19世紀のロシヤの小説家であり、思想家、哲学者でもあったドストエフスキーは恐るべき人間の悪の諸相をえがきました。私が読んだのは昭和45年河出書房刊米川正夫訳《ドストエフスキー全集》全20巻ですが、これはその悪と悪の悲しみを訴える作家の魂が慟哭する書物です。
世に有名な『罪と罰』は金貸し老婆の存在を無意味として殺害する話、『悪霊』は革命を企てる学生達が、仲間の1人を密告者として殺害して組織の結束をはかろうとする話、『カラマーゾフの兄弟』では父と長男とが1人の美女を争う醜い関係を利用して、庶子であり下男の男が父を殺す話などです。
もう1人、宗教、教会、人間権威の一切を否定する懐疑家、そればかりか、これらの主軸の人物をとりまく、軽い知識人、脱獄囚、放火犯、盗賊、姦婦、かぞえあげればきりがありません。そして、それは意識されない生物としての人間の根源の悪であることが示唆されていることに大きな意味があると思われます。
何故こういうものをドストエフスキーは書けたか。かれも天才であることはいうまでもありませんが、何より、死刑を宣告され、のちゆるされてシベリヤ流刑、そのなかでのロシヤ全民衆の種々相を己のものとして体験することができたからでしょう。
そのかれが、全作品の最後に書いたのは『カラマーゾフの兄弟』のなかの白百合の花のごときアリョーシャです。汚濁のかぎりの一家のなかで、かれとかれをとりまくコーリヤなど少年の美しさはかぎりありません。その汚れなきにおいて、やさしさ、寛容において。
西村信というのは、このアリョーシャにほかなりません。西村信を失って、この汚れなく美しき人物を二度と私たちは眼にすることが出来なくなったのです。
編集部追記 西村信(まこと)さんは菓子製造・販売の(株)ニシムラ社長。2000年11月3日急逝されましたが、生前は『札幌文学』同人、『北方文芸』編集委員であり、澤田さんが理事長をつとめる北海道文学館の副館長として、澤田さんと共に北海道文学の発展に尽力した人です。