有珠山噴火の3日前に当たる2000年3月28日、伊達信用金庫理事長(当時専務)の楽木(らくぎ)恭一さん(54)は朝一番で伊達市役所を訪ねました。菊谷(きくや)秀吉市長(51)と面会し、これから立ち上げるスポーツ公園の基金について相談するためでした。しかし庁舎に足を踏み入れた途端、その異常に気づきます。
市長とはすぐに面会できましたが、基金の相談どころではありません。もたらされた情報は、夜中から火山性地震が発生しており、かなり高い確率で有珠山噴火の恐れがある。市は災害対策本部をつくる検討を始めたというものでした。
話もそこそこに市長室を出た楽木さんは携帯電話で本店に連絡をとります。
「有珠山が噴火するらしい。緊急会議を開くので営業店長を集めてくれ」
伊達信金は伊達市内にある本店、3支店のほか、虻田町虻田、同町洞爺温泉、豊浦町、洞爺村、壮瞥(そうべつ)町、大滝村など主に西胆振地方に支店網を広げるこの地方の中核金融機関です。ほとんどの市町村の指定金融機関にもなっています。
もし噴火が現実となるなら、直撃を受けるのはお客たち。また噴火の経済的影響はそれにとどまらず、地域全体に波及します。
本店の専務室に戻った楽木さんは、分厚いノートの綴りをロッカーから引っ張り出しました。信用金庫職員になって以来、仕事上のメモや資料はすべてルーズリーフ式のノートに書いたり貼り付けたりしながら、個人的にずっと保管していたのです。
1977年の前回の噴火のとき、楽木さんはまだ30歳前でしたが、やはりメモは残っていました。
「営業店の店長たちが集まって来るまで1時間くらいしかない。ふと思いついたのがメモでした。当時は若くて経営の人たちがどんなことをやったかなんて分かっちゃいません。自衛隊員と一緒になって軽石が飛んでくる中をヘルメットをかぶって元帳運びをしたり。手足となって動き回っただけです。でもそれが自分の記録として残っていました」
楽木さんは当時のことを思い出しながら、やるべきことをどんどん書き出していきました。当時とちがうのは手作業だった事務作業が機械化、オンライン化されたことです。元帳の避難は情報のバックアップなどに置き換えられました。約1時間後、店長会議が始まったときには『臨時緊急災害対応について』という文書ができていました。
会議では噴火災害連絡本部を発足させ、楽木さんが本部長に就任しました。当時の理事長の舟橋英二さんは体調をくずしていたため、実務は楽木さんが行っており、次の総代会で楽木さんが理事長に就任する予定という事情もありました。
会議の最中、ついに体に感じる火山性地震が始まりました。噴火はますます現実のものとなってきました。
噴火時の対策としてとられるのは、まず職員の安全確保です。次に現金の確保でした。住民が避難する場合、まず現金を下ろします。そのため通常の3倍を用意することにしました。また店舗を閉めた場合の為替業務の対策があります。3月末は年度末です。手形決済ができずに不渡りという事態は避けなければなりません。
こうした対策では楽木さんのメモだけでなく意外なものも役に立ちました。2000年問題の対策マニュアルです。コンピューター化された現代社会で、システムが停止すると、ありとあらゆることに影響を及ぼします。幸いにして2000年も2001年もさしたる支障がなく、無事に乗り切ることができました。
伊達信用金庫がつくったマニュアル「2000年問題危機管理計画」には、職員通用門が開かないとき、断水したときなど、さまざまな場面を想定しての対応策がこと細かにしるしてありました。3カ月足らずでそのマニュアルがまた日の目を見ることになりました。
地震はますます頻繁に、そして激しくなります。この日、伊達市、虻田町、壮瞥町では対策本部が発足し、虻田町や壮瞥町では一部地域の住民が自主避難しました。
翌29日には地震はさらに激しくなり、噴火は時間の問題となりました。3市町は住民約1万人に避難指示を出し、伊達信金では連絡本部を対策本部に変更、楽木本部長を頂点とした緊急体制が構築されました。
31日午後1時過ぎ、最初に噴煙を上げたのは有珠山の北西山麓でした。翌4月1日になると虻田市街と洞爺湖温泉街を結ぶ国道230号のすぐ近くから噴火、続いて金比羅山の山腹からも噴火しました。
住民は伊達市、壮瞥町、虻田町、洞爺村のほか、遠く長万部町や室蘭市まで避難しました。また虻田町役場はその機能を豊浦町に移しました。
この間、伊達信用金庫各支店は戦場のような状態になっていました。住民がATM(現金自動預払機)や窓口に殺到、律儀な人は月末の支払いを済ませてから避難していきます。貸金庫では中身を出していく人、逆に入れていく人とさまざまです。そうした来店が切れたところで支店を閉鎖していきます。
29日中に5店が閉鎖されましたが、最後になったのが洞爺温泉支店です。ここには楽木さんなど本店からの応援を含めた5人が居残っていました。ヘルメットに作業服という姿です。
「船酔い状態です。震度5や震度6の地震が連続してやって来ましたから。洞爺温泉支店は大きなガラスが入っているんですが、いつ割れて飛び散るか分からない。窓から離れて、ただ揺れに耐えていました」
警察官に連れ出されるようにして店を閉めたのが午後5時30分ごろ。それからは本店に泊まり込み同然の生活が続きました。
噴火後、伊達信金がまず設置したのが融資などの相談窓口です。担当6人を配置し、返済猶予などの相談のほか生活資金50万円、運転資金で500万円までというつなぎ融資を打ち出し、その場で決めていきました。道でも10万円を限度とした生活資金の貸し付けを始めましたが、それで足りるはずがありません。
対策本部長である楽木さんは携帯電話を武器に、現場を走り回りながら指示を出していきました。一番の問題は人の配置でした。170人いる職員のうち、多いときでは45人が避難所に入っていました。高速道路や国道37号はもちろん、洞爺湖周辺の道路も通行禁止となり、伊達市から豊浦町の支店に行くにも、遠く喜茂別町を回らなくてはなりません。
伊達信金は、楽木さんが「金融機関というよりサービス業だと思っている。その方が進むべき方向がはっきりする」と言うほどお客の利便を図る努力をしてきました。ところが常に現場に足を運ぶ現場主義をとっていたにもかかわらず、考慮が足りなかったことがあったといいます。
噴火から1週間が過ぎたころ、長万部町をお見舞いのために訪問しました。同町には千人以上が避難し、体育館などで寝泊まりしていました。
「行ってみて驚きました。長万部に一番近いのは豊浦支店で、ATMを増設したこともあり、長万部に避難している方々も豊浦を利用してくれるものとばかり思っていたんです。クルマがない人でも列車を使って来てくれるだろうと。でも動けない人々が大勢いたんです。足の問題だけでなく、気持ちが萎えてしまっている人々もいました」
楽木さんはその場で取次店の設置を決めました。本店に電話して5人による“遊撃隊”の結成を指示、長万部町は営業エリア外なので、日銀や大蔵省財務局に許可を得て、地元の信金にも了解を得ました。虻田町から長万部町にお願いしてもらい敷地を確保しました。そしてプレハブ工事、電話工事などを発注しました。
翌朝10時には取次開始というスピード開店でした。
「避難している方々は非日常的な生活を送っていて、すごく不安だったと思います。そこに取次店ができて、見慣れた渉外担当者がいる。毎日本店から通ってくるので、現地の情報を運んできてくれる。安心感につながったと聞きました」
後日談ですが、伊達信金はこうした活動が認められて、全国信用金庫協会から社会貢献賞を受けました。ボランティア活動などではなく、本業でこの賞を受けたのは伊達信金が初めてだそうです。
くやしい経験もしました。洞爺温泉支店は最後まで営業停止を余儀なくされた支店でしたが、5月25日に避難区域内への一時帰宅が許されました。そこで職員が見たのは無惨に壊されたATMや両替機だったのです。被害は約1000万円。楽木さんら5人がぎりぎりまで滞在し、戸締まりをして“撤退した支店でした。
「ショックでした。でも組織的な窃盗団が入っているというウワサは聞いていましたから、狙われたらATMなんてひとたまりもないなと思ってはいましたが」
避難中の荒っぽい窃盗は伊達信金だけでなくホテル2軒や多数の住宅でも起きていました。
日が経つにつれて噴火はだんだん収まり、避難解除地域が拡大され、仮設住宅も建ちました。人々が少しずつ日常生活を取り戻しはじめたその一方で、深刻化してきたのが経済問題です。
噴火が一般の地震災害と異なるのは、被害が長期に及ぶことです。地震は翌日から復興ですが、噴火はいつ収まるか分からない。特に洞爺湖温泉街は人が入れない、入れる段階になれば施設の整備をしなければならない、そしてお客を呼び戻さなければならないと、何段階ものハードルを越えなければなりません。経済的損失は計り知れないものがあります。
『噴火口から一番近いホテル』になってしまった北海ホテルヘ7月25日に営業を再開しました。
「3メートルくらい地盤が水平移動し、下水道が流れなくなりました。それに電気が止まったことで冷蔵庫がだめになり、噴出したガスでテレビなどもだめになりました…」
社長の篠原功さん(61)が、思わぬ被害の実態を説明します。
まず地盤の変動で建物の内外に張り巡らせた配水管がゆがみ、勾配が逆になったりで水洗トイレなどからの下水が流れなくなってしまいました。
屋上に火山灰などが降りかかり、配水口を詰まらせて、灰混じりの泥水があふれ、天井や壁を伝わって建物内に進入してきました。冷蔵庫は電気が止められたために予想もしなかった状態になりました。中に入れていた食材が腐って異常な高温となり、それが冷却パイプ内のガスを膨張させ、破裂させていたのです。
テレビなどICを使った電気製品も故障しました。火山性のガスによって回路がダメになったのです。
前回の噴火では立入禁止規制も市町長の判断で現場の事情に合わせて柔軟に行われたといいますが、今回は厳格でした。その結果として人的被害ゼロという尊い成果を見せたのですが、物的には被害を大きくすることにもつながりました。
避難したあとは完全に立入禁止。屋上の灰を取り除いて排水口を開けることも、冷蔵庫の中身を出すことも、電気製品を運び出すこともできませんでした。
北海ホテルでは復旧にかかった期間が約1年、総額は建物を新たに建設する額の3分の1にも及ぶといいます。
これは資産を増やす投資ではありません。噴火前の状態に戻すだけの、後ろ向きの投資です。それに休業、客の減少などが追い打ちをかけています。
営業を続けていくために資金はいくらあっても足りない状況です。
北海道庁では噴火後にいち早く対応し、固定資産の被害や売り上げ減少などに対して5千万円を限度とした融資制度を適用しました。篠原さんはこれには感謝しているといいます。
しかし、こうした融資だけでは解決しない問題がありました。そしてそれは西胆振全体にまで及ぶ問題だったのです。
噴火の直接被害にあったのは有珠山周辺の人々でした。しかしたとえば洞爺湖温泉での営業停止、そして再開してからも少ない客の入り、そして住民が噴火前の半分しか戻っていないという現実は、広い範囲に重大な経済的影響を及ぼしていました。特に地元密着型の企業には深刻でした。
西胆振の市町村長、商工団体代表、そして伊達信金が同じテーブルを囲んで対策を話し合う会議が開かれました。こうしたメンバーを集めた会議は、イベントなどではあったものの、地域経済という重いテーマでは初めてだったといいます。篠原さんもメンバーでした。
ここで求められたのは、企業が持っていたそれまでの負債をすべてまとめ、新たな長期融資に切り替えるというものでした。金利や期間、そして信用保証などで道や国の支援を仰がなければ、実現できないものでした。
「端的に言えば、新しい資金はいらないということでした。過去の負債をまとめ、それを薄く長く延ばして長期で返済していく。そのことで先行きを明確にしてあげる。将来計画が立ちやすいようにして、それが事業意欲にもつながるし、復興意欲にもつながっていく。そんな将来に希望を見いだそうという融資制度でした」
と楽木さんは説明します。しかし道にも国にも、中小企業が新たに設備投資したり、そのための運転資金を融資する制度はあっても、過去の負債をまとめて一本化するという融資制度はありません。前例がないことに行政が及び腰になるのはいつも同じです。
市町の首長や伊達信金はまず道庁と何度も交渉し、ついには『有珠山噴火災害中小企業返済対策特別資金』の創設に結びつけます。新たな制度はできましたが、限度額は1千万円に限られ、2000年12月末までという期限付き。のちに2001年6月末まで延長されました。
創設された制度は中小企業対策として全国的にも例がありません。しかし限度が1千万円というのは、今度の被害からすればあまりにも少ない数字です。再度のねばり強い交渉が始まります。
伊達市長の菊谷秀吉さんは、道庁との交渉で、あまりに分かってもらえないため席を蹴って帰ってきたことさえあるといいます。しかしあきらめません。
国にも陳情に出かけ、国や北海道の理解が少しずつ進んでいきました。そしてようやく限度1億円の融資制度の実現にこぎ着けました。
保証限度額は50%で、道信用保証協会の保証を受けることが条件です。あとの50%は引き受けた金融機関が責任を持たなければなりません。地元に店舗を持つ銀行、信金、信組などが足並みをそろえて取り組むことになったのです。申し込みの期限は2001年12月末まででした。
こうして新たな融資制度は発足しましたが、対象地域や業種、そして売り上げ減少が噴火前の3割以上という制限があって、必要としている企業のすべてに行き渡るものではありませんでした。伊達市、虻田町、壮ヒ町の3市町では、この制度と同等で対象範囲を広げた融資制度を独自に立ち上げて対応しました。
この融資制度にはこんな意味があると楽木さんはいいます。
「たとえば1億円融資して5千万円に保証協会についてもらえれば、私どものリスクは5千万円。5千万円のリスクがなくなれば、その分を今後の運転資金の枠として使っていけるということもあるんです」
金利は1.3%で期間は最長15年。伊達市長の菊谷さんは金利について心配になり、交渉の途中で楽木さんに確認をとったそうです。
「今後1.3%の固定金利で十何年も行くわけです。本当にそれでいいのかと理事長に確認をとったら、それで行きましょうという判断でした」
伊達信金の場合、融資総額の1割弱が金利1.3%になってしまうといいます。道からの低利の預託金はありますが、融資の全額ではありません。また預貸率が低下している現在、預託金は思うほどありがたいものでもなさそうです。地域経済の大勢を成す地元密着型企業を支えるための決断でした。
楽木さんは信金が地域経済を支えているのではなく、地域全体で支え合っているのだと強調します。
「長万部町に取次所をつくるときには、寝ないでやってくれました。通行止めの道路でリレーのようにして現金を運べたのも各市町村の特別な協力があったためです。今度の返済融資では、信用保証協会の保証など本来は必要ない企業にも受けていただきました。行政と民間が一体となって、地域経済を救うために行動したんです」
信用金庫は協同組合です。目線は常に住民と同じ高さにあるといいます。地域経済の危機を目の前にして、伊達信金の場合、協同組合の原点である互助の精神がいかんなく発揮されたといえます。
そして地域の首長、商工団体、金融機関が顔をつきあわせ、いま何が必要なのかをとことん話し合い、一丸となって行動し、新たな制度の創設まで持ち込んだことは、貴重な歴史的体験となりました。今後、噴火災害だけでなくさまざまな困難に直面したとき、この西胆振地域の体験が大いに役立ってくれるはずです。
スーパー経営 斎藤 麒史夫さん
有珠山噴火災害では全国から義援金や救援物資などが寄せられました。ところが物資については、仕分けや分配作業が間に合いません。保管するために住民が避難していた体育館を明け渡すという事態も発生し、送らないようにとマスコミで訴えたほどです。飲食物も各メーカーからこぞって送られ、住民の当面の生活に役立ちましたが、無償で配られたための弊害も大きく現れました。
伊達市と虻田町に4店舗のスーパーを展開している(株)ウロコ社長の斎藤麒史夫さん(64)は、血の通った金融支援に加えて、今回の経験を踏まえた新しい援助のあり方を提言し、通産大臣などの視察団に地元商工会議所メンバーのひとりとして訴えました。
食品メーカーからはインスタント食品、レトルト食品、飲料水、ビールまで送られてきました。ところが、まずその保管、分配が問題になったといいます。さらに問題なのは、無償で大量の飲食物が入ったために、地元商店が営業を再開しても売上がまったく回復しなかったことです。
斎藤さんはメーカーが直接物資を送るのではなく、地元の流通インフラを使い、それを崩壊させるのではなく、維持できるような援助を提言します。
「親戚が見舞いに来て、帰るときに逆に食品をおみやげにもらっていく、という状態でした。メーカーが援助するなら、我々の店から買い上げ、さらに配達も任せてもらえば、どこにどれだけ避難していて、どれだけ配達すればいいかが分かっているので、スムーズに援助できます」
ウロコでは虻田町店が1ヶ月、洞爺湖温泉店が4ヶ月ほど休業しました。店内の生鮮食料品は廃棄され、その他の食料品も援助物資の影響で売上が回復せず、賞味期限などもあって廃棄せざるを得ない場合が多かったのです。
政府の施策の中で特に有効だったもののひとつが雇用調整助成金です。不況業種のための制度ですが、噴火後すばやく地域が対象に指定されました。ウロコではこの助成金を活用して、ワークシェアリングを取り入れ、資金のカット等をせず全額支給し社員全員の雇用を守りました。
これには阪神大震災の教訓がありました。被害にあった企業が従業員を即刻解雇した企業と雇用を維持した企業では復興時の立ち上がりにずいぶん差が出たという事実があったのです。