市内のあちこちで雪原を歩く人びとの姿が見られるようになりました。市内の南区真駒内公園や野幌森林公園、円山公園、旭山公園、白石もみじ台など19カ所の公園に27コースも設定され、75年(昭和50)秋には「札幌歩くスキークラブ」が誕生しました。76年には1月と2月の2回にわたって「第1回道民・市民歩くスキーの集い」が開催されています。会場は札幌市豊平区西岡の冬季オリンピック記念距離競技場。参加者は400人を超え、そのなかに堂垣内知事夫妻の特別参加もありました。
「札幌歩くスキークラブ」は1978年(昭和53)に「北海道歩くスキー協会」(現会長・立花勤)に発展し、この集いは5年後には1,300人を超すほどに成長しました。
「ヨーロッパの雪国では公園のなかにほとんど必ずクロカンコースが造られ、夜間照明設備があって、愛好者は仕事が終わったあと自分でスイッチを入れて、楽しんで帰るといった利用のしかたをしています。オリンピックを契機に、北欧などでスキーの原点として親しまれているこの競技を、札幌市民たちも認識したのでしょう」と、現副会長の大口明夫さんは語ります。
また、有限会社ダイヤワックスの代表取締役で事務局長を務める新倉敬子さんも、「協会同様、当社の歴史が北海道の歩くスキーの歴史そのもの」と振り返ります。
「当時は歩くスキーの用具を生産するメーカーもなく、当社がはじめて窓口としてフィンランドから用具を取り寄せたのです。それが商売となって、いまに至ります」。
「道民・市民の集い」は、今季で第26回を数えるまでになりました。「多くの人は、冬のジョギングとして手軽に楽しんでいます。歩くスキーは大地のいちばん低いところで楽しむ種目ですから、リフトなどの設備も不要です。体力やスキー技術に自信がない人でも大丈夫。雪国北海道のすばらしい自然をたっぷりと満喫できるスポーツです。夏には薮が深くて行けなかった森の中にも、スキーを履けば、ぐんぐん奥まで行けるのです。アニマルウォッチングというのでしょうか、いろんな動物の足跡を見つけて彼らの冬の生活を空想したり、寒さのなかでしっかりと成長している樹々の冬芽を見ながら春の訪れを感じるのは、ほんとうに楽しいんですよ」と推奨します。
「私たち協会のモットーは“いつでも、どこでも、だれでも”が楽しめること。子どもからお年寄りまで、気軽に遊びに来てくださいと呼びかけています。83年(昭和58)からは、心身障害者のための歩くスキーも開催しており、そのインストラクターも充実してきました」と大口さん。競技選手OBの中川さんが初代会長でしたから、医療班まで充実した会となっています。
『突風吹きすさぶ頂上めざし、まずはスキーをかついで登る』『息子の穂高ブリザードに倒れる』『下りの馬の背で。もう風も強くはない』『兄の日高、定山渓天狗岳・烏帽子岳・神威岳をはるかにゥて滑降…』『豊羽元山をめざして、穂高と日高、快調に下る。父、母、追いつけず』。井後幸太郎さんの1978年(昭和53)ころのアルバムにはそんな思い出がぎっしりと詰まっています。
祖父から三代つづく郵便局長の井後さんは、日本山岳會員、全道郵政山岳連盟会長で、郵便局の窓口のお客さまも仲間にしている「山の輪の会」の会員でもあります。
かつての北海道では、雪深い集落に郵便を配達するのに、スキーは不可欠な交通手段でした。そんな環境で働く祖父や父親に幼いときからスキーを教えられ、東京の大学時代は別として、長年、道内の山々にも登りつづけています。
「山スキーは登山の延長です。夏山は足で、冬山はスキーで登り下りする。山男はみんなスキーが上手です」。そして「郵便局の職員当時は、日曜休みと半ドンの土曜日、有給休暇など、1年のうち100日は山に登っていました。いまの基礎スキーもふくめ、スキーの原点は山スキーだ」と話します。
「電線やリフトのケーブルもなく、広々しただれもいない風景のなか、澄んだ空気と深雪の感触をからだいっぱいに感じながら一気に滑り降りるそう快さは格別です。山スキーは地形も気象もまちまち。お手本はありません。常に変化するそれらの条件を足の裏に感じとりながら滑るのが私の理想です」と山スキーの醍醐味を語ります。「樹木を縫って滑るときなんかは、ほとんど勘で滑る感じかな。これがほんとの山勘です」と、山男のユーモアものぞかせます。
「ぼくは日高山脈がいちばん奥深い山だと思っています。だから、子どもには日高と穂高なんていう名まえをつけちゃった。子どもに教えるためにスキーを習いにいった妻も、今では藻岩山スキー学校の先生ですよ」。
最近は仕事が忙しいので、以前より機会が少ないのが残念といいます。「定年退職の日がくるのが待ち遠しい。吹雪のなかをやっとの思いで山小屋にたどり着き、暖かい火のそばで酒を飲みながら、ランプの明かりの下で山仲間と語りあい、山の歌をうたいあう楽しさも最高ですよ」と井後さんの山とスキーへのロマンは尽きません。
カラフルなスキーウェアでにぎわうゲレンデ。プロスキーヤーのテクニックをマスターした自分が軽やかにスキーをあやつり、人びとの視線のなかを自由自在に滑りぬける。それは、若者特有の自分自身をアピールしたいという若さの現れかもしれません。そんな彼らにとって、女の子たちと過ごすレストランなどのリゾート的要素も重要な関心事。そして、小さな子どもたちが両親につれられ、はじめてスキーを履く大切な体験には、やはり整備された滑りやすいゲレンデが一般的です。
ここ数年前から、そのゲレンデスキーの楽しみ方にも変化が見られるといいます。冬季オリンピック長野大会で里谷多英選手が初の金メダルに輝いたモーグルなどフリースタイルスキーのファンが急増し、スノーボードも人気です。また、スキーとボードをミックスしたようなテクニックを要するハンズフリー。そして、最近のスキーのトレンドはカービングです。
「最近の板は、カービングが主流になりつつあります。カービングとは“曲がる”のほかに“切る”という意味があり、従来のスキー板よりも先端部と後部の幅を広くして、ターンを容易にしてあります」。ところが、「ターンをしたり停止するスキー技術は、横ずらしをして雪面抵抗を強くするのが本流でしたから、技術の習得の仕方が基本から変わります。いま、サイドカーブに乗り、直滑降と同じように制御ゼロで回転させる技術が生まれつつあります。上級者は用具の性能を活かして楽しむことができますが、初心者がいきなりカービングを使用するのは、暴走車に乗るような危険性もあるのです」と、中浦さんは忠告します。
そんな傾向のなか、基礎スキーの習得を目標にしているのが、北星学園大学スキー部のみなさんです。部員は男子16人、女子12人の計28人。活動は週3回で、2回は遅くまで夜間営業しているスキー場で実技トレーニング。あとの1回は部室でミーティングをおこないます。
部員のひとり、和田明彦さん(4年)は、「世界のトップスキーヤーは常に新しい滑り方を研究し、その成果として世界を驚かす好成績を残すのです。彼らの滑りを学ぶ基礎スキーは、その技術が日進月歩、毎年のように変化します。ほんとうにうまいスキーを習得するなら基礎スキーです」。
そのためには、実技トレーニングで撮影したビデオで自分たちの滑りをチェックしたり、トップスキーヤーの滑りを収録したビデオを見ての研究も欠かせません。
「部員の中には一級の検定をめざす人、一級から指導員をめざす人、全日本基礎スキー大会の入賞をめざす人と目標はさまざま。基礎スキーは理論と反復練習で少しずつ技術を身につけていく種目です。競技スキーヤーはハードなトレーニングを積まなければ生き残れませんが、ぼくらは高度な技術を追求する楽しみをもちながら、社会に出ても体力が許すかぎりつづけられます。老紳士がさっそうと滑り降りてくるのはとてもダンディ」とその魅力を語ります。
そして中浦さんは「スキーの動力は引力だけですが、訓練しだいで意のままにスピードをコントロールできるようになり、面白さが増幅されます。最近は自然を感じながら楽しむネイチャースキーも愛好されはじめました」と、スキーの楽しみ方の幅が広がっていると話します。
また、フィンドレーさんは、「オーストラリア人は楽しむことを大切にしています。日本にきた当初、ぼくの考え方が理解されなくて自信を失いかけたけれど、このごろは各界から意見を求められることもある」といいます。
「ぼくは、もっとさまざまな充実した施設を安価に提供できる社会が育つのを期待しています。もちろん環境保全も考えてね。カービングスキーにしろ、ボードにしろ、なんでも試して自分に合ったものを選べばいい。日本もそういう時代がきたのです。リゾートがみんなの暮らしに浸透したなら、人生はもっと楽しいものになりますよ」。
人間の歴史のなかにはじめて登場していらい、さまざまな世界のさまざまな人びとの営みのなかで生活用具から遊びの道具へと変化してきたスキー。そのスキーはいま、21世紀をむかえて、さらに多様な楽しみに進化しようとしています。
半年も雪に埋もれる暮らしのなかで、たくましい北海道人の心も、克雪から利雪・親雪の知恵をはぐくみはじめました。
そして、地球が多少温暖化しているとはいえ、北海道の雪はまだまだ、ふわふわのパウダースノー。閉じこもりがちな冬こそ、思いきり白銀の世界へ飛びだしたいもの。
スキー王国・北海道の冬は、これからがいよいよ本番です。