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1985年11月号/第11号  [ずいそう]    

“自分”をみつめる時間
鈴木 喜三夫 (すずき きみお ・ 劇団さっぽろ演劇研究所長)

この9月、手刷りの小冊子『鈴木喜一小品集』が発行された。もちろん、親類や知人に無料でくばられる30ページくらいのものだが、それをまとめた私にとっては、いくつかの貴重な思いが残された。

鈴木喜一は、私の父の兄である。4年前の昭和56年(1981)、私は母(4月)、父(7月)に続いて、その伯父を相ついで亡くした。伯父喜一は、大正末から昭和初めにかけて、短歌や演劇を愛好したモボ(モダンボーイ)であった。『埋火』(大14)、『蟹』(昭6)『自由詩人』(昭8)などに作品を発表、少女誌『哀唱』(昭3)を編集・発行した。さらに「劇団ももんが座」(大14~昭3)を創設、有島武郎の『ドモ又の死』などを上演した。

その『哀唱』の同人一覧と『ドモ又の死』の上演記念写真に、独身時代の父と母が仲よく並んでいる。若い2人はそこで知りあい結婚し、私が生まれたのだ。伯父の短歌や随筆を整理しながら、私は改めて、父母や伯父の青春を想った。いま演劇の道を歩みつづけている私にとって、その事実は深く、重い。

この夏、佐渡で催された“第1回全日本子どものための舞台芸術大祭典”に参加した私は、観劇やシンポジウムの時間のあいまをぬって、金山のまち相川を歩いた。父の祖父母の生まれ故郷である。初めて訪れた古い街並は、不思議な感情で、私を包みこんだ。“自分”というものの原点――祖父の家のあった大床屋町の坂道や木々の緑が、なにか無性になつかしいものに思えてしかたなかった。除籍原本にも記載のない祖父母の長男(父や伯父の一番上の兄)と思われる人の養子先はみつかったが、その事実を知るいとこは、残念ながら今年5月に亡くなっていた。

史上2番目という真夏日が30日以上続く暑さのなか、汗をぬぐいながら私の求めていたものは何だったのか――伯父喜一の小冊子を作る作業は、改めて“自分”をみつめる大切な時間を与えてくれたのかもしれない。

9月14日、伯父の命日のその日、その小冊子は私の手元を離れていった。

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