ウェブマガジン カムイミンタラ

2003年03月号/第115号  [特集]    

稚内サハリン館隣人との交流が育む

  最北の街、稚内。しかし最北というのは日本に限ったことで、その先40数キロにはロシア・サハリンがあるのです。毎年冬になるとそのサハリンが稚内にやってきます。稚内サハリン館です。異国情緒漂うこの空間は、稚内とサハリンがこれまで育んできた交流の象徴ともいえるようです。厳寒期の稚内で地元の人々の熱い思いを聞きました。

稚内とサハリンが融合

イメージ(対岸の埠頭から眺めたサハリン館と漁船、百年記念塔など)
対岸の埠頭から眺めたサハリン館と漁船、百年記念塔など

稚内の副港通り。岸壁には100トン級の沖合底引き網漁船がずらりと並び、道路を隔てた陸側には観光客に人気の海産物市場。大型観光バスが停まっています。稚内サハリン館はそんな副港通りに建っています。

夕方になるとその館に灯がともります。ステンドグラスをあしらった三角形の玄関が客たちを迎えます。外は連日氷点下。しかも場所は繁華街からちょっと離れた、夜は寂しい港の道路。玄関内に入ってホッとするようなところです。主要ホテルとを結ぶ送迎バスが運行されていて、観光客の多くはバスでやってきます。

1階が稚内館、2階がサハリン館。建物全体の名称が稚内サハリン館です。1階の稚内館は壁一面に漁船の大漁旗が飾られたレストラン。魚介類など稚内の味覚を炭火焼きで楽しむことができます。客の大半はコースメニューを注文。2千5百円と4千円のコースがあり、4千円コースには稚内名物たこしゃぶ、宗谷黒牛串焼き、タラバガニの脚が付きます。

イメージ(サハリン館のスタッフたち。和気あいあいです。)
サハリン館のスタッフたち。和気あいあいです。

そんな稚内館に2階のサハリン館からショーの始まりを知らせるアンサンブル「カリーナ」のメンバーがやってきました。一晩に3回行われるショーの時刻になれば客たちは食事を中断し、席をそのままにして階段を上っていきます。稚内館とサハリン館に“国境”はありません。自由な行き来があるだけです。

文化と人の楽しい交流が

イメージ((稚内サハリン館・写真))
(稚内サハリン館・写真)

色鮮やかな民族衣装を着けた男女6人が舞台に並びました。女性はみなロシア美人。男性も男前です。合唱が始まりました。「トロイカ」「百万本のバラ」など日本人にもなじみの曲のほか、「明日があるさ」「てんとう虫のサンバ」など現代日本の歌謡曲も入ります。静かに合唱したりステージ狭しと踊ったり。ロシア人の陽気さが空間全体を揺り動かします。

イメージ(ベースを担当する大型のバラライカも。)
ベースを担当する大型のバラライカも。

曲の合間には通訳の女性が簡単なロシア語講座。こんにちは、ありがとう、さようならのロシア語の練習です。また三角形の胴をもつ独特な弦楽器バラライカなど、使われている楽器の説明などもありました。

イメージ(ステージは一晩に3回。毎日続きます。)
ステージは一晩に3回。毎日続きます。

最後は客を巻き込んでの踊り。女性たちが客席に降りてきて誘います。嫌がっていた人も強引に引っ張り込まれ、ステージに上るとクライマックス。拍手と歓声のうちに約30分のステージが終了しました。「ハラショー」(すばらしいの意)の掛け声が出ました。笑顔が観客たちからこぼれます。そのあとはステージに客たちが上ってアンサンブルメンバーとの記念写真の撮影です。

イメージ(レストラン「チャイカ」の2千円コース。)
レストラン「チャイカ」の2千円コース。

ステージわきには小さなロシア料理のレストラン「チャイカ」。サハリンからやってきた女性シェフがボルシチ(スープ)、ペリメニ(餃子)などの料理を提供します。ピロシキや黒パンはここでは作られていませんが、すべてシェフの指示通りです。2千円と4千円のコース料理があります。

イメージ(おみやげ品のコーナーにはマトリョーシカ人形のほか、ブローチなどの小物、おもちゃなども。マトリョーシカは自分でも絵づけもできます。)
おみやげ品のコーナーにはマトリョーシカ人形のほか、ブローチなどの小物、おもちゃなども。マトリョーシカは自分でも絵づけもできます。

客席の後側はおみやげのコーナー。ブローチやチェスセットなどもありますが、大部分を占めているのがマトリョーシカ人形です。人形の中に一回り小さい人形、その中にはさらに一回り小さい人形…と多数の人形が入っているロシアを代表するおみやげ品。最近ロシア国内での人気は今ひとつだそうです。日本のこけしのような存在でしょうか。自分で色を塗る絵付け体験のコーナーもありました。

おみやげ品の品定めにはアンサンブルのメンバーも応対します。言葉はあまり通じなくても身振り手振りで客と接し、帰るときには並んで見送ります。人間同士の交流がそこにはありました。

始まりは手づくりイベント

イメージ(おみやげ品のコーナーにはマトリョーシカ人形のほか、ブローチなどの小物、おもちゃなども。マトリョーシカは自分でも絵づけもできます。)
おみやげ品のコーナーにはマトリョーシカ人形のほか、ブローチなどの小物、おもちゃなども。マトリョーシカは自分でも絵づけもできます。

この稚内サハリン館は、現在の日本の娯楽施設の水準からすれば、古さや貧弱さは否めません。開館時間も夜だけに限られ中途半端です。というのもこの建物はもともと漁業関係の倉庫に使われていたものなのです。そしてサハリン館がそもそも「サハリン村」という手作りのイベントから始まったという事情もあるのです。

1999年12月1日、その村は同じ副港通りの古い倉庫で産声を上げました。倉庫の中にはロシアの文化がちりばめられていました。客はピロシキをほおばりウオッカを傾ける。ステージでは若いロシア人女性が歌や踊りを披露する。もちろんマトリョーシカ人形も置かれていました。

暖房は工事現場などで使われるジェットヒーター。石油のにおいがプンプンします。そんな中でかいがいしく働いていたのが日本人青年たちです。屋外のお祭り会場のような不思議な空間でした。

サハリン村実行委員会。学校祭の実行委員会のような響きを持つこの団体は市内の企業など38団体によって構成されました。そしてボランティアスタッフとして働いたのが稚内観光協会青年部員などの人々でした。

通常の仕事をしながらのボランティア活動です。いきおい参加できるのは夜だけで、営業は7時から9時まで。12月初めから1月末までの2カ月連続イベントでした。

次のシーズンからサハリン村はサハリン館と名を変え、現在の建物に移ってきました。屋外イベント風から常設館風へと雰囲気はガラリと変わり、期間は11月から3月まで、時間も6時から9時までになりました。それでも主催は同じサハリン村実行委員会。手作りイベントの延長であることは変わりありません。

行き詰まったカニツアー

稚内観光協会がサハリン村を立ち上げたその最大の理由は冬の観光です。夏の稚内は宗谷岬など最北の自然、また利尻礼文航路の発着港ということもあって、稚内空港は東京から2便、関西からも1便が就航する活況。ホテル・旅館が足りないほどです。しかし冬場となると一転。閑古鳥が鳴く状態でした。

なにせ島へのフェリーは時化(しけ)で欠航がち。稚内独自の観光といっても国内最大規模の犬ぞり大会が行われる程度です。宗谷岬の強風は夏でも冷たく、冬は観光どころではありません。空港の滑走路が延長・整備され、ようやく実現した東京便の冬期運行ですが、存続は危うい状況でした。

それに対して稚内市がとった奇策が、ロシアからの輸入が急増していたカニを目玉にしたカニツアー。東京からの観光客に市が5千円相当のカニを提供するという大盤振る舞いでした。

安ければ2万円程度のツアー料金でロシア直送のカニが腹一杯食べられるとあって企画は大ヒット。忘年会を稚内で開く会社も出るほどです。

しかし問題もありました。すでにロシアではカニ資源の減少が目立ち始め、稚内市民からは東京からのツアー客だけへの優遇に疑問の声が出ました。稚内市民にも東京便を利用すれば5千円の補助が出ましたが、往復の料金は東京からのツアー料金とは比べものにならない高さでした。

5千円のカニ料理はその後4千円相当の夕食の提供などに変化しながら現在に至っています。直行便を維持するため、こうした優遇措置は不可欠という現状は今でも変わらないのです。

この便がなくなると冬に稚内から東京に向かうには稚内空港から千歳空港を経て行かなくてはなりません。市民の生活や産業にも大きな影響を与えます。

こんな冬の事情にあってカニだけでない観光の目玉にと出てきたのがサハリン村だったのです。なぜサハリンなのか。そこには稚内とサハリンとの古くて新しい交流の歴史がありました。

研修生受け入れで絆強く

戦前には稚泊(ちはく)(稚内・大泊(おおどまり)=コルサコフ)や稚斗(ちと)(稚内・本斗(ほんと)=ネベリスク)の航路がありました。稚内の名所となっているドーム型防波堤は列車を波から守るもので、連絡船の発着場でした。戦後は東西冷戦状態となって交流は消え、あっても漁業関係のみという状態になっていました。ところが旧ソ連のペレストロイカ、さらにはソ連の崩壊、新生ロシアの誕生によって交流は再開され、稚内市は古くからのネベリスク市に加え、1991年にはコルサコフ市、2001年にはサハリン州の州都ユジノサハリンスク市と友好都市提携を結びました。

91年には初めて稚内空港からユジノサハリンスクに向けてチャーター航空機の直行便が飛びました。95年からは夏場にロシア船が稚内コルサコフ間に就航、99年からは地元東日本海フェリーの「アインス宗谷」が夏期の定期便として就航し現在に至っています。

その間民間交流も活発化してきました。その1つが稚内商工会議所が行ってきた研修生の受け入れです。

最初の94年には稚内市の友好都市であるコルサコフ市とネベリスク市から計4人。99年からはユジノサハリンスク市からも受け入れ、毎年4~6人の受け入れで昨年までに合計46名になりました。

外国からの研修生というと安い労働力目当てが多いようですが、稚内のケースは本当の意味での研修。その中からはコルサコフ市の副市長も出ているほどです。またOBたちは稚内クラブという親睦団体をつくり、稚内の研修受け入れ企業でつくる稚内サハリンクラブと交流を保っています。

貿易は今のところ勉強期間

ショッピングセンターユアーズを経営する稚内とみおか商店会(協同組合)の今村光壹(こういち)理事長(53)は稚内サハリンクラブの会長をつとめています。またサハリンからビールを輸入し、サハリン館や稚内空港の売店などに提供しています。これまで7人の研修生を受け入れてきました。サハリンへの渡航歴は20回にも及ぶそうです。

イメージ(ビールの輸入を手がけるショッピングセンター経営の今村さん。貿易はまだまだ勉強期間だといいます。)
ビールの輸入を手がけるショッピングセンター経営の今村さん。貿易はまだまだ勉強期間だといいます。

「ロシア人はおもしろいと思いますよ。日本人に似た心がある。お世話になったら倍にして返す。それにアメリカ人ならイエスかノーしかありませんが、ロシア人にはその中間のマアマアというのがあるんです。人の気持ちを考えてすぐに断らないところがあります。それがずるいとか、いい加減になってしまうんでしょうが」

2000年には缶ビールの輸入を開始、これからは瓶(びん)ビールも手がけていく予定です。しかし取材で訪れたころは輸入ビールの在庫が底をつき、サハリン館でも飲むことができませんでした。

添加物の関係で日本の検疫を通るのはなかなか難しいといいます。それでもようやく実現にこぎ着けました。

イメージ(瓶ビールも今後輸入される予定(検査前の見本)。)
瓶ビールも今後輸入される予定(検査前の見本)。

「日本にビールを輸出するのはきわめて異例で、向こうの新聞やテレビに出た。新聞記事を翻訳してもらったんですが、日本にビールを輸出することはシベリアに雪を輸出するくらい難しい、日本人が認めたということはたいへん良い商品なんだ、と書いてある。それでビール会社の社長は一躍有名になっちゃった」

ただしそのビールは経費がかさみ、なかなか安く売るわけにはいかないのが現状。小売値は500ミリリットル缶3本で千円といったところ。商売としては成り立ちません。

イメージ(サハリンから輸入されている缶ビール)
サハリンから輸入されている缶ビール

「私はサハリンとの貿易の訓練、勉強だと思っているんです。日本に大量輸入してもあまり飲まれないでしょう。そういう期待より、稚内に来たらちょっと違ったにおいがしてサハリンの味がする。ちょっと違った文化とかおみやげがあるよと。地域性というか特殊性というか、そういうものが大事だと思いながら練習しているんです」

今村さんはロシア貿易の会社を設立、ウオッカの輸入を計画しています。また今後の展開として目を付けているのがチョコレート。これとパンだけはサハリンの方が日本よりおいしいそうです。パンは無理でもチョコレートの輸入を実現したいと考えています。

建設業界も隣国を支援

土木・建築業の富田組社長、富田伸司さん(43)はサハリン館で売られているマトリョーシカ人形を輸入している稚内サハリン国際貿易(株)の専務でもあります。サハリンは8回訪れました。

イメージ(マトリョーシカ人形を輸入する会社の専務でもある富田さん。本業の土建業の交流も盛んになりつつあります。)
マトリョーシカ人形を輸入する会社の専務でもある富田さん。本業の土建業の交流も盛んになりつつあります。

「当初はただ行って観てくるだけだったんですが、いつまで経っても観て帰ってくるだけでは向こうからも相手にしてもらえない。経済的な交流をしようとなって、当初はこちらから輸出しようとしたんです。でも物価の違いがいかんともし難い。そこで輸入を始めることになって、最初アンモナイトを輸入してみたんですけれどもなかなか売るのが難しい。それでたまさかなんですがサハリン館もあることでマトリョーシカ人形を輸入することになったんです」

富田さんは観光協会の常任理事もつとめています。土木・建築業とは畑違いです。

「建設業も地域が良くならないと仕事がありません。地域が衰退すれば我々の仕事も衰退する。活性化すれば我々の仕事もあとからついてきます」

富田組でもサハリンからの研修生を受け入れてきました。

「ロシア人は個人的には非常にいい人です。毎日顔を合わせていますと言葉は通じなくても情が通じる。私たちがサハリンに行ったときには大歓迎してくれます」

本業でもサハリンとの経済交流は進んでいます。2001年にコルサコフでは稚内の建設業界とコルサコフ市関連会社などによる合弁会社「ワッコル」が設立されました。建設関係では日本初の日ロ合弁会社でした。

「合弁会社はつくったものの、機械が不足している。キャッシュで払うなら買えるけれども、それではお金がいくらあっても足りない。それで宗谷管内の建設業者の有志が建設機械の会社を新たにつくりました」

建設機械をリースする稚内建設機械(株)が設立され、ワッコルをバックアップする体制がつくられました。

サハリンは石油・天然ガスの大規模開発が進んでいます。天然ガスはコルサコフと稚内を経由したパイプラインによって日本に供給される計画です。社会資本の貧弱なサハリンには、建設関係の投資や援助が欠かせません。稚内市や近隣の建設業界は、これまでつちかわれてきた信頼関係をもとに、業界がこぞって支援し、投資に伴う危険も分散させているのです。

サハリン館の将来は?

こうしたさまざまな経済交流の原点が稚内とサハリンとの友好です。そしてその象徴の1つが稚内サハリン館なのです。単なる観光施設ではありません。

アンサンブル「カリーナ」のメンバーに休みはありません。年末年始の休みを除く5カ月間毎晩出演しています。みな音楽の先生などで、文化使節として来ています。ギャラをもらっているわけではありません。通訳の人が学校で1日講師をつとめたり、アンサンブルのメンバーが絵画クラブのモデルに乞われたり。館外での交流も盛んです。サハリン村発足以来のボランティア精神がロシアのスタッフにも根付いているのです。

ただしサハリン館とサハリン村実行委員会が将来もこのままなのかといえば、難しいところです。企業からの寄付と市などからの助成でようやく成り立っているのが現実だからです。

稚内観光協会専務理事でサハリン村実行委員会事務局長の松本英雄さん(61)は言います。

イメージ(「これからもサハリン館は交流の中心」と観光協会専務の松本さん。サハリン村実行委員会の事務局長でもあります。)
「これからもサハリン館は交流の中心」と観光協会専務の松本さん。サハリン村実行委員会の事務局長でもあります。

「フェリー、稚内駅、市場などを巻き込んだ稚内市のマリンタウンプロジェクトがあるのですが、その中にサハリン館は中心に位置づけられると思っています。今の場所では市ッは利用しにくいという声、通年開いて欲しいという声もあります。場所をどうするか、どういう形の運営にするかなど、内容も含めてこれから模索していくことになるでしょう」

稚内とサハリンとの交流の象徴といえるサハリン館。将来の姿はまだはっきりとは見えていませんが、これからますます発展し、国境を越えて培われてきた相互理解の輪がどんどん広がって欲しいものです。


サハリン交流と稚内サハリン館の経過
・1972年 9月 稚内市がネベリスク市と友好都市提携締結
・1991年 7月 市がコルサコフ市と友好都市提携締結
・1991年 9月 稚内空港からユジノサハリンスクに直行チャーター便
・1994年 8月 稚内商工会議所がサハリンからの研修生を初受け入れ
・1995年 4月 稚内・小樽とコルサコフ間の定期船航路開設(夏季のみ 97年からはチャーター船)
・1997年 5月 サハリンの研修生OBが稚内クラブを設立
・1997年11月 東京―稚内直行便通年化
  カニツアー開始(市が5千円相当のカニ料理を提供)
・1999年 5月 日本船による稚内コルサコフ定期航路再開(9月まで)
 12月 稚内サハリン村開設(2カ月間)
・2000年11月 稚内サハリン館開館(1階ステージ、2階レストラン 5カ月間)
  市がツアー客に4千円相当の夕食を提供
・2001年 9月 市がユジノサハリンスク市と友好都市提携締結
・2001年11月 稚内サハリン館開館(1階が稚内館、2階がサハリン館に 5カ月間)
・2002年 5月 市がサハリン事務所を開設

◎この特集を読んで心に感じたら、右のボタンをおしてください    ←前に戻る  ←トップへ戻る  上へ▲
リンクメッセージヘルプ

(C) 2005-2010 Rinyu Kanko All rights reserved.   http://kamuimintara.net