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2002年03月号/第109号  [ずいそう]    

北洋漁業と函館
鈴木 旭 (すずき あきら ・ 函館市史編集委員、北大名誉教授)

「北洋漁業の街、函館」といわれてきたが、今日ではその印象は薄い。この「北洋漁業」は、日本がかつて日露戦争(1904~5年)で得た国家権益により、太平洋戦争末期まで続けてきたロシア極東沿岸の鮭鱒漁業のことであり、これを露領漁業と呼んでいた。

函館は海産物の集散地であり、露領漁業に出漁する本州各地の漁船は、一旦函館に立ち寄り、海産商から必要な資金、資材・物資の仕込を受け、切上げ時には漁獲物(塩鮭鱒)を仕込商に渡して、前借金を清算して帰路についた。

仕込の慣習では、借りた金や物は漁獲物で返すのが建前で、仕込の精算をすると、漁業者の手元には殆ど残らなかったという。露領漁業で上がる膨大な利益は、仕込商を通じて函館の経済を潤していたのである。

1910年代に入り露領漁業は近代産業に脱皮する。きっかけは堤商会(日魯漁業(株)の前身)がカムチャッカ半島で鮭鱒缶詰の生産に成功し、イギリス市場への進出を果たしたことである。

かくして海産商の仕込に依存する個人漁業家に代わり、全国規模の法人企業(株式会社)が登場して、露領漁業の近代化が一気に進んだ。またこの時期にはカムチャッカ半島沖合の沖取り漁業(サケ・マス・カニ)と北千島の鮭鱒流網漁業が加わり、三者競合する形で「北洋漁業」は拡大した。

だがロシア革命後は、ソ連の国営企業の進出に対抗して、北洋漁業全体が日魯漁業(株)に統合された。同社の本社は東京丸ビルにあったが、事業の元締めとなる事業部は函館に置かれ、2千名近い社員が働いていた。1930年代の函館は文字通り日魯漁業の城下町として現代都市に変貌した。

「北洋漁業」は敗戦の結果消滅し、当時を偲ばせるものは、国際ホテル横の日魯ビル、港の金森倉庫群に過ぎないが、函館の街のレイアウトは、この時代に作られたのである。

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