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2001年09月号/第106号  [特集]    幌加内町(ほろかないちょう)朱鞠内(しゅまりない)

歴史を掘り、歴史をつくる若者たち空知民衆史講座から発展 きずなは国家・民族を超えて
東アジア共同ワークショップ

  北海道の代表的人造湖、朱鞠内湖。この夏、大勢の日本人、韓国人、在日韓国・朝鮮人の若者が集いました。およそ60年前、ダム建設などで犠牲となった人々の遺骨を掘りおこし、その作業を通じて、国家・民族を超えたきずなを深めようという「東アジア共同ワークショップ」です。発掘作業に参加しながら、その活動を取材しました。

ひょっこり現れた韓国人

1989年秋、深川市中心街のフレップという喫茶店で日本人僧侶と韓国人学者が初対面のあいさつを交わしました。札幌を訪れたこの学者が、ユニークな教育をしている保育園があることを聞きつけ、わざわざ深川まで足を運んできたのです。

市内多度志町の寺に併設された保育園に案内された学者は寺の庫裡(くり)に宿泊、そのまま延々1カ月も泊まり続けたのでした。

「最初私は、この男はいったい何なんだと思ったんです。ところがそのあと私たちは、毎晩酒を飲み、朝の3時か4時までしゃべりました。飲まない日は一晩もなかった。私たち2人にはいくつかの共通点がありました。青春時代に学生運動を経験していること、教育とは何かを考え実践していること。私は親友というのは20代の若いころにできるものだと思っていて、40を過ぎて親友と呼べる人間ができるとは夢にも思っていませんでした」

一乗寺住職、殿平善彦さん(55歳)が、現在は韓国・漢陽大学の教授である鄭(チョン)炳浩(ビョンホ)さんとの出会いを回想します。

この偶然の出会いがやがて日本人、韓国人、在日韓国・朝鮮人の若者を巻き込むワークショップへと展開していくのです。

イメージ(殿平善彦さん)
殿平善彦さん

「この関係は我々だけではもったいない。もし日韓在日の若者を集めて同じような経験ができたら、私たちと同じような人間関係が生まれるのではないか。この友情は、単なる個人的な友情だけではなくて、歴史の中に位置づけられる友情だ。つまり日韓における、ある必然性をもった人間関係だ、と感じていました」

殿平さんの予感通り、それから8年後の1997年夏、深川市の北に位置する幌加内町の朱鞠内で第1回日韓共同ワークショップが開かれます。

ダムと鉄道工事で犠牲となった日本人と朝鮮人犠牲者の遺骨発掘が第一の目的でした。韓国人、在日韓国・朝鮮人、そして日本人の学生、社会人などの若者が、9日間にわたって寝食をともにしながら作業を行い、4体の遺骨を発掘しました。

こうした活動はほとんど例がなく、マスコミの注目を集めて新聞、テレビで大きく報道されました。

タコ部屋体験の証言

この遺骨発掘はもともと事務局を一乗寺に置く「空知民衆史講座」が地道に続けてきた活動です。この講座は今からちょうど25年前の1976年、「空知の民衆史を語る会」として発足しました。

その初めての会合で在日朝鮮人の故・蔡(チェ)晩鎮(マンジン)さんから朱鞠内でのタコ部屋労働体験が語られたのです。タコ部屋とはタコつぼに入ったタコになぞらえ、鉱山や工事現場で過酷な労働と劣悪な生活を強いられ、逃げ出すことのできない宿舎を呼びました。

すぐさま会のメンバーが現地を訪れ、朱鞠内湖畔にほど近い光顕寺の檀家から、引き取り手のない70余の位牌の存在を知らされました。

雨竜ダムと鉄道工事の犠牲者に関する調査が本格的に始まりました。

イメージ(朱鞠内湖と雨竜ダム)
朱鞠内湖と雨竜ダム

このダムは1937年から43年にかけて発電目的で建設され、その結果出現したのが朱鞠内湖です。当時は東洋一のダムといわれました。このダムでせき止めた水を、本来の石狩川水系の雨竜川ではなく、トンネルを掘って山を隔てた風連町の天塩川水系へと流し込み、150メートルもの落差を利用した水力発電所がつくられました。道内の発電能力が38万キロワットだった当時に、最高出力5万キロワットの発電所が新たに生み出されたのです。

ダム建設に先だって朱鞠内と名寄を結ぶ旧・名雨線の工事が行われています。ダム建設予定地を避けて朱鞠内湖をぐるりと4分の3周するルートで、切り出された木材や建設資材・人員などが運ばれました。

イメージ(朴南七さん)
朴南七さん

日本の成人男子の大半が戦争に駆り出される中、工事の主力を担ったのがタコ部屋労働と朝鮮半島からの強制連行・強制労働でした。このダム工事現場から逃げ出し、青森、静岡、横浜、山形、そして帯広と鉱山や工事現場を転々とし、南方戦線送りの恐怖から逃れながら終戦まで生きのびた朴(パク)南七(ナムチル)さん(朱鞠内歴史保存委員会代表・紋別市在住)が言います。

「私は自分から進んで朱鞠内に来て、朝鮮からの強制連行者や日本のタコ部屋労働者とはちがう立場でしたが、タコ部屋同然でした。現場に出ていた同胞が帰ってこなかった。これは殺されると思い、朱鞠内を逃げ出したのです」

光顕寺だけでなく少し離れた法宣寺でも引き取り手のいない位牌が見つかりました。

犠牲者の遺骨を発掘

「語る会」は幌加内町で埋火葬認許証を調べます。幸いなことにその写しが保存されていました。さらには風連町での調査、光顕寺の過去帳などをつき合わせ、日本人168人、朝鮮人36人、合計204人という工事犠牲者が浮かび上がってきたのです。

ただしこれらの犠牲者は曲がりなりにも医師の死亡診断を受けた人々です。工事中の事故などで行方不明になった人などは含まれておらず、犠牲者は相当な数に上ると考えられています。

光顕寺では次から次にと遺体が運ばれてくるので、本堂の畳が腐って床が抜け落ちてしまった、という檀家さんの証言もありました。想像を絶する光景です。

タコ部屋や強制連行者の遺体は、火葬されずそのまま土に埋葬されました。

犠牲者の氏名、年齢、出身地などが明らかになり、今度は身元調査が始まりました。日本各地の自治体に問い合わせて、確認をとっていきます。朝鮮人の犠牲者はほとんど現在の韓国側の出身でした。調査は日本国内のように簡単にはいかず、死者の名前を宛先にした手紙を出しました。こうしてできる限り遺族を捜し出していきました。

埋葬されたのは笹やぶになってしまった朱鞠内の共同墓地周辺と考えられます。それらを掘りおこし、遺族に返してあげたい。「空知民衆史を語る会」は「空知民衆史講座」へと発展改組され、1980年5月、いよいよ発掘が始まります。地元で組織された朱鞠内追悼法要協力会とともに作業を行い、6体の遺骨を発掘しました。

その後も毎年発掘が行われ、参加した人々も在日韓国・朝鮮人、さらには深川市内の高校生たちへと広がっていきました。83年の4回目の掘りおこしまでに16体を発掘、ただ87年に行われた5回目では遺骨を掘り出すことができませんでした。

イメージ(本田明二氏・近藤泉氏作「願いの像」)
本田明二氏・近藤泉氏作「願いの像」

こうした活動とともに「民衆史講座」では86年に単行本の「笹の墓標」を発刊、91年には「願いの像」を建立し、94年には続・笹の墓標である「和解のかけ橋」を刊行するなどの運動・活動を続けてきました。

また95年には取り壊されることになった光顕寺を改修・保存して「笹の墓標展示館」を開設しています。

歴史的出会い

殿平善彦さんと鄭炳浩さんが運命的な出会いをしたのはこんな活動の最中だったのです。そして1997年のワークショップでは2人のもくろみ通り、若者同士のさまざまな出会いがありました。中でも朝鮮総連に属する在日朝鮮人と韓国人の出会いは歴史的な一幕でした。

イメージ((2001東アジア共同ワークショップ))
(2001東アジア共同ワークショップ)

韓国人にとって、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国民である在日朝鮮人と接触することは、厳罰で有名な国家保安法に触れるおそれがあります。実際、このワークショップで在日朝鮮人から、韓国国内への手紙を託された鄭炳浩さんは、迷いに迷った末に空港でこの手紙を破り捨てています。そんな状況下の出会いだったのです。

しかし若者たちの活動はとどまることを知りません。その後毎年、夏には、韓国、大阪、また韓国と舞台を移しながらワークショップが開かれ、冬には展示館となった旧光顕寺の雪下ろしを兼ねた一泊のワークショップが開かれています。

そして2001年夏を迎えたのです。97年のワークショップは殿平善彦さんと鄭炳浩さんを共同代表とする委員会と民衆史講座の主催で行われました。

イメージ((2001東アジア共同ワークショップ))
(2001東アジア共同ワークショップ)

しかしその後の毎年開催されたワークショップを経て、今回は若者たちによる委員会が完全運営し、民衆史講座がバックアップに回るという役どころとなりました。また名称も「東アジア共同ワークショップ」と改められ、視野は日韓からさらに広い範囲へとすえられました。

日本語・朝鮮語が飛び交いながら

イメージ((2001東アジア共同ワークショップ))
(2001東アジア共同ワークショップ)

2001年8月4日、若者たちが札幌市の西本願寺札幌別院に集合しました。教科書問題、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題などで、日本と東アジア諸国との関係が悪化し、さまざまな交流が中止に追い込まれている最中ですが、参加者にためらいの色はまったく見えませんでした。

イメージ(韓国民族舞踊)
韓国民族舞踊

韓国舞踊団の公演、鄭炳浩さんの記念公演、それに若者代表5人によるパネルディスカッションと続きます。日本語での発言は朝鮮語(韓国語)に、朝鮮語は日本語にいちいち訳されながらの進行ですから、時間は通常の2倍かかります。しかしそんな手続きを踏まなければ、言語のちがう人間の相互理解は生まれないのでしょう。

夕食後も翌日からの7グループに分かれたフィールドワークの打ち合わせなどが続きました。寺は深夜まで若者の熱気でむせかえり、そのまま宿泊となりました。

8月8日、日高、道東、オホーツク、夕張など道内各地に散っていた参加者が朱鞠内で再集合、午後からいよいよ発掘の始まりです。

共同墓地に接する土地をテープで区分けし、3メートル四方程度の穴をスコップで掘り下げていくのです。これまでの例では地下50センチから60センチ程度掘り進むと、遺骨の存在を示す兆候が現れていました。その兆候とは土の色が周囲と若干ちがうというもの。たとえば木箱が埋められると腐ってしまっても水分を含んでいるため、そこだけ土の色が黒みがかっています。

そのため、40センチほどの深さに掘ってからは、いったん底を平らにし、何らかの兆候が現れない場合はまた10センチほど掘り進んでまた平らにするという作業を繰り返していきます。

イメージ(発掘結果を説明する金成坤さん)
発掘結果を説明する金成坤さん

指導するのはアメリカ国籍の金(キム)成坤(ソンゴン)さん。ポリスアカデミー(警察学校)の教官を務めています。英語での指示が日本語、朝鮮語に翻訳され、スコップとバケツ、一輪車などを使った作業が続きました。しかしこの日は遺骨の兆候は見えませんでした。

なにせ掘っている区画はカラマツやシラカバといった立木の中です。戦後植えられたとしても40~50年の年月が経っているわけで、それぞれが立派な樹木になっており、悲劇から重ねた長い年月を実感せざるを得ません。

じつはすでに1チームが一足先に朱鞠内に入って発掘作業を先行させていて、遺骨に結びつく兆候は見ていませんでした。

馴れない作業についつい休憩が長くなりがちです。確かに現在では土木工事のアルバイトといっても、重機が多用され、スコップで穴を掘ることはほとんどありません。若者たちのぎこちなさも無理ありません。

夜は盛大な交流会。昼の疲れをものともせずに、旧光顕寺境内は元気な日本語、朝鮮語が飛び交う国際交流のお祭り広場となりました。

墓地内を掘る

翌9日、遺骨発見の可能性を高めるため、幌加内町役場に共同墓地区域内での改葬のための発掘を申し出ます。お盆を間近にひかえ墓参りや清掃などに訪れる人が現れる時期でした。1日限りの発掘が認められ、町職員立ち会いのもとに発掘が始まりました。

ついに遺骨の兆候が現れました。平らにされた区画の底に、お棺らしい長方形が現れたのです。さらには朽ち果てた木片も発見され、期待はにわかに高まり、共同墓地内での発掘が翌10日も行われることになりました。

夕食のあと勉強会、そしてフィールドワーク各代表からの報告会。プログラムが終わったのは12時を回っていましたが、その後も居残っての討論会が続きました。

イメージ(発掘された頭蓋骨の一部)
発掘された頭蓋骨の一部

10日、約50センチ四方を深く掘り進めていた穴からついに遺骨が出てきました。脚を崩して座った姿勢でした。一辺が50センチ程度の箱に押し込められて埋葬されたようでした。短い鉛筆や「仁丹」のマークが入った3センチ程度の小さな容器、ベルトのバックルなども一緒に出てきました。

さっそく追悼式が行われました。仏教、キリスト教、アイヌ式、儒教式(朝鮮式)で死者の霊を慰め、宗教を持たない人のための追悼の時間も設けられました。

さらに別の場所からも、びんなどゴミとしか思えないような物に混じって、いきなり頭蓋骨の一部が出てきました。掘り下げていくと、人骨が見えてきました。また追悼式です。

イメージ(儒教式の土まんじゅう型の墓)
儒教式の土まんじゅう型の墓

この日は発掘以外にも新たな作業が加わりました。儒教式の土を丸く盛った、いわゆる土まんじゅう型のお墓をつくるのです。一輪車で土を運び、踏み固め、周囲に芝を張り付けていきます。しかしなかなか作業ははかどりません。こうして10日は暮れていきました。

夜は夜で発掘の報告、前夜に続く各フィールドワークの報告、さらにはドキュメンタリー映画「闇を掘る」(藤本幸久監督)の上映と続き、終わったのは1時近くでした。そしてその場で、朝4時起きで作業を行う人が募られたのです。お盆が間近となり、重機を借りれるのが午前9時までで、どうしても朝のうちに作業を終わらせなければならないためでした。11日早朝、ほとんど寝ていない10人ほどの早起き部隊が、発掘と墓づくりに取りかかりました。正午前、ようやく墓が完成、しかし発掘作業は慎重を要することもあって延々と続きました。

午後、プログラムは一般公開のシンポジウム、そして日没間近に始まった土まんじゅうの墓を前にしての追悼式と続きましたが、懐中電灯を頼りにした発掘作業に終わりはありませんでした。

夜、8時過ぎになって発掘の最終報告が行われました。2体の遺骨が発見されたが、これからの精査によっては3体、またはそれ以上の可能性があるとの報告でした。

差別と友情

この集会での朴南七さんの発言には重いものがありました。

「遺骨が見つかったという電話をもらったのは夕方、食事中でした。食事がのどを通らず、泣きっぱなしでした。人間の扱いをされずに死んでいった。悲しいのか、悔しいのか、出たところは何度も足で歩いていたところです。朝鮮人は死んでからも差別されたんです。ひん曲げて入れて『鮮人』はこれでいいんだと。硬くなった体をしゃにむに曲げて入れた。服は着たままでたかじょう(地下足袋)を履いたまま。掘り返すとたかじょうの底のゴムだけが残っていたものです。死んだ後まで差別する。私はそれを忘れるわけにはいかない」

最後の夕食と交流会が始まったとき、時計は10時を回っていました。しかし若者のパワーは衰えません。飲んで語り合い、歌って踊る交流が延々と朝まで続いたのです。

朴さんも本来の穏やかな顔にもどっていました。殿平さんを前にして言います。

「酒さえ見れば笑っている。こんなお坊さんだとは思わなかった」

こんなお坊さんと韓国人の学者が、深川市多度志町の寺から小さな歴史の波をつくりだしました。やがてその波は東アジアの若者を巻き込みながら、歴史の大きなうねりとなって現れているのです。


空知民衆史講座
074-0141 深川市多度志町 一乗寺気付
TEL&FAX 0164-27-2359
http://member.nifty.ne.jp/minsyushi/
東アジア共同ワークショップ北海道事務局
001-0018 札幌市北区北18条西4丁目 北18条ビルAALA事務所内
TEL 011-747-0977 FAX 011-717-0997
http://city.hokkai.or.jp/~tanakat/WS-J/


空知民衆史講座とワークショップの歩み

1934年 雨竜ダム建設予定地の原木伐採開始
1937年12月 雨竜ダム工事開始
1939年10月 朝鮮人強制連行始まる
1941年3月 名寄-朱鞠内(名雨線)が完成し、深川-名寄が開通(深名線に)
1943年8月 雨竜ダムが完成
1945年8月 戦争終結
1976年7月 空知民衆史を語る会結成
1976年9月 光顕寺で名雨線・雨竜ダム工事の犠牲者の位牌を発見
1977年1月 日本国内犠牲者の家族訪問始まる
1977年2月 朝鮮人犠牲者14人に「死者への手紙」発送
1977年10月 名雨線鉄道工事、雨竜ダム建設工事犠牲者追悼集会
1978年8月 深川市多度志町で帝国砂白金殉職者掘りおこし 遺骨2体を発掘
1979年1月 考える会が民衆史講座に発展改組
1980年5月 朱鞠内で第1回犠牲者遺骨掘りおこし 6体発掘
1981年9月 第2回掘りおこし 4体発掘
1982年5月 第3回掘りおこし 4体発掘
1982年10月 講座会員が第1回目の訪韓
1983年7月 第4回掘りおこし 2体発掘
1986年5月 「笹の墓標」発刊
1987年7月 第5回掘りおこし
1991年10月 「願いの像」除幕式
1994年10月 「和解のかけ橋」発刊
1995年7月 笹の墓標展示館開館
1996年6月 民衆史ブックレット「朱鞠内と強制連行・強制労働」発刊
1997年7月 日韓共同ワークショップ 遺骨4体発掘
1998年2月 冬のワークショップ(朱鞠内)
1998年8月 日韓共同ワークショップ(韓国)
1999年2月 冬のワークショップ(朱鞠内)
1999年6月 民衆史ブックレット「出会う・掘る・学ぶ」発刊
1999年8月 日韓共同ワークショップin大阪
2000年2月 冬のワークショップ(朱鞠内)
2000年5月 小説「笹の墓標」(森村誠一著)出版される
2000年8月 2000夏ワークショップin韓国
2001年2月 冬のワークショップ(朱鞠内)
2001年8月 東アジア共同ワークショップ

政治から独立した交流を

殿平 喜彦さん

民衆史講座が始まって25年を越えようとしていますが、その歴史をふり返ると隔世の感というか、歴史の大きな流れの中に身をおいてきたのだと実感しています。

私が最初に韓国を訪問したのは、1982年で全斗煥(チョンドハン)の政権下にありました。

朱鞠内のダム工事で犠牲になった遺族を訪ねたとき、氷のような冷たい怒りに触れた恐ろしさ、すさまじさに私はたじろぎました。同時にあの軍事政権下で、常にKCIAが私を見張っているのではないかという緊張の中で過ごしました。私は羽田に着いて、『いい経験をした。でも再び韓国に行く気にはなれない』と正直思いました。

それから19年後、このワークショップの成果は私の思いをはるかに越えて、こうしてみなさん自身が見事に花咲かせている。非常に感慨深いものがあります。

教科書問題も靖国神社参拝問題も、ともに日本の側が生み出した偏狭なナショナリズムに基づく新たな事態であり、この問題を解決する責任は日本人である私たち自身にあります。

私たちのワークショップはその大きな政治の波をものともせずに、むしろその政治的な状況の中にあるからこそ新たな意義を持っています。

相互に自立し、かつ共感できるような、政治から自立した交流を深めていくことを、この朱鞠内から東アジアの未来を担う若者たちと共にアピールしたいと思います。

土の中での50年を思うと

姜宇哲(カンウチョル)さん 韓国・大学生

みなさんがどうしてこのワークショップに参加し続けているかといえば、一つはいろいろな人が集まっている多様性、もう一つには若さ、年齢だけでなく精神的な若さがあると思います。

発掘作業をして実際に骨が出ると、どうして50年もの間、土の中に残されていたのかと、悲しくなりました。

こういう貴重な体験がこれから生きていく上で役立てばと思っています。

韓国の人と話せて感激

鄭景心(チョンキョンシム)さん 東京・大学生

初めて韓国の方といろいろなことを話すことができてとても感激しています。

私は朝鮮に住んでいるわけでもないし、日本人でもない微妙な存在ですが、日本に住んでいないながら民族教育を受けた朝鮮大学校の学生として、できることがあると思っています。

まず東京に帰ったら、ここで学んだことをいろいろな人に話して広めていきたいと思っています。

通じない言葉がくやしい

高智代(コウチデ)さん 大阪・大学生

大阪外国語大学で朝鮮語を勉強しています。99年夏の大阪のワークショップから参加し、自分の国の歴史とか、在日の歴史について真剣に勉強しなければならないと思いました。

でもまだ韓国から来た人々と話しをしていても、単語が分からなかったり、うまく伝えられずくやしいです。ぱっと笑いが起きた時にも、意味が分からなくて一緒に笑えないことがすごくくやしいです。

異国で死んだ無念さ知る

小野真さん 東京・会社員

僕は朱鞠内チームで最初から発掘をしました。今回二体を発見し、詳しいことは分かっていませんが、もし強制連行によって連れてこられた朝鮮人だったと考え、異国の地でこのような死に方をした無念さを思い知らされました。

日本には差別問題がたくさんあります。同情ではなくて同感し、相手を尊重して一緒に生きていける社会をつくらなければと思います。

参加で変わった自分

小野寺真人さん 東京・大学生

2000年夏の韓国でのワークショップに参加してから、韓国が好きになりました。また日本にも在日の方々がたくさん居ることを知りました。

社会とか歴史の問題に向き合ってこなかったことを自分なりに反省しました。

ワークショップで得たことがぼくの心の何かを変えました。これからも参加して、国家だとか権力だとかに立ち向かう勇気を得ていきたいと思います。

針路変えた在日との出会い

宋基燦(ソンキチャン) 京都・留学生

97年のワークショップで在日の方と初めてお会いして、私の人生は変わりました。私は翌月から日本語のアイウエオから勉強をはじめ、資料も集めだしました。

それまでにも日本の方とあったことはありましたが、日本のことを知ろうとか、日本語を勉強しようなどとはまったく思いませんでした。今私は日本の大学院で在日韓国・朝鮮人の民族教育について研究しています。

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