三角山放送局の朝。7時からの放送のためにやってきて鍵をあけ、ひとりで放送を開始したのは西達彦さんです。
「おはようございます。いつもは自転車なんですが、就職試験でスーツを着たのでタクシーにしたら、30分も拾えなくて。準備不足ですが、頑張ります」フレンドリーな呼びかけが、動き始めたばかりの町に広がっていきます。
放送局の名前になっている「三角山」は、円山、藻岩山と並んで札幌市民に親しまれている標高311メートルの小さな山。札幌市西部の住宅街に接し、スッキリした三角の姿は誰の目にも、まさに「三角山」なのです。
「三角山放送局」(〒063-0861 札幌市西区八軒1条東4丁目1-11泰伸ビル1階 TEL:011-621-8610)と命名したのは、この放送局を経営する株式会社らむれす代表取締役の木原くみこさん。木原さんは宮の森小学校、向陵中学校、札幌西高校といつも三角山を仰いで育ちました。旧国道5号線に近い自宅から三角山の麓まで、スキーをはいて遊びにでかけ、スキーで滑り降りて帰宅したということです。そんな木原さんにとって三角山は、かけがえのないランドマークなのです。
「スタッフから三角山放送局なんてダサい!って言われたけど、名前はぜったいこれしかないと思っていました」。
放送開始に続く「今日の三角山」では、三角山を愛し、この山を書斎として街や暮らしをデザインしようとするひとたちのグループ「山と森の散歩道」メンバーが、交代で三角山に登り、毎朝、山頂から携帯電話で様子を伝えています。事務局の石島しのぶさんのお話は、天候、登山道の様子、この季節しかない三角山の表情、カラスの様子など、三角山で見聞きしたことから発想した社会時評が盛り込まれています。開局から3年間、実際に山に登るからこそ語れる鳥の視点なのです。
石島さんは「登るということは、私にとって山の魂をいただくこと。それを感じて話すのと、そうでないのとでは違うと思うんです。忙しい朝、これから出かける人たちに何を話すか。三角山放送局で話して300回以上になりますが、放送を通して、三角山には21世紀の北海道を考えるヒントがいくつもあるということが見えてきました。全道民の3分の1が住む石狩平野を一望にして、何を考えるか。2つのジャンプ台が見えますが、ジャンプ台にはK点というものがある。それは自分の限界点、つまり目標ということです。例えば中学生にそういうことを言いたい。三角山に登ることも、三角山放送局で話すことも、私にとって大切な考えるきっかけです」。
スタジオにつながる喫茶店サンカフェは、マイクに向かうパーソナリティがガラス越しに見える開放的なスペースです。用事のあるひとも、ないひとも、誰でも気軽に入ってくることのできる場所。スタッフが打ち合わせをしていたり、パーソナリティのファンやお友だちが集まってきたり。火・水・金に「謎のパン職人(?)」から届く香ばしい焼きたてパンは、リスナーやドライバー、近所の倉庫でアルバイトをする主婦などに人気があります。数が少ないから早い者勝ち、夕方には売り切れです。サンカフェのメニューは、どれも安くておいしいのが自慢。そして何より、この空間があることによって、様々な人たちがごく自然に三角山放送局を訪れることが出来るという大切な役割があるのです。
さて、ミスター三角山、こと鈴木一平さんが到着。鈴木さんは『水鏡』のヒットや、山木康世、佐々木幸男と共に全国をめぐった「春一番コンサート」などで知られるシンガーソングライター。コンサート活動のほか、他の放送局でも番組を持っているベテランです。毎日入れ替わる三角山ガールズとのコンビで午前中の番組を展開します。
そこへ、今日担当の三角山ガールズ、佐藤美伸(みのぶ)さんから電話です。「早くに家を出たのに、すごい渋滞で、間にあわないかもしれません」。でも鈴木さんはあわてません。やがて駆け込んできた佐藤さんに「なーんだ、居ないのをいいことに悪口いっぱい言ってやろうと思ってたのに」と憎まれ口を飛ばして、元気に番組開始。ニュースからひろった話題、催し物の紹介、スポンサーからとどけられた健康食品の試食紹介など、音楽をはさみながら軽快にプログラムがすすみます。
三角山放送局は、札幌テレビ放送(STV)ラジオ局制作部で20年以上、ラジオ番組制作に関わってきた木原くみこさん(前出)が、退社して設立したイベント会社、らむれす(1993年設立。1997年、有限会社から株式会社に。資本金3,000万円)の事業の一環として、1998年(平成10)4月、2年の準備期間を経て開局しました。放送局のほかに、コンサートや地域のおまつりのプロモート、イベントの企画制作などの仕事を、木原さんを含め5人の社員で切り盛りしています。開局当時の許可出力は、10W、現在は20Wに増え、札幌市西区を中心とするエリアをカバーしています。木原さんはこうふりかえります。
「1年目はほとんど営業活動できず、ひたすら番組をつくることに費やしました。電波って誰かがダイヤルを合わせてくれなくちゃ聞いてもらえない。まだ誰も知らないから、誰も聞いてないんじゃないか、と思いながら放送してました。2年目になってようやく少し営業もできるようになって、3年目でぎりぎり単年度黒字になりました。向こう見ずなところがよかったのかな。よく考えていたら出来なかったかもしれない(笑)」。
不景気で大きなイベントは全道的、全国的に縮小傾向。でも木原さんの会社はむしろ、地域商店街のイベントなど、みんなの顔が見える、きめこまかな仕事が得意です。
「やっと楽しくなってきましたね。放送で知って、商店街のイベントをやってみないか、と言っていただけたのはとても嬉しい。コミュニティ放送局は儲からない、ってみんな分かっているんです。それでもやるというのは、やっぱり何か伝えたいのよ。大きすぎる放送局では物足りなくて、自分たちでやりたいんだ、と思ってる人がそれだけ居るということ。儲かってないとか赤字が多いとか、マスコミでいろいろ言われるけど、そういう価値観じゃないんです」。
放送の合間、合間には、コールサインが流れます。「三角山、放送局、76.2、一緒にね」「三角山の放送局へ、みんなで行こう、一緒にね」。76.2MHzはこの局に割り当てられた周波数。「一緒にね」は、三角山放送局の理念です。木原さんはこんな風に説明します。
「むずかしく言うと共生。共生するためにはひとりひとりが自立して出会うことが必要です。ちっちゃな放送局だからこそ、ひとりひとりの顔も見えて、少数派でも弱い人でも堂々と発言できる。自分の意見をみんなに聞いてもらう、共に生きていくというかたちに出来るんじゃないかということです。ふだん大勢の所で大きな声で言うとつぶされてしまう。それを決してつぶさないというのが、ほんとにだいじなモットーというか、理念ですね」。
三角山放送局では、現在なんと80人のボランティアが入れかわり立ちかわりやってきて、それぞれの番組を担当しています。マイクの前でおしゃべりをする人、副調整室で音楽やCMを流したり、滞りなく番組を送り出す係。生放送の現場は、和やかななかにも絶え間ない注意と緊張感が漂っています。木原さん曰く「うちはしゃべる人はボランティア。バックで仕事してる人はお金がもらえるの。だって、ラジオでしゃべるってとっても気持ちいいことですものね」。
パーソナリティのみなさんは、どんなことを考えながら放送しているのでしょうか。
まず先ほどの、鈴木一平さんは、「仕事柄、20年以上放送に携わっていますが、コミュニティ放送をやって感動したのは、例えばどこそこ通りでおばあちゃんが腰掛けてひなたぼっこしてるよ、とか、どこそこの店で今、何がグラムなんぼで安いよとか、あるいは首輪をつけた犬が怪我をしてうろうろしてたよ、などの情報が寄せられるんですよ。普通、放送ではとりあげませんよね。だけど実際に生放送で呼びかけたら犬の持ち主が探していて、保健所に行く前に助かった、そういうお手伝いが出来たという事がありました。普通、放送はしゃべり手が1人いたら1対多数の関係になっていますが、コミュニティ放送は1対1の関係が出来ているかもしれません」。
「この放送はインターネット放送もやってまして、道外の方や外国からもリアルタイムでEメールが来るんです。私は朝の番組をやってますが、サンフランシスコは今、夕暮れの景色が美しいです、たまたまキャッチできましスって日系邦人の方から。ロスアンジェルスや中国からも来ます。西区を中心として日本や世界とリアルタイムで同じような位置関係になれるんです」。
(インターネットで三角山放送局やFMピパウシの番組を聞くには、リアルプレーヤーなど受信ソフトをダウンロードしてインストールすることが必要です)
鈴木一平さんはさらに、「常連で聞いてらっしゃる70過ぎのおばあちゃんはこの放送局が出来たのがすごく嬉しくて、ことあるごとにお赤飯とか、春だから菜の花の辛し和え持ってきたから、とか、昔で言う向こう三軒両隣という感じになってるんですね。僕たちも、聞いてる皆さんも、しあわせ感を持っていると思います」。
週1回「飛び出せ車椅子」を担当する山本博子さんは1986年(昭和61)2月、夫と夫の友人と3人でスキー場に向かう途中、対向車線から飛び出してきた車に衝突され、運転していた夫は即死。後部座席にいた山本さんは、前方に放り出されて頚椎を痛め、四肢麻痺となりました。事故当時、小学校3年と5年だった2人の息子さんはすでに社会人。住み込みの介護の方とご両親で暮らしています。山本さんの話題には、日常のちょっとうれしい話や、気になったこと、猫の話などが、とてもチャーミングに盛り込まれています。
「改めて何かを調べたり取材したりということは1週間では時間が無いし、エネルギーもないので、自分が経験した身近なことを話すのが最初からのモットー。ふだん何気なくしていることや、耳に入って聞き流してることを、真剣に聞くようになりました。友達が経験したことなんかも、興味深いことは根ほり葉ほりいきさつを聞いて、それを番組でどう話そうかと考えるうちに、ひとごとでなくなり、自分はこんな風に思っているんだって改めて確認したり、そういうことがおもしろいですね」。
「3年前に番組を始めたころは必ず、私は事故にあって手も足も動かないけど、電動車椅子で生活している、って自己紹介を入れてました。でもこの状態があまりにも普通になっているので、だんだん自覚がなくなって言わなくなっちゃった。それはある意味では不親切かもしれないけれど、どこまで不自由なのかよく分からないところが面白いかなと思うんです」。
ダニー千葉、こと千葉正樹さんはオールディーズの音楽番組を担当して3年。みずから「ダニー千葉とパラダイス金魚」というバンドで、三角山放送局恒例のオールディーズパーティを盛り上げます。でも千葉さんの中では、単に好きな音楽を紹介するだけではない番組の目的が生まれはじめています。
「自分が50を過ぎてみると、今の時代、40代の男たちに自分の位置がないような気がするんです。今の日本社会で捨て置かれている、誰も考えてない。今までの喜怒哀楽のようなものを整理整頓したいというか、そういう男ってたくさんいると思う。男ってシャイだから口に出さないけど、けっこうみんなそうなんじゃないのかな。がまんすることないんじゃないか、っていうのが僕のキーワードです。おしゃべりしながら好きな曲をかけて、そういうことからでもエネルギーの源泉のようなものを拾えるんじゃないか、中高年に対する模索をいろいろやっていきたい。おい、おやじたちよ、ちょっと耳をかして、というかんじですね」。
琴似地域のスターとして人気上昇中の深澤雅一さん。中学の頃から、いつかラジオ番組を自分でやりたいと思っていたという深澤さんは、中学、高校、そして大学を中退後、36歳の現在まで、実に30あまりの職業を経てきた出来事や経験を、その都度、書きとめてきたといいます。
「夢があると思うんですよ、ラジオって。パーソナリティの思い、その言葉が本物であればあるほど、ちゃんと伝わってくる。それがラジオの最大の魅力ですね。考えたり、人間がもって生まれた想像力や五感を働かせたり、感性を磨いたり、そういう作業がすごく大事な時代だから、まずは言葉のキャッチボールや、人との出会いや、すぐそばに自分を高めるものがいっぱいあると思うんです。それをラジオを通じて呼びかけていきたい。かっこよくやることないんですよ。言葉がたどたどしくとも、真剣に伝えようと思うと伝わるし、いいこと言っても、思ってないような言葉を言ったって伝わらない」。
深澤さんは昨年秋、琴似の町に小さなお店を開きました。地域を肌で感じたい、出会いや会話を大切にしたい。ラジオで志しているのと同じことをお店でも実践しているのだそうです。今、ラジオでやりたいことの1つは、おとなと子どもが一緒に聞ける番組。「それを、夜やりたいんです。ラジオを通じて家庭内で会話が生まれるような」。
ラジオから朗々とした詩吟が聞こえてきました。『耳をすませば』を担当する福田浩三さんです。福田さんは、網膜色素変性症によって視力を失いました。同じ病気の患者と家族の会「ひまわりの会」を主宰し、病気の原因究明と新しい治療法について道内140人の仲間に伝えるかたわら、3年前から三角山放送局で番組を担当しています。ときには辛口で世相を切る福田さんですが、誠実できっぱりした語り口の暖かさに、多くのファンがいます。
「目が見えなくなったなかで、まわりにたいする感謝の気持ちをいつも持ちつづけたい、みんなにもそれを言い続けていきたいと思いながらやっています。番組の内容は、例えばテレビのドキュメントなど、いい話をテープに録っておき、それを何度も何度も聞いて自分なりに短く縮めたものを話しています。基本的にはいやな話は出来るだけやめよう、いい話をしようと思っています。目が見えなくなったから、多少人間的に丸くなったのかな」。
番組終了に合わせ、西区発寒に営業所のある東邦交通(今井一彦社長)のタクシーが迎えに来ます。社会貢献の一環として福田さんの往復の足を引き受けているのです。
金曜夜の「たけむらのハッピー・ゲイ・アワー」を担当する竹村勝行さん。番組タイトルに堂々とゲイを掲げる番組は、全国にもないのではないか、といいます。みずからカミングアウトして、少数派であるゲイ(同性愛者)に必要な情報を元気にきちっと提供します。けばけばしいオネエ言葉など一切なし。
「ゲイは先天性だといわれ、どんな時代にも、どんな地域にも3~5%は必ずいるといわれているんですが、そういうことがまだ知られていないために、世間的に表に出られないんです。ゲイでもいいんだよ、ゲイは楽しいんだよ、という事を知らせたいと思って、タイトルをつけました。食べ物の話とか、野菜が高いとか、ゲイも普通に日常生活を送っているんだ、という話をしています」。
総合ナビゲーターとして、金曜夜5時間のベルトを取りしきる竹村さん。本当は教師になろうと思っていたそうです。
気がつくと、サンカフェいっぱいに花の香りが広がっています。町の花屋さん、高野栄利子さんがフリージアを抱えてやってきました。琴似で35年以上続く高野生花店はご主人の高野宣行さんで3代目。栄利子さんが手際良くサンカフェのテーブルフラワーをアレンジしながら、三角山放送局との出会いを話してくれました。
「主人の一番上の兄が4年前に亡くなったんですが、もともと電気通信関係の仕事をしていたその兄はどうも自分でコミュニティFMをやりたかったようなんです。亡くなった後、手帳が出てきて、機材がどれだけ必要で、どんな番組を放送したいか詳しく書いてありました。ちょうど兄が亡くなった年の秋、三角山放送局が立ち上げになるということで、偶然お花の注文があり届けに来たのが最初のご縁です。せめて毎週、お花をお届けしよう、と思って。店の仕事をしながらずっと聞いてますから、相当ヘビーリスナーですね」。
手稲東中学校の生徒が総合科目の職業見学で三角山放送局を訪れたことがあります。その時届けられた感想文から。
「特に思ったのは、人に伝えることの難かしさでした。どう伝えれば分かりやすく伝えられるかを、これから考えていきたいと思いました」。
「1人で朝の放送をやっていると聞いて、1人でも、もっとがんばらなきゃいけない、と思いました」。
「私はラジオが大好きだ。聞こえてくる優しい声にいつも励まされ、勇気をもらうんだ。私は学んだ。伝えることに、大きなものも小さなものも関係ないということを。持つ情熱に差はないのである。大切なこと、教えてくれてありがとう」。
「たくさんのボランティアの人が居ることに驚いた。地域とつながっているのに、インターネットで全世界とつながってるのもすごいことだと思った」。
「自分で理解していないことは人には伝わらない。この言葉は私にとってわすれることのできない大切な言葉のひとつとなりました」。
びっくりするほどの理解と洞察にあふれた感想が続きます。
コミュニティFM全国第1号の函館FM放送局「FMいるか」をはじめ、北海道内各地の放送局立ち上げや再編に深く関わり、常々この仕事をライフワークと考えている、有限会社オフィス312代表の松崎霜樹さんは指摘します。
「コミュニティFMは、一般の民放(県域放送)と同じであっては、地域の人が興味を示してくれません。言わずもがなですが、地域密着の情報が必要なのです。またプロがしゃべるのではなく、まちづくりや地域を考えるボランティアなどの活動をしている市民に呼びかけて番組に参加してもらうなど、番組編成や経営面で発想を変えなければなりません。若いスタッフが生活に密着した情報の発信に熱意をもって取り組めるようになるには3年、5年の時間が必要ですし、行政などにコミュニティ放送の公共的役割を理解してもらうにも時間が必要です。市民ボランティアが放送の内容に関わり、その意味や意義を口コミでひろげるなど、開かれた放送局に市民がどんどん入りこんで運営に関する意見を言えるような環境づくりが大切です」。
山本博子さんが言いました。
「みんなすごく違っていて、1人1人のメッセージはけっこう強かったり、ひとりの声だけど大きかったり、主張も強いけど、でも三角山放送局の番組としてはひとつになっている気がします。サンカフェのこういう空間もいいんでしょう、ここに来るとスタッフも会社のひとも、ボランティアでしゃべってるひとも、手伝ってる人たちも、いつも聞いてくれて応援してくれる人も、みんな同じレベルなんです。このひとはファンで、このひとが会社の人間で、このひとは出入りの業者で、とか、そういう枠がぜんぜんない、そこが魅力なんだろうなと思うんですよ」。
開かれた場所、開かれたマイク、しなやかに受容する力、それによって護られている多様性。この放送局の意志は三角山の姿に似て、小さくともくっきりと明快で、朗らかです。