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2001年07月号/第105号  [特集]    サロマ湖

ここでも主力は女性パワー 木を植えるのは漁師のDNA?森と海から生まれ出ずるものは?
木を植えて魚を殖やす

  オホーツク地方のサロマ湖は風光明媚な海水湖です。この周辺はホタテ貝増養殖の成功によって日本でも有数の豊かな漁業地域となりました。そして古くから植林にいそしみ、「お魚殖やす植樹運動」が最も根付いている地域でもあります。現地を訪ね、その運動が意味することを考えてみました。(記事の後ろには、運動を発案し支えてきた柳沼武彦さんのインタビュー記事を掲載しています)

イメージ((北海道地図))
(北海道地図)

オホーツク海にぴったり寄り沿うようにのびるサロマ湖。海と湖は砂州で隔てられ、人工的に切られた2つの湖口が水や船の出入りを可能にしています。海水湖ではあるけれども、北海道一の面積を誇る湖です。

イメージ((サロマ湖地図))
(サロマ湖地図)

湖畔にはリゾートホテルが立ち、キャンプ場も点在しています。名物はサロマ湖に落ちる夕日。ダイナミックな美しさはいやが上にも旅情をかきたてます。そして近年車の乗り入れが禁止された砂州には季節ごとにさまざまな花が咲き乱れる原生花園。自然豊かな観光地です。

そしてもう1つの顔が水産。湖は常呂、佐呂間、湧別の3町にまたがり、漁業協同組合がそれぞれの町にあります。水揚げは湖内、外海を合わせて百数十億円。これは釧路や根室などの漁業基地に匹敵します。サロマ湖周辺は日本有数の漁業生産地帯です。

イメージ(ホタテ稚貝が次々に積み込まれていきます(栄浦))
ホタテ稚貝が次々に積み込まれていきます(栄浦)

訪れた5月下旬、湖に面した各港では漁業者総出でホタテ増殖の作業に懸命でした。湖内で育てられた満1歳の稚貝が集められ、漁協所属の船に積み換えられて湖内から外海へ。沖で放流された稚貝が3年後には大きく育ち、漁獲されます。漁業ではいったん人間の手から離れて自然界で育ち、漁獲されることを増殖、最初から最後まで人間の手によって育てられるのを養殖と呼んで区別しており、この場合は増殖です。

この外海ホタテの水揚げ作業は漁協が行います。組合員が携わるのは稚貝の育成まで。そしてこの事業で得られる利益は配当金として支給されます。にわかには信じがたいことですが、配当はほとんどの組合員に行き渡り、その額は毎年1人あたり千数百万円にもなるのです。

漁業者はホタテ稚貝の生産とは別にサロマ湖内のさまざまな漁業に従事、ホタテ稚貝を施設につるし、大きくなるまで育てる養殖もやっていますし、カキの養殖も盛んです。天然のものでは北海シマエビ、タコ、ウニ、ホッキ貝、カレイ、チカ…。外海の定置網ではサケ・マス、また年によってはサンマが大漁になることも。ホタテ以外にも多彩な漁業を営むことができる、水産界にとっては理想郷のような地域です。

漁協が林業経営で大臣賞 貯蓄と同じ報徳精神だった

イメージ(大臣賞受賞の森林)
大臣賞受賞の森林

サロマ湖の中央部、佐呂間町富武士に事務所を持つのが約70名の組合員で構成する佐呂間漁協。この組合が1990年に農林水産大臣賞を受けました。漁協が水産部門で大臣賞を受けるのは珍しいことではありませんが、受けたのは林業経営という部門。約30回を数えていた賞の歴史で漁協の受賞は初めてでした。

「私はまだ組合に入っておりませんでしたが、昭和34年(1959)に厳しい組合財政の中で山林64ヘクタールを取得し、漁閑期を利用して全組合員が総出で地ごしらえし、3年がかりでトドマツ、カラマツを植えたと聞いています。組合員には報徳精神が根付いていて、少ない収入の中からコツコツ貯金をしていたのですが、木を育てることも貯金と同じ考え方でした」

イメージ(杉本勝さん)
杉本勝さん

佐呂間漁協常務理事の杉本勝さんは、かつての植林が資産形成のためだったと言います。この漁協の組合員は大半がいわゆる外地から戦後引き揚げて入植した人々。植林したころは過剰な漁獲によって資源が枯渇し、漁業は低迷、組合員は生活苦にあえいでいました。

報徳とは二宮金次郎でおなじみの二宮尊徳が伝えた生き方。「積小為大」といった言葉に代表される勤勉と倹約の生活でした。その精神に基づく貯金や植林だったのです。

しかしその後漁業者はサロマ湖内でホタテ貝の越冬試験に成功、大きく丈夫な稚貝の生産が可能となり本格的な増殖や養殖が始まります。またホタテ増養殖という新たな漁業が加わったことで、北海シマエビなど天然資源への依存度は低くなり、資源状態は安定してきました。さらにふ化・放流事業の拡大でサケ・マスの水揚げも増えました。

それに反比例するように、輸入木材の急増などによって日本の森林は経済的価値が下落します。手入れができずに荒れ放題となる山が続出する中で、佐呂間漁協は初めは漁民自ら、漁協経営に余裕が出始めたころからは専従作業員を雇いながら山を維持管理してきました。これが認められての大臣賞だったのです。

常呂川の水を守れ 漁民運動は繰り返される

サロマ湖周辺の町で最も網走寄りに位置する常呂町。この町の常呂漁協は約190人の組合員を擁し、近年は連続してホタテの水揚げ日本一に輝いています。道内でも最も活気ある漁協の1つです。

この常呂漁協でも資産形成のための山は持っていましたが、がぜん注目を集めたのは、遠く離れた大雪山のふもと、置戸(おけと)町の山を買って植林を始めたことでした。

この山のすぐ下にサケ・マスふ化場がありました。ふ化には水温が一定して凍らない湧水が不可欠。ところがこのふ化場の周囲の山は木が切られ、畑になって保水能力が低下、湧水が減少し続けていたのです。これではふ化・放流の規模を縮小せざるを得ません。漁業者は危機感を募り、常呂川の河口から80キロメートルもさかのぼった支流にあるふ化場の裏山を買い取ったのでした。

1988年(昭和63)30ヘクタールを購入。翌年から2年がかりでシラカバ、アカエゾマツを植え、91年には20ヘクタールを追加、翌年シラカバを植えました。

イメージ(置戸町での植林(1990年))
置戸町での植林(1990年)

この植林作業の中心を担ったのが常呂漁協婦人部のみなさんです。それまでもこの婦人部ではサロマ湖周辺の植樹の手伝いなどはしていました。しかし置戸の山は車で1時間半もかかる。浜の作業をちょっと抜け出して植樹、というわけにはいきません。バスで現地に乗り込みました。

長年婦人部長を務めている新谷恭子さんはそのときの感動が忘れられないそうです。

イメージ(新谷恭子さん)
新谷恭子さん

「春漁が始まる一番忙しい時期なんです。でも一面笹やぶでの馴れない作業。『こんな天気の良い日に、よその町まで来て木を植えるくらいなら、お父さんと一緒に船に乗って行った方がお金になってたわ』『私は漁師に嫁に来たんで、木を植えに来たんじゃない』といった声も出ました。ところが次の年にはそんなことを言っていた人が真っ先にバスに乗り込んできました。山では、か弱かった苗木が風雪に耐え緑の葉っぱを出している。感動しました。これは子どもを育てるような女性の本能じゃないのかと思います。それにヤマのカミというくらいで、女性のパワーは大きいですよ」

イメージ((小笠原の森))
(小笠原の森)

常呂漁協ではそれ以外にもサロマ湖のワッカと呼ばれている砂州の一部の土地を購入し魚付き林として植樹、さらに常呂川支流の町の水源地近くにある山林を購入し「小笠原の森」と名づけて整備しています。小笠原とは1999年に亡くなった小笠原敬さんのことで、1938年から60年にわたって組合職員や組合長として働き、現在の豊かな常呂漁協を築きあげた人です。

イメージ(砂州につくられた魚付き林(ワッカ))
砂州につくられた魚付き林(ワッカ)

常呂川は北見市など1市5町を流域に持つオホーツク地方有数の河川。かつてこの川をめぐり大きな出来事がありました。東京オリンピックを目前とした1964年夏、大漁旗やむしろ旗を立てた約350人が町の中心部をデモ行進し、集会を開いたのです。集会の名は「常呂川水質汚染防止対策漁民大会」。当時北見市にはパルプ工場や製糖工場などが進出、工場排水はそのまま常呂川に流れ込んでいました。川は赤く濁り、異臭を放ち、秋には無数のサケの死骸が打ち上げられました。

漁民が決起したのも当然。バスを連ねて北見市にまで乗り込み再度デモ行進、漁業被害の賠償、浄化施設の整備などを求める決議文を関係機関に手渡しました。

回答がないので翌年には再び北見市でデモ行進、事態を重視した網走支庁が仲介に入り、北見市と常呂町との調停という形で決着、パルプ工場は操業できなくなり、紋別市に移っていきました。

常呂の漁業者はそんな歴史を背負っていたのです。

「私たちが常呂川でやっていることは、川全体ではささやかだけれども、漁協がやっていることをほかの人たちもだんだん理解してくれるようになってきました。北海道開発局の考え方も従来とはずいぶん変わってきています」

常呂漁協参事の平出孝幸さんは近年の変化を歓迎します。また漁業者自身の意識変化も起きました。婦人部長の新谷さんは女性たちの環境意識の高まりを挙げます。

イメージ(平出孝幸さん)
平出孝幸さん

「ふだんの生活廃水も雑廃水も、出しているのは女性たちなんです。一時運動が下火になっていた合成洗剤の問題についても、また考えるようになって、石けんが使われ始めています」

こうした活動が認められて、1992年に漁協が朝日森林文化賞、96年には婦人部が全国青年・婦人漁業者交流会で水産庁長官賞を受賞しました。

全道の漁業婦人が決起 全国に広がる運動の輪

常呂漁協が置戸の山を買った1988年の前年、道内の漁業に携わる女性たちの組織である北海道漁協婦人部連絡協議会(漁婦連)は翌年に迫った創立30周年の記念として、ある事業を役員会と総会で決議しました。

「全道一斉に植樹しよう」

仕掛け人は北海道指導漁連職員で漁婦連の担当だった柳沼武彦さんです。

「10周年には札幌大通公園に漁民の像を建立した。20周年は健康活動基金を創設して約1億円を集めた。しかし30周年は漁業全般が厳しい時代で、拠出金で事業を行うのは難しい。そこでかねてから暖めていた全道の浜に木を植える一斉植樹を提案したんです」

柳沼さんの行動はち密でした。総会で了解をとると、全道で研修会を計画、道森林組合連合会に依頼し、講師の派遣や指導などの協力を取り付けました。1年をかけた学習を経て30周年記念大会を迎えたのです。

大会には全道から約1400名もが結集、道森林組合青年部から寄贈された苗木を1本ずつ渡され、苗木は浜に持ち帰って植えられました。その後全道の浜で毎年行われ、全国へと展開していく「お魚殖やす植樹運動」の始まりでした。

常呂漁協婦人部の方々が置戸の山に木を植えたのは、この全道的な記念事業とその後の運動にぴったり重なり合ったものだったのです。

記念大会では「百年かけて百年前の自然な浜を」というキャッチフレーズも確認されました。事前の研修会で留萌森林組合の組合長、木谷辰雄さんが語った「百年ぐらいかけて焦らずやることだ」という言葉をアレンジしたものでした。ねばり強く、子孫のことをつねに思いやる女性らしい言葉です。

イメージ(砂州の魚付き林も女性たちの手で(1988年))
砂州の魚付き林も女性たちの手で(1988年)

植樹運動は大きな盛り上がりを見せ、全道の浜で展開されました。昨年までに漁婦連メンバーによって植えられた木は約52万本。林業から見れば大きな数字ではありません。しかしこれらが全道の沿岸に点在し、一人ひとりが心を込めて植えているとするならば、別な意味があるはずです。またこの運動が全国に飛び火し、漁民による植樹は29道県に広がっています。

イメージ(柳沼さんの近著「森はすべて魚つき林」(北斗出版)と「柳さんのさかなの風うまい風」(北海道新聞社))
柳沼さんの近著
「森はすべて魚つき林」(北斗出版)と「柳さんのさかなの風うまい風」(北海道新聞社)

一方柳沼さんはその後「木を植えて魚を殖やす」(家の光協会)、「森はすべて魚つき林」(北斗出版)そして今年5月には「柳さんのさかなの風うまい風」(北海道新聞社)と本を相次いで出版、著作と講演などを通して運動の定着と広がりに大きな役割を果たしています。

先人は木を見て住み着いた 科学的証明は未だなされず

こうした漁業者の取り組みの思想の元になっているのは魚付き林という発想。木と魚の関係については、これまで多くの研究者たちによって解明が試みられ、それぞれの着想によってさまざまな説がとなえられてきました。しかし組織だった大規模な研究は未だ行われず、明確な科学的証明はなされていません。

全国から注目されている九州、有明海の養殖ノリ異変と諫早湾(いさはやわん)干拓との関係にしても、あれだけ問題が深刻になっているにもかかわらず有効な対策は打ち出せません。科学的解明ができていないことを理由に、事態は日々進行しているのに、潮受け堤防の水門を開くなどの対応がなされていないのです。水系の科学は一筋縄ではいかず、難しいのは事実ですが、組織的な研究を怠ってきたつけが回ったともいえます。

木と魚の関係で有名なのは、植林によって水揚げを増やした襟裳岬の例です。砂漠のようだった土地に草を生やし、樹木を育てて飛砂や土砂の流出を抑えた。土色に染まっていた沿岸域が本来の海の青さを取り戻したのです。

それによってふ化・放流で増えたサケが沿岸まで回遊するようになり定置網の漁獲を伸ばしました。また泥に覆われていた岩礁が露出することでコンブが健康に育ち、それをエサとするウニなどの生物も増えました。

木と魚というより、土砂流出など陸からの悪い影響を断ち切ったゆえの漁獲量の増大でした。

イメージ(船木長太郎さん・薫さん夫婦)
船木長太郎さん・薫さん夫婦

佐呂間町の船木長太郎さん薫さん夫婦は、長く佐呂間漁協の組合長と婦人部長を勤めてきました。財産形成のための植樹も魚を殖やす植樹も先頭で行ってきた2人ですが、大変興味深いむかし話がありました。

大正初期、秋田県から渡ってきた船木家は富武士川がサロマ湖に注ぎ込む現在地に入植しました。周りに一軒の人家もないまったくの未開の地でした。

「親父に、どうしてこんなところを選んで住み着いたのか、聞いたことがあった。親父が言うには、3つの条件でここに決めたそうだ。1つは海の深いところ。それは後ろの山を見れば分かる。山があるということは海が深いということだから。2つめは木がたくさんあるところ。木があれば川水が豊富で魚の発生に適している。3つめは水量が豊かな川があるところは、そのうち上流域が開けて人が住み、交流ができる。その3つのことを考えてこの地に落ち着いたと言うんだな」

2番目の条件は魚付き林の発想そのもの。昔から漁業者は森と魚の関係について身に染みついたDNA(遺伝子情報)のようなものがあるようなのです。しかし証明されていません。

柳沼さんも明確な科学的裏付けがないことを率直に認めます。科学的検証として柳沼さんが最も注目しているのは、厚岸湖のカキとそこに注ぐ別寒辺牛(べかんべうし)川流域開発との関係を調べた故・犬飼哲夫北大名誉教授の研究です。

犬飼氏は若いころ、この川の上流域を調査し、大規模な伐採跡を発見しました。伐採された時期はちょうど厚岸のカキが激減した時期に重なりました。原因はカキが繁殖しなくなったこと。しかし稚貝があれば育つため、厚岸では宮城県などから稚貝を購入してカキ漁業を続けていました。

これについて犬飼氏は森の水温調節機能がなくなり、繁殖できなくなったのではないか、と考えます。

「犬飼先生は動物学者でマガキの専門家でもあったのですが、証明しないままに亡くなられました。木と魚の関係について証明していくことと、森づくり運動をさらに進めていくことが今後の大きな課題です」(柳沼さん)

証明されてはいませんが、森林は川を豊かにし、海に注いで生物を発生させていることは想像がつきます。

常呂漁協の小笠原の森や置戸の山にはこんなフレーズの看板がかかっています。

イメージ((森は海の恋人・・))
(森は海の恋人・・)

「森は海の恋人 川は仲人」

恋人だった森と海が結ばれる。その結果生まれ出ずるのは魚であり、そして人間なのかもしれません。


【お魚殖やす植樹運動の経過】

1987年4月
 道漁婦連30周年記念事業「植樹」を原案に内定。
 道森林組合連合会と協議・申し入れ。
1987年5月
 漁婦連役員会「お魚殖やす全道一斉植樹活動」を決定。漁婦連総会で同決定。
1987年6月~
 全道各地で同テーマの研修会始まる。
1988年6月
 道漁婦連創立30周年記念大会を開催。1,400名参加。
1988年9月
 9月末の集計で95漁協婦人部が参加し73,512本の植樹を確認。
 「一斉植樹活動」を「お魚殖やす植樹運動」と命名。
1992年6月
 北海道林務部が「魚を育む森づくり事業」に別海町西別川を指定。
1994年10月
 漁業白書に道漁婦連の「植樹活動」が記載される。
1994年11月
 道漁婦連の「植樹運動」に農林水産大臣賞(第14回全国豊かな海づくり大会で表彰)
1996年4月
 道林務部苗木助成として道森林組合連合会を通じ「海を育む森づくり事業」始まる。
1997年4月
 北海道新聞社創立55周年事業「魚を育てる植樹運動」支援事業始まる。
1998年2月
 「全国漁民の森サミット」東京で開催。20道県に植樹広がる。
1998年6月
 道漁婦連40周年記念大会協賛フォーラム「森と海の物語」開催。500名参加。
1998年9月
 道民の森(当別町)に「お魚殖やす植樹運動記念森」。
1999年1月
 「全国漁民の森フォーラム」東京で開催。29道県に植樹広がる。
2000年
 道漁婦連植樹50万本突破。


[柳沼武彦さんに聞く]

イメージ(柳沼武彦さん)
柳沼武彦さん

お魚殖やす植樹の中心人物で、指導漁連を昨年定年退職したあとも、講演や本の執筆などで運動を支えている柳沼さん。この運動に駆り立てられた原体験や現在の仕事などを話していただきました。

 西別川での運動が自分の原点
 巨大酪農開発に「絶対反対」
 漁民が勝ちとった環境アセス

私が「お魚殖やす植樹」という運動を提唱し、魚と木について考える原点となったのは、別海町の西別川での経験だったと思います。

1970年代、根釧原野での大規模な新酪農村建設計画が持ちあがりました。森林伐採を伴う河川改修、各種施設の建設、家畜排水など、河川や海への大きな打撃は免れない。当時私は指導漁連根室支所の職員でした。

計画を聞いた根室管内全体の漁業者が総反発しました。当時はサケのふ化・放流が軌道に乗ってきたころで、川の汚れには特に敏感になっていたのです。

村民大会で伐採阻止

別海町では戦後まもない昭和21年、森林伐採反対運動がありました。野付半島のトドワラの中にある魚付き保安林を営林署が伐採しようとして、それに反対する当時の別海村長を先頭に村民大会が開かれた。地元では魚付き林は必要だというのに営林署は「薪の供給は必要ないのか」と迫る。村長は「村民が必要な薪は私が責任を持って善処する」と切り返す。こうして伐採を阻止した歴史があったのです。

新酪農村計画の全貌が明らかにされたとき、その巨大さには驚くばかりでした。農地面積を現状の倍近くに、乳牛は約3倍にする。牛が出すふん尿は人間の50倍と聞かされていましたから、大都市が引っ越してきて、そこに住む数百万人のふん尿が垂れ流しされることに等しかった。

根室管内漁協青年部協議会が「絶対反対」という決議をあげました。この「絶対」という言葉を入れるか入れないかではかなり論争しました。

その後「絶対反対」は青年から親父たちへと広がり、野付漁協定置部会を皮切りに各漁協の定置部会が決議を挙げた。25年前の魚付き林伐採反対運動が引き継がれた、と思ったものです。

川から観た陸の風景

その年の夏に別海漁協青年部のメンバーと西別川をゴムボートで川下りをしました。摩周湖からしみ出た湧水を源流としており、新酪農村計画地域の中心を流れています。

風倒木でゴムボートがパンクし、川に投げ出されるなどのアクシデントを経て4日間かけて下りました。鬱蒼と川に覆い被さる木々の中を蛇行しながら下ったんですが、牛の死骸、ゴミ捨て場、工場からの垂れ流し、生活排水口なども目撃しました。私はそんな様子を八ミリ映写フィルムなどに撮影しました。

運動はその後、管内漁協組合長会に一任となり、川端元治会長が堂垣内尚弘北海道知事に直談判、画期的な「覚え書き」が交わされます。漁民の同意なしでは橋の付け替えも、河川の切り替えも、森林の伐採も許されないという内容でした。

漁民版の環境アセスメントといえるものです。それまでの開発計画は川上の要求や都合だけによってつくられ、形ばかりの合意形成ができてしまって、川下の漁民にとっては寝耳に水というケースが多かった。そんな姿勢を改めて欲しいという願いからできたのがこうした事前協議制でした。

畜産との連携へ

昨年指導漁連を定年退職し、・海と渚環境美化推進機構(通称マリンブルー21)の北海道駐在の技術参与となりました。

現在の酪農は大規模化が進み、融雪期にはふん尿が一気に川に入ってきます。より深刻なのはふん尿による地下水の汚染です。井戸水が使えない状態にもなっています。

漁業でも公害問題が出てきました。カドミウムなど重金属を含んだホタテのウロ、大量の貝殻など、産業廃棄物の処理が大きな課題になっています。

そうしたことを背景にマリンブルーでは農畜産水系連携推進事業を始めました。具体的にはホタテの貝殻を使ってし尿処理や川水浄化などを試みる。日本中央競馬会の補助を受けてオホーツク海沿岸の枝幸町、佐呂間町、網走市で試験が始まっています。

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