ウェブマガジン カムイミンタラ

2003年01月号/第114号  [特集]    

ともに学び、ともに生きる瀬棚フォルケホイスコーレ

  塾生とスタッフがともに生活し、ともに働き、ともに学び、同じ目線の高さで語り合う。試験はまったくありません。そのかわり何の単位も資格も与えません。いわゆるフリースクールとはちょっと違います。その“学校”はなだらかな山あいにひっそりとたたずんでいました。

解け合う塾生とスタッフ 時間の流れはゆったりと

イメージ((瀬棚フォルケホイスコーレ看板))
(瀬棚フォルケホイスコーレ看板)

長万部から渡島半島を縦断して日本海に抜けると、そこが瀬棚町です。この町には日本初が2つあるといます。1つは公認女医第1号、荻野(おぎの)吟子(ぎんこ)の足跡。1897年(明治30年)荻野医院を開業し、約10年間辺地の医療に携わりました。

そしてもう1つがフォルケホイスコーレ。デンマークで生まれたこのユニークな学校が日本で初めて瀬棚の地に誕生したのです。

イメージ((瀬棚フォルケ・写真))
(瀬棚フォルケ・写真)

瀬棚の市街地から車で10分もかからない山あいにこの学校はあります。レンガ色の住居や牛舎が点々としており、遠くから眺めると北欧の村を思い起こさせる光景です。この建物群の中で瀬棚フォルケホイスコーレ(通称フォルケ)の塾生6人とスタッフたちが生活しています。

健康で穏やかな牛

イメージ(牛には主に牧草が与えられ健康そのもの。世話をする塾生たちも日に日に体力がついてきます。)
牛には主に牧草が与えられ健康そのもの。世話をする塾生たちも日に日に体力がついてきます。

朝6時、16頭いる牛舎の仕事が始まります。糞尿を片づけ、餌を与え、乳を搾る。スタッフと酪農実習生、それに塾生が加わります。乳牛には牧草と少量の穀物飼料などが与えられます。濃厚飼料を大量に与え、搾れるだけ絞り、4、5年で廃牛にしてしまう現代主流の方式とはまったく逆を行きますが、それだけ牛は健康で穏やかです。ここでは8、9歳の牛も乳を出しています。

塾生は牛舎での作業のほか朝食の準備などを担当します。早朝起きてこられない塾生もいますが誰も非難しません。できないことを無理にやらせることはありません。

イメージ(搾られた牛乳の一部は毎日の食卓に。塾生の健康を支えます。)
搾られた牛乳の一部は毎日の食卓に。塾生の健康を支えます。

8時から朝食。塾生とスタッフたちは「森の家」と名づけられた建物内の食堂に集います。前の晩に焼いたパンとスープ、牛乳、ジャムなどが並びます。

語り合い

9時半からはミーティングや作業など日によってさまざまなことが行われます。ミーティングでは、塾長(校長)の河村正人さん(60)と塾生が輪になって、それぞれの課題について話し合います。語り合いはフォルケがもっとも大切にしていることの1つです。

「マサトさん」または「マッさん」。塾生たちは親しみを込めて河村さんをそう呼びます。年齢は親子以上に離れていますが、親と子、先生と生徒という雰囲気はありません。強いて言えば兄と弟や妹という感じでしょうか。塾生もスタッフもそれぞれファーストネームや愛称で呼び合っています。

「デンマークやノルウェーのフォルケでは誰が先生で誰が生徒か分からない」と正人さん。生徒の年齢に上限はないため、年長の生徒よりずっと若い校長が多いそうです。正人さんも塾生の中にしっかりとけ込んでいます。

途中でようやく塾生全員がそろいました。昼夜が逆転し、昼まで起きて来ない塾生もいるとのことですが、月日が流れるうちに少しずつ変わっていくようです。

体力と気力

昼の12時からは昼食。午後1時半から3時半までは作業やスポーツが日替わりで決められていますが、それも天気や外の行事などの諸事情に合わせて臨機応変に対応します。夏は牧草地や牛舎での作業のほか、お年寄りの農家へのボランティア援農、冬は屋内で食品加工や木工、大工仕事などが多くなります。

午後4時半からは牛舎の仕事や共同スペースの掃除、夕食作りなどをそれぞれが分担します。

フォルケの居間ともいえる通称「赤い家」には正人さんと隆子さん夫妻、食堂がある「森の家」には中心スタッフの福田仕(まなぶ)さんが住んでおり、この2棟に塾生も住み込んでいます。そのほか牛舎、機械庫など多くの建物が斜面に点在しています。牛舎に行くにも食事をするにも上り下りしなければなりません。

イメージ(冬に備えて雪囲いの作業。生きるためのさまざまな技術が身に付きます。)
冬に備えて雪囲いの作業。生きるためのさまざまな技術が身に付きます。

「ここでは体力をつけることが大きな目標の1つです。体力は気力を伴うというのが私たちの考えなんです。気力が希薄で乗り越えられないと思っていたことが、ここに来て体力がついて、何だ簡単に乗り越えられた、ということもずいぶんあるようです」と正人さんはいいます。

共生

夕食は7時。そのあとハンドベルや合唱の練習などがあったり、自由時間となったりで、季節や曜日によってさまざま。それぞれが個室を持っていることもあり、就寝時間もバラバラです。

訪れた時期はクリスマスが近づき、ハンドベルの練習がピークを迎えていました。クリスマスキャラバンを組んで山の小学校や老人の施設を巡回します。塾生とスタッフがベルを持って、もののけ姫のテーマなど数曲を練習していました。

うまい人は3個や4個ものベルを担当しますが、初心者は1個。それぞれのレベルに合わせての演奏です。ただし音階が1つでも欠けると曲が成り立たない。そのため練習には塾生全員が集います。フォルケを表す言葉の1つに「共生」があります。まさしくハンドベルはともに生き、ともに支え合う姿そのものです。

イメージ(ハンドベルはチームワークがもっとも大切。まさに共生そのものです。)
ハンドベルはチームワークがもっとも大切。まさに共生そのものです。

全体の印象としてフォルケの1日は、時間がゆったりと流れているようです。早朝からの牛舎の作業、日によっては夕食後にも予定は入っていますが、それでもゆったり感に満たされている。1つは、全寮制で通学の時間を必要としないことがあるはずです。また食事のあとの時間もたっぷりとってあり、慌ただしさがありません。そしてテレビがないことも大きな要因でしょう。ないわけでもないのですが、それは土曜日の夜のビデオ映画観賞用です。

たっぷりある自由時間で塾生たちはバイオリン、チェロ、ギターなど楽器の練習をしたりしながら、思い思いの時間を過ごします。フォルケを表す言葉の中にはこのゆったり感も含まれるかもしれません。

日本とデンマーク 生活の違いに愕然

イメージ(酪農大の後輩など大勢の協力を得ての出発でした。)
酪農大の後輩など大勢の協力を得ての出発でした。

正人さんが瀬棚にやってきたのは33年前の1969年でした。酪農学園大学(江別市)の4年生のときです。当時酪農大の卒業生は道内各地に入植し、牛飼いを始めていました。瀬棚にも先輩である生出(おいで)正実さんが入植しており、彼の世話でやってきたのです。

村人の支援

イメージ(開拓はまずクマササ原野の野焼きから始まりました。)
開拓はまずクマササ原野の野焼きから始まりました。

買った土地は24ヘクタール。坪(3.3平方メートル)18円でしたから、全部で130万円ほど。一面クマササに覆われた山でした。とりあえず3ヘクタールの畑(草地)を持たないと農家として認められないため、付近の農家の人々に助けてもらい野焼きにかかりました。

正人さんは酪農大の2年と3年の間に休学し、3年間デンマークの酪農家で実習したことがあります。シベリア鉄道経由で帰ってきたのですが、山火事で丸1日煙の中を走っていた日がありました。それを思い出させるような光景でした。

ここで正人さんは自分の未熟さを思い知らされます。自分の持ち場から火があらぬ方向に燃え広がってしまいました。自分はオロオロするばかり。その時、鍬(くわ)で防火線をつくり、衣服で炎をたたき、噴霧器で水をかけ、懸命に延焼をくい止めてくれたのは農家の人たちでした。

自分の土地までの道はありません。そして途中には川があります。その川に橋を架けてくれたのも村人たちでした。ブルトーザーで川を埋めてしまい、その上に丸太を組んで橋を作る。ほどなくせき止められた川水がいっぱいになるので、ちょっと水路をつくってやれば、水が一気に流れ、せき止めた土も流出するという、荒っぽい方法でした。

流れ出る涙

1970年4月、大学を卒業した正人さんがこの地に入植します。すでに隆子さんと結婚しており、3カ月になる長女を連れていました。

牛3頭から始めた酪農ですが、土地はすべて普通のトラクターならひっくり返るような傾斜地。広くて平らな土地を持つ農場に手伝いに行って、家に戻って自分の土地を眺めたら涙が流れてどうしようもなかったといったこともありました。

またこの土地には酪農には欠かせない水が安定して得られないという致命的な欠陥もありました。あまりの悪条件で周囲の人々は「いつ出て行くんだろう」とささやき合い、実際に逃げ出してしまおうと思ったことも一度や二度ではありません。

イメージ(まず作ったのが掘っ立て小屋。正人さんも隆子さんも若かった。)
まず作ったのが掘っ立て小屋。正人さんも隆子さんも若かった。

水は横穴を掘るなど試行錯誤を繰り返した後、奇跡的に掘り当てることができました。こうした苦しい経験はなにも正人さんたちが特別だったわけではなく、辺地に開拓に入った人々に共通することだったはずです。正人さんたちに違いがあったとすれば、ある特別な志を持っていたということでしょう。それがデンマーク留学のときに知ったフォルケホイスコーレでした。

正人さんはデンマークで大きな衝撃を受けました。それは日本とあまりにも異なる酪農家の女性の立場や生活環境です。

「江別の酪農家に下宿していたとき、奥さんは夜の8時9時まで働いて、それから夕食の準備です。デンマークでは6時になると野良仕事をさっと切り上げ、牛舎の仕事も終えて、6時20分には夕食となる。それも簡単に済ませて、あとは自由時間です。週に2回はほかの農家に遊びに行ってなごやかな時間を過ごしていました。私は最初の1年くらいは言葉が通じなくて苦労しましたが、バイオリンが弾けたおかげで助かりました」

瀬棚フォルケでは塾生に何か1つ楽器の練習を奨励していますが、その背景には「音楽は一番確かな言葉」という正人さんの体験があるのです。

女性の境遇があまりにも違い過ぎることに驚いた正人さんが、その要因は何かと考え、たどり着いた結論が農村に民主主義を根付かせたフォルケの存在だったのです。

信仰が支えに

酪農を始めた正人さんたちは、農作業だけでなく瀬棚の街に通って看護婦として働き続けた隆子さん、4人の娘さん、多くの実習生たちの協力を得て順調に規模を拡大していきます。しかしフォルケが常に頭の中にありました。建物も将来の展開に合うように建てられていきました。そして入植から20年目の1990年、再度のデンマーク訪問を経て、自らの酪農を縮小、瀬棚フォルケホイスコーレが誕生したのです。

瀬棚フォルケは「神を愛し、人を愛し、土を愛する」というデンマークのフォルケの創立者の1人クリステン・コルの言葉を1つの柱としています。正人さんはじめスタッフはキリスト教の信者で、毎週日曜日には教会に通っています。塾生にもすすめていますが、もちろん強制はしません。

こうして創立以来12年以上が経過した瀬棚フォルケですが、国など行政からの補助は一切受けず、独立を貫き通しています。本家である北欧のフォルケは補助金に頼って経営されています。そのため生徒は優遇され、建物も日本の短大以上に立派だといいます。

「私は思うんですが、どんなにお金があっても、立派な施設があっても、飢えといいますか、渇望感がなかったら、どんなにおいしい食べ物でも入りません。一から作っていこうというのも開拓精神だと思います。文部省からの条件付きのカネは一切いらないというのも開拓精神の1つなんでしょう。その代わりみんなで分け合って食べる。1つの仕事をみんなで助け合ってやり遂げる……」

数年前ノルウェーの伝統あるフォルケの校長が視察にやってきました。完全独立の瀬棚フォルケはいつの間にか世界でも注目される存在になってしまっているのかもしれません。

高齢者のフォルケ

今後は高齢者を対象としたフォルケも発足させたいと正人さんはいいます。近くの今金町で牧師をしていた牧野冨士男さんが瀬棚フォルケの建物群の中に宿泊施設を建設しました。完全電化やバリアフリーで年輩者に配慮したつくりです。

「数は少ないのですが北欧にも高齢者のためのフォルケがあります。カルチャーセンターのように幅広く教えるというのではなくて、ともに生活し、語り合うという時間をとっても大切にする。お互いの人生をゆっくり振り返って。歳をとるとあまり長い期間の共同生活は不可能でしょうから2週間とか1週間とか、新しい環境で生活する」

正人さんの理想像は、一段高いところからの目線を持つセンセイではなく、同じ目線だが年齢がちがう経験豊かな世話好きのおじさん。イメージはそんなところでしょうか。

世間ではNPOが次々に設立され、その多くが行政からの補助金を期待しながら活動しています。そのこと自体は歓迎すべきことですが、一方で完全独立を貫き通している人々もいるのです。瀬棚フォルケは地域に根ざした活動が評価され、2001年には道新ボランティア奨励賞を受けていますが、まだまだその存在は知られていません。

正人さんはフォルケが道内にあと何カ所かあれば、と願っています。ぜひそんな広がりをみせて欲しい学びやです。

イメージ(フォルケの夕食はにぎやか。スタッフや塾生、お客さんなどが集います。)
フォルケの夕食はにぎやか。スタッフや塾生、お客さんなどが集います。


瀬棚フォルケホイスコーレの1年
4月 入学式 町内ハイキング 畑の準備 ドラマ 山菜採り 防火訓練
5月 花ウオッチング 沢下り 植樹祭 放牧準備 薪割り
6月 ハイキング 牧草収穫(サイロ詰め) 近隣農家手伝い
7月 サイクリング 海水浴 乾草上げ キャンプ
8月〈夏休み〉
9月 乾草上げ 野菜の収穫 登山 そば刈り スクールトリップ(旅行)
10月 ハイキング ハロウィン そば落とし 薪運び
11月 食品加工 町文化祭 そば打ち 工芸
12月 クリスマスキャラバン コーラス発表会 〈冬休み〉
1月 スキークラス 近隣農家訪問
2月 立春パーティ 卒業製作 スキー遠足
3月 卒業式 感謝会 フェアウエルパーティ

フォルケホイスコーレとは?

デンマークでおよそ160年前にグルンドヴィという国民的詩人が提唱した学校です。フォルケとは英語のフォーク(folk)で民衆といった意味。ホイスコーレはハイスクール(high school)です。この学校は農民解放運動に支持されてデンマーク中に広まり、卒業生たちは世界初の農民協同組合を結成、農民政党を組織して労働者と協力し、政権をとりました。

現在はデンマークに約100校、北欧で約400校が存在し、規模はまちまちで、だいたい50人から100人程度が多いそうです。

原則として全寮制で試験を拒否し、入学時の試験もなく資格も問いません。また卒業時の資格も与えません。デンマークでは国からの補助が全経費の最高75%にも及びますが、政府からの干渉は排除されています。

かつて日本では内村鑑三や賀川豊彦などがグルントヴィから大きな影響を受け、東海大学の松前重義はフォルケホイスコーレにならって望星学塾を開き、玉川学園の小原国芳も少なからぬ影響を受けたとされています。

当時は国民高等学校と訳され、学校も誕生しましたが、その概念を正確に表す日本語がないため、現在ではフォルケホイスコーレをそのまま使っています。

日本で初めてこの名前がついた常設校となったのが瀬棚フォルケホイスコーレで、そのあと小国(おぐに)フォルケホイスコーレ(山形県)などが誕生しています。

参考:「生のための学校」(清水満著 新評論)

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