札幌のもっとも古い商店街、狸小路。大通公園と平行するこのアーケード街には衣料店、ラーメン店、居酒屋、観光土産店などが軒を連ねます。ホテルもあれば、サウナもある。さらには場外馬券場……。老若男女が行き交う雑多な雰囲気を今に残す商店街です。
そしてもう1つ忘れてならないのが映画館。帝国座、松竹遊楽館、東宝プラザなど長い伝統を持つ映画館が点在しています。
この狸小路の6丁目の西端に4年前、南三条グランドビルというビルが建ちました。そして真新しいビルの2階部分に入居したのがシアターキノ(以降キノ)という映画館です。2館2スクリーン体制でそれぞれ63席と100席というミニシアター。大手映画館ではかからない、いわゆるミニシアター系の映画を上映してきました。
経営はこれまでのところまずまずの状態です。この冬に上映した「アメリ」は大人気のロングランとなり、キノ始まって以来の売り上げを記録しました。最近映画人気が復活しつつあるといわれていますが、キノのような映画館がその人気の下支えをしていることはまちがいありません。
経営するのは資本金8千万円の株式会社キノ。400人を超す個人と企業が株主です。社長は中島洋(よう)さん(52)。ヨウサンと呼ばれ親しまれています。入場案内はもちろん、併設されているレストラン「エルフィンランド」で客と談笑したり、店が混んでいるときにはウエーター役までこなします。メガネの奥の優しい目が印象的なミドルエイジです。
洋さんが北海道大学映画研究会に入ったのが33年前の1969年(昭和44)。それからというもの洋さんは、常に映画とともに生きてきました。
中島さんは本州の西端、下関市で生まれました。親の仕事の関係で3歳のときに神戸市に移り、神戸高校卒業まで過ごします。部活は山岳部でした。そのことが卒業後、北海道に渡る動機となりました。
「3年のとき県大会で優勝し国体に出場しました。僕は気象担当でした。山岳部に入りたくて北大に来たんです。あのころ大学の山岳部で有名だったのは早稲田と京大、それに北大でしたから。そのときリーダーだった友だちは同志社大に入ってヒマラヤまで行った。僕も絶対ヒマラヤに行くんだと思ってました」
1968年北大に入学。ところが念願の山岳部に入部したのもつかのま、父急死の知らせで神戸にとって返します。
「一切貯金はゼロという父親だったので、100%自活するんだったら、大学にいてもいい、ということになりました。学費からなにから全部自分で稼がなくてはならない。札幌に戻ってみると、一緒に山岳部に入った1年生もすっかり山男になっていて、気後れしてしまった。なにより山岳部は金がかかりそうだったので、山はとりあえず諦めたんです」
まず生活費を稼がなくてはならない。親からの援助がまったくなければ、ふつうは勉学とアルバイトにいそしむ、いわゆる苦学生になるはずですが、そうはなりません。
打ち込んだのは大学の勉強ではなくサークル活動。北大映画研究会に入ったのです。大学入学から1年が過ぎていました。
「山のほかにもう1つ好きだったのが映画です。映画なら金もかからないだろうと」
ところが映研もじつは金がかかりました。北大映研は藤女子大の学生なども含めて30人ほど。この映研の特色は映画鑑賞だけでなく映画を作ることにありました。毎年春に全員から脚本を募集し、製作する作品を決定、選ばれた脚本を書いた者が監督になって映画を撮る。ほかの会員は演出や撮影などを分担します。
「映画を撮ることがメチャクチャおもしろい。山のことも忘れて、一気にのめり込んでしまいました。やっていたのはアルバイトと映画、そして学生運動でした」
そのころはちょうど70年の安保闘争。ほとんどの学生が運動にのめり込んだ時代でした。洋さんもヘルメットにゲバ棒といういでたちで走り回ったクチだそうです。
そのうち札幌では飽きたらず、東京に出て記録映画やコマーシャルフィルムの助監督、撮影助手などを始めました。また三里塚闘争などにも参加しています。まさに映画と闘争に明け暮れた時期でした。
「東京で映画製作に携わるといっても本編の映画ではない。たとえばCM撮りで、紅茶の箱を置いて、みんなでどうだこうだと言いながら延々24時間くらい撮影する。こんなんは映画じゃないな、と思って。神戸に戻ることも考えましたが、やはり映画の話ができる仲間がいるのは札幌でした」
札幌に舞い戻ったのは入学から3年以上過ぎた72年。札幌オリンピックの年でした。大学には入学時以降、授業料はまったく納めていませんでしたが、1年生としての籍はまだあったといいます。
「学生部に呼び出されて、授業料が未納なので、中退ではなく除籍になるぞと。僕はすっかり辞めたつもりだったから、学歴などどうでも良かった。除籍ならこれまでの授業料を払わなくてもいいと聞いて、ヤッターという心境でした」
札幌はそのころ道内各地の炭鉱の閉山などもあって人口が急増、アパート建設が花盛りで、アルバイトも住宅建設が中心でした。
「釘打ちなんかをしていたら、お前、筋がいいから大工の見習いをやらないかと誘われました。でも僕は今でいう若い人たちのフリーターと同じ発想でした。仕事は自由でいたい。それをやりながら自分で思う映画づくりをしたいという」
アルバイトで金を稼いでは8ミリフィルムを買って前衛的な映像を作り出す。夜には仲間と酒を飲んでは論議する。そんな生活が続きましたが、一区切りつけたのが74年の居酒屋エルフィンランドの開店です。
「仕事が終わればべろんべろんになるまで飲み屋で騒ぐ。そんな梁山泊(りょうざんぱく)的な状態だったので、それならみんなで騒げる店を自分たちで作ろう、ということになって3人で30万円ずつ出し合って始めたんです」
南2条西5丁目の中小路(オヨヨ通り)からさらに南へ入る細い袋小路(東映仲町)にその店はありました。内部の造作は洋さんの手作りです。十数人も入れば一杯になるカウンターだけの店に、連日仲間が集い、酒瓶が乱立し、たばこの煙が充満する中で大声を張り上げながら議論を闘わせました。
現在、エルフィンランドはシアターキノと同じフロアにあって、オーガニック料理は特に女性たちに人気です。店の内部もいかにも女性好みの明るい作りになっています。
3人の共同経営で始まった店でしたが、それぞれの事情で2人が去り、約1年後、経営者は洋さん1人になります。
客といえば映画関係に限りません。音楽、演劇、美術など芸術を志す人々のたまり場となっていました。
まず同じ飲食店関係者10人が集まってロックコンサート「十転満店」を企画しました。これは年に一度開かれ、数年続きます。また店の2階の小部屋で映画の自主上映をしたり、情報誌を発行したりと、若者たちの活動の拠点となりました。
そしてもう1つこの店から生まれたと言って良いのがフリースペース駅裏8号倉庫です。現在のシアターキノの原点はこの駅裏8号倉庫にあると洋さんは言います。
この倉庫はJR札幌駅の北東、北6条西1丁目にありました。札幌軟石でつくられた独特の雰囲気を持っており、もともと劇団の練習場として借りたものですが、演劇、音楽、映画など同世代の12人が運営委員となって新たに借り上げ、自分たちで使うことはもちろん、貸し館もしながらさまざまなジャンルの人々の表現の場として利用されました。その運営委員の論議の場がエルフィンランドでした。また事務局であり、連絡所でもありました。
この倉庫は鉄道高架化のため1年ほどで取り壊されることになりました。代わりに北3条東3丁目に同じ石造りの倉庫を見つけ駅裏ではなくなりましたが「駅裏…」という名前で継続。結局、4年半にわたってこの活動は続きました。
駅裏8号倉庫は12人の運営委員が1人30万円ほど資金を出し合って発足し運営されました。これが市民の出資と労力で成り立つキノの原点というゆえんです。
倉庫の活動が4年半で終止符を打ったことで、メンバーはそれぞれ自分の道を歩み始めました。洋さんもエルフィンランドの近くのビルの一室を借り、念願だった自主上映のスペース「イメージガレリオ」を開設します。86年のことです。
このイメージガレリオは会員制の上映スペースでした。このスペースづくりに使われたのが、みんなからお金を集めるという手法です。1人10万円ずつを30人から集め、寄付金などを含めた500万円を元手になりました。お金は洋さんが仲間から借用するという形をとりました。
イメージガレリオが発足したことで専従となったのが、洋さんの妻であり、現在のキノの支配人であるひろみさんです。会社勤めを辞めての参画でした。以降、こと映画館運営の実務に関しては洋さんとひろみさんとの二人三脚となります。
自主製作映画や韓国映画なども上映し、固定ファンがそれを支えました。また映画のプロデュースもしました。
イメージガレリオは6年半続き、92年、シアターキノとして生まれ変わります。
「やめるころには月20万円くらいの赤字が出ていました。ひろみの給料なんかどこからも出ない。エルフィンランドから金を注ぎ込んでバランスを保つという繰り返しだったんです。でもキノを始めたのは赤字だけが理由じゃありません。イメージガレリオは後期になるといつも来る人が同じで、150人くらいしか相手にしていない状態でした。それらの人々が一生懸命観に来てくれていたんですが、ぜんぜん広がらない。停滞というか空気が変わっていかないというか。これで儲かってでもいるんなら別でしたけれど」
もうひとつ動機としてあったのが、札幌でのミニシアターが当時相次いで閉館したことでした。前年の91年にはシネマ5とシネマロキシが閉館、92年3月には洋さんと同じように映画製作も手がけたジャブ70ホールが閉館しました。これには映画を愛する者としての危機感が募ったといいます。
新たな道を模索するため、92年春、中島さん夫婦は旅に出ます。福岡を皮切りに東京まで1週間かけて各地のミニシアターを訪ねたのです。しかしそこで聞かされたのはすべて「こんなにしんどいことはやめておけ」と否定的な声でした。ところが夫婦はこの旅で新たな決意を固めるのです。
「東京から帰ってくる飛行機の中で、これは絶対やろう、絶対いけると。いけるというのはお金じゃなくて、自分たちの気持ちとして、いけると。訪ねたミニシアターの人々はみんな、自主映画どころじゃない、やめとけ、と言うんです。でも、しんどい、もうからないと言いながらもニコニコしている。やっぱり好きなことをやっているということが、体から出ているんです。苦労してても、そういう感じがはっきりニュアンスで伝わってくるんです。それまで僕は20年間、映画によって育てられてきましたので、かっこ良すぎるかもしれませんが、映画に対して恩返しをしなければならないという気持ちもありました」
こうして決意を固めた中島さん夫婦ですが、問題は資金でした。それまでのイメージガレリオはいわば仲間同士の空間。上映する映画も16ミリか8ミリでした。しかし新たな計画では一般の映画館と同様に35ミリを上映します。試算したところ映写機などの設備を入れ、内部を改装するには1,500万円はかかりました。イメージガレリオには30人に10万円ずつ出してもらっていたので、それに10人プラスすれば400万円、あとは夫婦の貯金が300万円。残りは銀行から借金を、という心づもりでした。
「それまでは有限会社でもなんでもなく、個人の青色申告でした。でもそれまでのような遊びのような感じではいけないので、株式会社としました。出資も個人の借金ではなく、株を買ってもらう。個人なら気楽ですが、会社なら気楽にはできない。自分を追い込んでいくような、後戻りできないような状況にしてしまおうという発想でした」
結果は思いがけないものでした。1口10万円で株主を募ったのですが、出資者は102名にも達しました。そして出資額の合計は1,380万円。個人で50万円を出してくれた人もいました。
「ちょっと涙が出ました……」
出資者の多くは知り合いでしたが、キネマ旬報などで報じられた結果、福岡や広島などまったく知らない人も数名含まれていました。
次は何を上映するかです。ところが東京の映画配給会社に掛け合ってもなかなか相手にされない時期が続いたといいます。実績がほとんどない新参者であれば当然です。そしてもう1つの悪い事情がありました。
配給会社と映画館とのお金の関係は独特です。ミニシアターではほとんど入場料収入から経費を差し引いた残りを折半するという方法がとられています。広告などの経費は事前に協議して大枠を決めてしまいます。上映が終わると映画館側は収入と経費を算出し、配給会社に支払います。そのため算出が遅れれば支払いも遅れることになります。計算ができてないことを口実に、支払いを延ばすことも可能なのです。
こうした映画館と配給会社との独特な決済方法があるため、札幌での自主上映などでは配給会社との金銭をめぐるトラブルがかなりあったようです。それで配給会社の札幌への印象が悪かったのです。
そのため洋さんたちが特に気をつけたのが支払いです。できるだけ早く計算して配給会社に料金を支払いました。こうした積み重ねで信頼関係が徐々につくられ、2年目あたりからは「あんたんとこ、これをやってみたら」と声をかけてくれるまでになりました。良い作品が上映できれば自然に客も集まります。4年目にはついに黒字を計上しました。
29席しかない超ミニシアターで黒字を出すことは、ふつうではあり得ないことのようです。そして黒字になるのは、入れきれない客がたくさんいることを意味するのです。
洋さんたちの第一の目的は黒字経営ではありません。キノが発足し、株主を集めた初めての上映会のあいさつで「この中に配当をくれという方は1人もいないと思います」と念を押したほどです。目的はいかに多くのお客に映画の楽しさを提供するかということです。
洋さんたちにとっての黒字は次のステップへ進めというシグナルでしかなかったのです。すぐさま準備に取りかかりました。
そして2年後(98年・平成10年)、現在のキノが誕生します。2館体制にするなどで、設備投資は1億円以上かかると見込まれました。そのうちの4千万円を以前のような出資金でまかなうのが目標。金額が大きいために今度は個人からだけでなく企業からのo資も募りました。
結果、集まったのは5,660万円。それまでの出資1,380万円と合わせれば7,040万円。これに中島さん夫婦の分を合わせた8千万円が資本金となったのです。新たなスタートでかかった費用は約1億3千万円。残りは融資でまかないました。
「最初のキノが始まったときの出資者102人のうち、90数人は顔が分かります。でも今度は6割の人の顔が分かりません。5年やってきて、それだけお客さんが応援してくれて株主になってくれたんだと思うと、正直、うれしかったです」
株主に配当はありません。なにせまだまだ赤字状態です。いわゆるミニシアター系の映画でも、客が入るとなれば大手の映画館が手を伸ばします。映画館の激戦区となっている札幌でのミニシアター経営は簡単ではありません。
ただし株主には感謝の気持ちとして年間5枚の招待券、または道外の人など希望者には旬のアスパラを送っています。
洋さんに、これまで一番好きな時代はいつだったのかと聞いてみました。
「駅裏8号倉庫の時代が一番好きでしたね。お金はなかったけど自由がありました。自分たちの場を自分たちがやって、規制も自分たちがする。好きな映画に囲まれて今の僕も楽しいですけれど。でもやっぱり金に追われる生活をしていますからね。プレッシャーがあります。それと体力的にきつい。ものすごいハードです。メチャメチャ混んだ日は、夜には体がガタガタになっています」
そんな洋さんですが、映画上映や飲食店経営だけに収まってはいるわけではありません。新たにさまざまな活動を展開し始めています。1つが2年4期目を迎えたキノ映画講座。映画監督などを講師にして月2回開かれています。また今年からそれに実践ゼミが加わりました。自分たちで自主上映をやってしまおうというゼミナールです。
「ホームページの掲示板なんかに、こういう作品を上映してくれませんかというリクエストがよくあります。僕はマイナーな作品だったら、一緒に自主上映しない?あんたも汗かかない?と挑発してしまう。シアターキノで映画を観ること、それはそれで素敵なことです。でも自分の観たい映画をみんなで苦労しながら上映するということもすごく楽しいことなんです。駅裏8号倉庫が原点だというのも、僕にとってはそういう意味もあるわけです。それで映画講座とは別に実践ゼミをつくりました。『私はキノとはちがう映画館をつくります』という人でも出てくれば、最高におもしろいと思います」
最近はやりのフィルムコミッション(FC)や地域通貨構想にも洋さんは関わっています。若いころからのチャレンジ精神はまだまだ衰えを知りません
中島洋さんとキノの軌跡
50年 下関に生まれる。
53年 神戸に移住。
65年 兵庫県立神戸高校入学・山岳部入部。3年のとき県大会で優勝。
68年 北大文類入学・山岳部に入部したが、父親が亡くなり山をあきらめる。
69年 北大映画研究会に入会。
71年 東京でCFの助監督などを始める。
72年 札幌に戻り北大除籍。
74年 エルフィンランド開店(南2西5)。
75年 ロックコンサート「十転満店」が始まる(79年まで)。
80年 ジャマイカとニューヨークで約3カ月過ごす。情報誌「DIGGER」発刊を手伝う(約1年)。
81年 駅裏8号倉庫開設(北6西1)。
83年 第2次駅裏8号倉庫開設(北3東3)。
86年 イメージガレリオ開館(南3西6長栄ビル)。駅裏8号倉庫閉館。
87年 エルフィンランドが移転(長栄ビルへ)。
90年 「YAMADA・ISAO 夢のフィールド」発刊。
92年 イメージガレリオ閉館・シアターキノ開館(長栄ビル)
94年 「妖精時代」発刊。
98年 新シアターキノ開館。エルフィンランド移転(南3西6南三条グランドビル)。
00年 キノ映画講座始まる。
02年 キノ映画講座実践ゼミ始まる。
キノ10周年。
洋さんにこれまで観てきた映画で最も印象深い3作を挙げて語っていただきました。
非行少年・陽の出の叫び
初めて監督を意識したのがこの作品。藤田敏八監督のデビュー作で、高校3年のときだと思います。
僕はサユリストでオードリー・ヘップバーンに憧れるふつうの少年でした。吉永小百合を観に行って、2本立てのもう1本だったと思います。僕はおくてでまじめでしたから、非行少年の話にすごいショックを受けました。こういう映画を作る人は何を考えているんだろうかと。これをきっかけに、いろんな映画を観るようになったんです。
2001年宇宙の旅
大学1年だったと思います。もちろんこれはハリウッドのメジャーな映画ですけど、つくる側のメッセージとか、そういうことも含めて映画を観ていく自分の方向性がこの映画で決定づけられたのではないかという気がします。世界観とか哲学が映画の中にちゃんとあるんだよなと。映画の持っているいろんな要素、1つの思想みたいなことも含めて、そうしたことを語ることができるんだなと。映画というものをすごくまじめに考えちゃった。単に娯楽だけではないよな、いろんなことが内包されているんだ、そういう世界なんだと。
もちろんスターで映画を観ることもありますよ。ジャッキー・チェンは大好きです。
アレクセイと泉
3本目は挙げ始めたらきりがないので、最近のものから。
これはひろみ(支配人)と共通しているんですが、最も好きな監督の一人が、ロシアのアンドレイ・タルコフスキーなんです。キノの階段のところにある大きな写真は彼のノスタルジアという作品からのものです。40万円くらいかかった。市民出資の映画館ですが、唯一私たちの趣味でつくってもらいました。
タルコフスキーの作品を挙げようと思ったんですけど、今ということで、タルコフスキーの世界の要素を含むこの映画を挙げます。
監督の本橋成一さんはチェルノブイリの写真をずっと撮り続けている写真家で友人でもあるんですが、ここまですごい映画を撮るとは、とショックでした。
この映画のキーワードはといえばイノセント(無垢)。チェルノブイリの小さな村に老人たちと30代後半の青年アレクセイだけが残っている。冒頭に森の中をずっと走っていくシーンがあるんですが、ガイガーカウンターが飛びっぱなしのすごい汚染地帯なんです。そういうところだけれども、村にある泉の水はまったく汚染されていない。村の人たちは、その水は100年前の水だから、というんです。
そして老人たちがじつにタフに生きている。アレクセイは少し障害があるんですが、イノセントな、聖なる存在みたいな。それに坂本龍一さんの音楽が見事に合うんだよね。
シアターキノのミニ知識
【設備】
A館とB館でそれぞれ63席と100席。
車イスでの鑑賞スペースは各館2席。狸小路商店街から段差なしで入場可能。トイレも使用可能。
【料金・サービス】
通常の封切り作品は当日1800円、学生1400円、前売は一律1400円。シニア(60歳以上)、高校生以下、身障者手帳を持っている人、その介添人は常時1000円。
毎月1日は映画ファンサービスデーで一律1000円。
毎週木曜日はレディースデーで女性が一律1000円。
毎週月曜日は組み合わせを問わず2人入場で2000円。
【運営システム】
中島洋代表のほか専従スタッフは3名、アルバイト1名。
ほかに約30名のボランティアスタッフがおり、受付や宣伝を担当。ほとんどが学生で無償だが、キノで上映されるすべての映画を無料で観ることができる。
札幌市中央区南3条西6丁目南3条グランドビル2F
電話 011-231-9355 FAX 011-231-9356
ホームページ http://www.infosnow.ne.jp/~kino/
伏島 信治さん(ふせじま のぶはる)
札幌国際大学観光学部教授の伏島さんは洋さんの北大時代の同級生。山岳部に一緒に入った仲ですが、すぐに洋さんが退部したこともあって、学生時代の交流はそれほどありませんでした。
キノを開設する1992年、シンクタンクのたくぎん総合研究所にいた伏島さんを洋さんが訪ねてきました。
「当時、札幌市の芸術文化構想づくりのお手伝いもしていました。市民サイドでいろんな活動をもっともっとやらなくてはならないという視点で、これはしっかり支援しなければと思いました。
それまでエルフィンランドにたまに飲みに行ったり、イメージガレリオの自主上映映画を見る程度だった伏島さんですが、これをきっかけに交流は深まります。
シアターキノに出資、当初の運営委員もつとめ、経営面のアドバイスなどをしました。キノでは月曜日にはペアで2000円という割引システムをとっていますが、これは伏島さんの提案だそうです。
「レディースデー(木曜)があるのに、男の割引がないのはおかしい。もっと男も来てほしいということで提案したんです。
伏島さんは群馬県生まれ。郡馬高専を中退し、山岳部にあこがれて北大入学。大学院を経て群馬県庁に入ったものの、1年半で辞めて北海道に戻ったというダブルUターンの経歴の持ち主です。
「そうと決めたら、あんまり考えないで走り出すのがいいんじゃないでしょうか。我々の世代はそうやって頑固に生きてきた。中でも中島は特異な存在です。でも中島も私も精一杯やってきて、峠にさしかかっていると思います。若い世代に我々を乗り越えてもらわなくてはなりません」
飯塚 優子さん
飯塚さんは駅裏8号倉庫の運営委員の一人で、イメージガレリオ時代からの出資者。エルフィンランドの常連でもありました。
自身は北海道演劇財団設立時の裏方をつとめるなど主に演劇関連の活動をしてきました。また2000年には札幌市西区にフリースペース「レッドベリースタジオ」を開設、表現や生活文化を通じての地域コミュニティ活動にも取り組んでいます。
8号倉庫は1981年9月にオープンし、鉄道高架化のため、翌年移転、86年2月まで活動しました。第2時倉庫の閉館にあたっては、常勤職員を置いて活動を継続させることも検討しましたが、私たちはそれを選びませんでした」
・ョ終了後、運営委員はそれぞれの道を歩みました。演劇関係では、劇団極(きょく)を主宰し演劇財団所属TPS養成所で若者の育成にあたる滝沢修さん、コミュニティFMや演劇による地域づくりを模索している松崎霜樹さん、埼玉で演劇鑑賞組織を立ち上げ、3年前に亡くなった雨宮基治さん……。その一方で演劇から遠ざかり、経営者や管理職として多忙な日々を送る人もいます。
「私にとって8号倉庫は今もアイデアと経験のおもちゃ箱なんです。どんな人がどんな役割を担っていたのか。温度差のあるメンバーとどう折り合ってゆくか。どうすれば面白いかなど、迷ったときや新しいことを始めるとき、エルフィンランドで議論した運営委員会を思い出します」