ケニアの首都ナイロビからサファリカーに揺られること3時間余、タンザニアとの国境のアンボセリ国立公園に着いた。車をおりて、標高5、895メートル、万年雪をいただいて端然とそびえるキリマンジャロを目にしたとき、「キリマンジャロの雪」の最後の1フレーズが忽然と頭にうかんだ。
「前方に、視野いっぱいに全世界のように巨大で高くて広いキリマンジャロの四角い頂が、陽光をうけて信じられないくらい純白に輝いていた」。
麓の粗末な小屋で執筆活動に従事したというヘミングウェイのありし日の姿を思って感慨もひとしおであった。
山はよい。何故よいのかと聞かれても返答につまるが、あえて答えれば「動かないからよい」。よいといっても、私は脚が不自由で山登りはできないから、もっぱら眺めているだけだが、季節のうつりかわりを映しつつ、いささかも動かぬその姿をみていると不思議に心が静まる。この7月のアフリカ行も「国連婦人の10年・NGOフォーラム」(ナイロビ大学)での報告という、私にとっては大役をかかえての旅であり、緊張と興奮の連続であったが、帰途立寄ったマウント・ケニヤ・サファリパークからみたMt.ケニヤの峻烈なる山容、キリマンジャロの悠容せまらざる山容は、疲れ果てた心と身を蘇生させてあまりあるたたずまいであった。
薄暮どき、サバンナのむこうに毫も動かないキリマンジャロと対峙しながらしみじみ思った。「限りなく小さいけど、かけがえのない人生、自分を飾らないで、素っ裸にのびやかに生きよう」。
そして山に問うた。その晩年、猟銃で我身をうちぬいて果てるとき、ヘミングウェイは彼の小説の主人公ハリーと同じく、あの万年雪のなかに突進してゆく夢をみながら果てたのであろうか。第一次大戦の経験から『武器よさらば』を書き、スペイン内乱に身を投じた体験をふまえて『誰が為に鐘は鳴る』を執筆したヘミングウェイにとって、その突進は、キリマンジャロが語りかけたであろうのびやかな生きざま、素っ裸の生きざまを拒否する現代社会のありように絶望しての歩みではなかったのか、と。
日没寸前の一瞬、キリマンジャロの万年雪の悲しいほどの白さが目にしみた。