―最初に、それぞれ開業された当時の様子からお話しください
高川マキ子さん(以下、高川) 現在の店は、16年前の1984年(昭和59)にスナックをオープンしました。それ以前の勤務を加えると、ススキノとは22年のおつきあいです。でも、お二人にくらべたら短いほうですね。
長谷川義一さん(以下、長谷川) 私も、料理店をススキノで開業したのは1967年(昭和42)ですから、早いほうとは言えません。しかし、商売を始めたのは1957年(昭和32)ですから、山崎さんとほぼ同じころです。
山崎達郎さん(以下、山崎) 私がカクテルバーを開業したのは1958年(昭和33)です。
長谷川 山崎さんとは、中央区大通の同じアパートに、それぞれの住まいがあったのですよ。
山崎 古いアパートでしたがね。
長谷川 その隣りで「レストランはせ川」、向かいの町内で「洋食のはせ川」を開店したのが始まりです。まだススキノへは出ていませんでした。
山崎 私が東京から札幌に来て、初めてススキノの店に勤務したのは1953年(昭和28)です。そのころ、いちばんの繁華街といえばススキノ銀座街、いまのロビンソン裏の通りです。でも、道路はまだ舗装されていませんでした。札幌の人口が35万人で、まだススキノにはビルといえる建物は一つもありませんでした。ビルらしいものが最初にできたのはグリーンビル。「ススキノ0(ゼロ)番地」も早いほうですが、まだできていませんでした。
長谷川 ススキノ0番地は日本住宅公団が北海道に初めて建設した、いわゆる“下駄履きビル”です。
山崎 ススキノにビルはなかったけれども、キャバレーはたくさんありました。いま、日本でキャバレーが営業している都市は札幌だけだそうです。先日、大阪から来たお客が「札幌にはキャバレーがあるんですね」と驚いていました。札幌には、大きなキャバレーが二つも残っています。
高川 まあ、そうですか。よその都市にも、当然あると思っていましたわ。
長谷川 それは、もしかしたら最新情報かもしれないな。いまも札幌のキャバレーが営業をつづけていられるひとつの理由は、札幌という都市の懐の深さがあるのでしょうね。それと、観光客が札幌の情緒のなかに、キャバレーへのノスタルジアを求めつづけているからでしょうね。
高川 以前のことですけれど、お客さまのなかに、札幌へ来るために積立預金をしているという男性グループがいらっしゃったのですよ。1年間、毎月積み立て、そのお金で札幌に来て、飲んで、遊んで―。そのときに、もっとも楽しみにしているのがキャバレー。クラブとか、バーやスナックではないんですね。とにかくキャバレーに行こう。それが最大の楽しみだとおっしゃっていました。
長谷川 お客さんの心情には、懐古趣味的なものがあるのでしょうね。
高川 ショーがあって、女性がたくさんいて、華やかで楽しいんでしょうね。豪華な店内で、グラスを手に持ちながら、手軽にショーを見て、女性たちとも楽しい話ができる。そんな、日常とはまったく違ったひとときが過ごせるキャバレーの雰囲気は、男性のみなさんには忘れることができないことかもしれませんね。
山崎 もうひとつ、本州や地方から来る人が驚くのは、深夜の2時、3時になっても若い女性がなんの不安もないように遊び歩いていることです。そのことの善し悪しは別にして、あのようなことは本州のどの繁華街、たとえば大阪の道頓堀にも、東京の銀座裏、福岡の中洲にもないそうです。
ススキノは、日本のなかでもっとも治安の行き届いた繁華街だと思いますね。でも、まだ少しだけ“暴力バー”といわれるものがありますね。それはほんとうに少数なのだけれども、ときおり新聞ダネになったりすると、ススキノは怖いところだというイメージをお客さんに与え、ほかの健全な店に与える影響が大きいのです。暴力バーといわれるところでボッタクリをする人もそれぞれ家庭があって生活がかかっているため、自分にはそれしか生きる道がないニ思って必死にやっているのだろうと、私は思うのです。その人たちに、もっと安全で長続きする生き方があるということを何らかの方法で教えて、暴力バーやボッタクリの店を一掃すれば、間違いなく、日本じゅうからお客さんがススキノに来てくれますよ。私の夢ですが、ススキノで落とし物をしても必ず出てくるとか、ススキノのタクシーはロンドン並みにマナーが良いなどといった評判が立てば、必ずお客さんは来てくれます。ともすれば、観覧車や遊技施設を造ったりすることが観光だと思われがちですが、じつは、まちぐるみで安全性を高めることのほうが、はるかに集客力があるような気がします。
長谷川 「クリーン・ススキノ」とか、「暴力追放」など、以前から市民団体をつくって一生懸命活動しているのですが、不徹底な部分もあるのか、なかなか浸透しないですね。まるで5月のハエのようなもので、いちど追い払ってもまたいつのまにか来ているという、そんなくり返しなのです。やはり、ある程度、法規制をしていく必要があるかもしれません。その意味では、最近、東京都が発令した「不法客引き防止条例」のようなものを札幌でも導入することを考えるときだと思います。それに、市民が関心をもって、こうした暴力は完全追放しようという機運を高めなければなりませんね。
―ススキノの良さというか、特色についてもう少しお話いただきたいのですが、その前に、ススキノとはどこまでの区画を指しているのでしょうね
山崎 私が札幌に来た1953年ごろは、札幌駅前通りを挟む南4条と南5条の西3丁目と西4丁目だけがススキノでした。そのころ「南6条西4丁目にススキノ0番地があるのだから、それ以上南へは行かない」といった話が冗談ともつかずに話されていたものです。いまは、とんでもない話ですね。中島公園の前までもススキノになってしまいました。
長谷川 ここからここまでと定規で線を引くような固定した考え方ではなくて、まあ、金平糖のようにあちこち飛び出したところもあるといった、柔軟なとらえ方でいいわけです。そこには、4千店前後といわれるほどさまざまな業種の店が営業しており、それぞれの通りや丁目が特色ある情緒をかもし出しています。
ですから、ススキノは百貨店のようでもあるし、スーパーストア的でもあり、またコンビニエンスストア的でもあるといわれるように、いろいろなものが混在しています。しかも、地域的にはひじょうにコンパクトで、はしご酒もしやすいですよ。ちょっと歩けば、すぐ仲小路のなじみの店に行くことができます。また、一軒のビルの中にさまざまな業種・業態の店が同居しているという利便性の高さもあり、まさにファジーというか、ソリューション(融合)というか、そんなところがススキノの特色であり、魅力でもあると思いますね。ここ十数年来、ススキノはホテルの建設ブームがつづいていて、調べてみると、きっとかなりのベッド数だと思いますね。そして、どのホテルもそれなりの入り込みがあるのです。旅行者にとっては夜の時間をじゅうぶんに楽しみ、あとは近くのホテルへ歩いて帰り、すぐ眠りにつくことができる―、こんな便利さが魅力なのでしょうね。
高川 お客さまからホテルの予約を頼まれるとき「ススキノのなかにあるホテルを」と指定されるのですよ。ロビーのドアを開けたら、そこがススキノ―というホテルを取っておいてくれとおっしゃる人がとても多いのです。
山崎 小樽は、運河のある街として全国的な評判になり、昼間は観光客でたいへんなにぎわいです。しかし、その観光客は、みんな札幌のススキノに来てしまい、小樽の繁華街の夜はひっそりしています。私の同業者などは「昼間の観光客が夜もいてくれたらなあ」と嘆いています。
長谷川 ススキノのみどころは、夜だけではありませんよ。ススキノは、明治4年(1871)から大正9年(1920)まで遊廓があったため、それに伴って建立された由緒ある神社仏閣がいまも残っています。神社では、弥彦神社・伊夜日子神社、札幌水天宮、札幌護国神社。寺院では、成田山札幌別院新栄寺、北縁山善光寺、それに豊川稲荷札幌別院、玉宝禅寺祖院などがあります。また、夏、ボートが楽しめる中島公園一帯には、開拓使の迎賓館だった豊平館、茶人小堀遠州の作と伝えられる八窓庵と日本庭園、札幌コンサートホール「キタラ」、北海道立文学館と渡辺淳一文学館などの芸術文化施設。子どもたちの夢をはぐくむ札幌天文台や水遊びが楽しめる鴨々川とその川畔に700メートルつづく「せせらぎの道」や「ほたる橋」、「童話の道」もありますよ。また、158段のたいこ橋と恵庭連山や藻岩山などの大パノラマが展開する幌平橋も、ビルの谷間から出て来てひとときホッとすることのできるビューポイントですよ。札幌観光として時計台や大倉山シャンツェ、羊ヶ丘へ行くのもいいですが、すぐ足もとを見て歩いてもじ繧、ぶん満足できる、感動できるところがあるのです。
高川 ところが、意外に、地元の人がそのことを教えてあげる手だてというか、情報をもっていないのですね。
長谷川 昨年9月に、ススキノを愛する仲間が集まって「探訪縁起めぐり」事業委員会を結成しました。活動の目的は、どなたにも安心してご利用いただける店の目安になる「信頼の目印」マークの加盟店づくりと「安心ワクワク情報&マップ」の配付です。旅をしていて何がいちばんうれしいかといえば、それはやはり人、物、事との出会いなんですね。それらのいい出会いに人びとは感動をおぼえるのです。ススキノの場合、それは安全で安心でき、優しい楽しさがあることだろうと思いますので、私たちは“すばらしい出会いのある賑(にぎ)わいのまちづくり”をしようとしているのです。
山崎 たしかに、自分自身の旅をふり返ってみても、いい旅だったなと思い出すのは、いい出会いのあった旅ですね。
高川 山崎さんは、出版されたご本の中で「一見(いちげん)さん(いちどきりのお客)のもてなしが大切」とおっしゃっていますね。
山崎 一見のお客がなぜ大切かといえば、たとえばその客は鹿児島の人だったりして、もう二度と来てくれないかもしれませんが、この街で、あるいはこの店でいい印象やいい出会いをしてお帰りになると、知り合いのどなたかが札幌へ行くことになったときに、必ずその店を名指しで紹介してくださいますよ。ですから、一見さんは、けっして一回きりのお客ではないのです。
高川 お客さまのなかには、帰り際に「お店の名刺がほしい」とおっしゃるので一枚さし上げると、「もっと、10枚くらいくれ、友人たちに紹介してやるから」とおっしゃってくれる人がいるんですよ。どなたも、旅先では楽しい思いをしたいと考えていらっしゃる。そんなときに、お知り合いから楽しくて安心できる店を紹介されると、必ず期待をもって足を運んでくださるのです。
長谷川 経済環境の変化やお役所の倫理規定のきびしさなどから、ススキノに来てくださる客層や消費志向が変わりつつありますね。私たちは、いまお客さまが望んでいるものは何か。低価格なのか、心のぬくもりあるサービスなのか、あるいはその店独自の特色あるものなのか。そういうことをきちんと自覚し、的確につかんで対応していく努力が必要ですね。
高川 食文化そのものが多様化していますが、お客さまの趣向も多様化していますし、みなさん知識が豊富です。飲み物のことも食材のことも、私たち以上によく知っていらっしゃいますよ。
長谷川 むかし、ススキノは男の場所と言われていました。いまは女性客もたいへん多く、年齢幅も広がっています。
山崎 むかし、女性客といえば旦那が芸者さんを連れてくるのがふつうでした。いまは女性の一人客もけっこう居りますよ。
高川 カラオケ全盛時代がつづきますね。もう何年になるかしら。完全に、文化として定着してしまいましたね。
山崎 文化と言えるでしょうか。カラオケは、歌っている人だけが楽しい。聴かされているほうは、みんな苦労しています。
高川 私などは、カラオケなしで商売ができればうれしいんですけど、お客さまが承知してくれません。従業員も「あら、どうしたの。カラオケ歌わないの? そろそろ歌わない?」などと催促し、あとは水割りをつくっていればいいという、悲しい接客です。カラオケが普及する前の時代の従業員たちの一生懸命さは失われています。
長谷川 TPOかな。カラオケを否定はしませんが、お客や店の状況に配慮して、マナーに心がけながら楽しむことですね。
高川 お酒を味わうお客も、少なくなっていますね。時間を使ってただ飲んでいて、最後に酔えばいいというような気持ちなんでしょうか。
長谷川 山崎さんはカクテルのスペシャリストですから、そのあたりをどのように感じていますか。
山崎 お酒について豊富な知識を持っている人は多いと思います。
高川 でも、ウィスキーの水割りをふつうどおりにつくって差し上げると、ちょっと口をつけて「濃いっ」とおっしゃるお客も多いです。濃いのじゃなくて、本心はあまり飲みたくないんですね。私などは、ウィスキーならロックで飲みたいなと思います。ちょっと口をつけ、香りを楽しんで―、いいなと思います。従業員には、初めてのお客さまには最初は薄くつくって、徐々に濃くしていく。あるところで飲む手が止まったら、また薄くして差し上げなさい、と教えています。
山崎 私どもバーテンダーは、お客さまの好みをいろいろ聞いて、好みに合ったカクテルをつくります。ベテランのバーテンダーなら、最初の1杯目でお客の感想を聞き、2杯目からが好みに合ったカクテルを提供すると思います。バーテンがスタンダードなカクテルを処方(レシピ)どおりにつくるのでしたら、あまり長い修業は必要ありません。極端な言い方をすれば、日本一のバーテンダーがつくったカクテルの瓶詰めを買ってくればいいわけです。バーテンダーが何年も修業するのは、色、味、香りなど、できあがったカクテルのイメージを先に描き、お客さま一人ひとりの好みに合ったカクテルがつくれるように応用できる技術と知識を、経験によって習得することです。しかし、もっとも基礎になるものは、お客さまへの思いやりとサービス精神です。
長谷川 それはレストランや料理店の場合にも言えることです。レストランなら、マスターが居て、チーフが居て、ちゃんとお客の顔を見ながら料理をつくる。年齢や職業柄など、そのお客さまの生活史や文化といったもの、あるいはその時にどんな気分で食事をされようとしているのかなどを総合的に考えて、きょうはちょっと辛口にしたほうがいいなどと味加減を塩梅してお出しする。そこまでいけば本質に近づく、あるいは究極に近づくことになります。バーやスナックの場合も、このお客さまに、きょうはこんな話題を提供しよう、こんな相槌を打って差し上げようとする。それがサービス業の技術であり、心なのです。
高川 私たちのお店では、カウンターやテーブルを挟んだお客さまと従業員という縦の関係だけではなく、お客さま同士の横の関係も生まれます。たまたま横にお座りになった縁で名刺を交換して、ふと、その日うれしかったことを話したら共感していただいたり、共通の話題に花が咲いてうれしくなる。ときには鬱憤を聞いてもらって慰められたりという交流が生まれます。お店に来るなり「この前お会いした○○さん、来ているかい」とお聞きになり、「会いたいな。きょうは来ないかな」などと心待ちにされ、「ママの店に来たから、とてもいい人と知り合えた」などと言っていただきます。そんなときは、こうしたお店の使命と言ったら大げさですけど、存在の意味といったことを感じます。
山崎 お客さんから、たくさん礼状をもらいます。そんなとき、この商売をしていてよかったなと感じます。わたしにとって、お客さんの礼状は宝物であり、勲章なのですよ。
高川 帰り際に「きょうはありがとう、楽しかったよ」という言葉をいただいたときは、ほんとうに幸せな気持ちになります。
長谷川 私はたべもの屋だけど「おいしかったよ、また来るよ」という、このひとことが喜びです。お客さまに、その店でいっときを過ごしていただく時間のなかで、優しさ、楽しさ、おいしさなどに感動していただく。ススキノに働く者はみんな、その役割の一翼を担っていることに、やり甲斐や誇りを持ちたいと思っています。
―長谷川さん、高川さんは、それぞれにユニークな会を結成していますね。その活動などをご紹介ください
長谷川 1998年に、ススキノを愛する純粋で情熱的な人たちが集まって『アラ!あずましい会』という市民グループの会をつくり、私が代表世話人のひとりとなって活動しています。会員はススキノの関係者だけでなく、広告代理店やシンクタンク、建築・設計会社などに勤務する人から家庭婦人まで、地方からの参入も含めて150人を超えています。会のなかにはキャンペーン座会・イベント座会・商品開発座会・地域デザイン座会・共育座会の5つのグループがあるのです。これまでの活動は、「民間活力をススキノから盛り上げ、元気を全国に発信しよう」とシンポジウムを開いたり、コンサートとワインを楽しみながらの洋ラン観賞会、“ススキノ元気、賑わい・おもしろ・懐かしく”をテーマにしたイベント『ススキノ縁市(えんいち)』(第2回から縁起市に改称)を開催しました。雪まつりには、商品開発座会による「わらで編んだ手作りの靴滑り止め」を販売して観光客に好評でした。ススキノには地元自治会や業界団体によって『薄野こうでナイト会議』も結成されているなど、大応援団が“ススキノの賑わいづくり”に燃えていますよ。
高川 ススキノを支えている人の7割は女性たちなのですから、私たちも負けていられませんよね。そこで、1999年3月に『すすきの麗しい会』を発足させました。ススキノで働く女性約120人が会員です。薄野縁市では「麗しい会社中」と銘打って、日本舞踊と三味線演奏を披露したのですよ。また、そうしたイベント参加だけでなく、お客さまが急性アルコール中毒になったときの応急処置などの救命講習会も開きました。さらに、今どきパソコンが使えなくては時代に取り残されてしまいますので、パソコン学習会も始めています。文書を作ったり、インターネットの接続方法を学んで電子メールで交信したり、お客さまの名簿管理や経理への利用もめざしています。会のホームページを立ち上げて、最新情報も提供していくつもりです。