「社長、五島軒(ごとうけん)が燃えています」との連絡を受けて駆けつけたとき、すでに火元の本店に隣接する空き家は炎上し、さらに道路側の空き家に火は移っていた…。
走って玄関に飛び込んだ。ステンドグラスがあった階段踊り場の穴から炎が吹き込んでいるのが見えた。その穴めがけて店内備え付けのホースで放水しているのはタキシード姿の菊地本店長ではないか。「われわれがやる、もう階下に降りなさい」という怒声。爆発音が聞こえた。数人の消防士が、「2階(王朝の間)の天井裏に火が入った。屋根、天井を破って放水しろ」と叫びながらホースを持って上がってきた。もう消防隊に任せるほかなかった…。
これは北海道新聞の道南版に掲載されている「立待岬」というコラムの一部です。五島軒の社長、若山直(なお)さん(57)も月に一度書いています。このコラムで若山さんは自分の店が燃えるという生々しい報告をしなければなりませんでした。
2002年9月25日午後8時半ごろ、五島軒本店の隣の空き家から出火しました。本店は70年ほど前に建てられた本館(旧館)と、その隣に20年ほど前に建てられた新館の2館で成っています。出火したのは本館隣の家でした。
社員たちは客を避難させたあと、店内備え付けの消火用ホースで、ステンドグラスが焼け落ちた階段踊り場の窓から隣家に向かって放水します。しかし火の手はいっこうに収まる気配はありません。炎が函館山の山頂からはっきり見えたほどです。火は外壁を立ち上ぼり、通風口から入り込んで2階の天井裏に広がりました。
到着した消防隊は、屋根に穴を開けて注水を開始しました。本館2階には「王朝の間」と名づけられた伝統ある大広間があり、1階には船山馨の小説「蘆火野」のメモリアルホールなどが配置され、貴重な資料が展示されています。社員たちは大量の水が2階天井に注ぎ込まれる中で、彫刻、絵画、小説の直筆原稿などを、防火壁を間にして廊下でつながっている新館に運び込みました。
10時過ぎになって火は収まりましたが、まだ見えないところでくすぶっており、壁を壊しての注水作業などが続きます。その水が床の上にたまり、建物内は泥沼のようになっていました。
翌日、隠居している前社長で会長の若山徳次郎さん(85)がやってきて直さんを励ましました。
「社長、元気を出せよ。前の4回の大火被害から比べれば今回が一番軽い」
五島軒の創業は1879年(明治12年)にさかのぼります。それからの120年余りの間に店は5回もの火災に見舞われました。まず創業して7年目の1886年(明治19年)です。その後は1907年(明治40年)、1921年(大正10年)、1934年(昭和9年)と3回の函館大火に巻き込まれています。五島軒はそのつど焼け跡から這い上がってきました。
本館は無惨な状態となりましたが、隣接する新館は無事で2日後の27日には営業を再開しました。店には大勢のお客からの見舞いの電話が相次いだそうです6日後の10月1日には道新に投書が載りました。函館で生まれ育った札幌市在住の80歳になる女性からで、女学校時代の五島軒での思い出がつづられていました。
本館の復旧も迅速でした。2カ月半後の12月10日に再開されています。
1854年江戸幕府はペリーと日米和親条約(神奈川条約)を締結し、箱館(旧表記 明治になって函館)と下田(現静岡県)の2港がアメリカに開かれました。これを皮切りに捕鯨船を中心としたアメリカ船、さらにはイギリス、フランス、ロシア船も続々入港します。
そのため幕府の奉行所が箱館に置かれました。1857年に奉行はジャガイモを作るべしとのおふれを出しています。外国船の求めに応じてのことでした。またニンジンやタマネギが作られていたとの記録もあります。
箱館の街では多数の外国人が往来し、西洋料理店が誕生しました。1859年のことです。長崎での初お目見えは1863年とされ、箱館が日本初でした。
ただしこれはあくまで外国人のための店。地元庶民には無縁だったようですが、米などがとれない代わりに、エゾシカなど野生動物が豊富な北海道では、当時から獣肉をよく食べていたようです。それにジャガイモ、ニンジン、タマネギが加わったのです。西欧料理の庶民化は下地ができていたといえます。
1868年(明治元年)、「賊軍」となり江戸、仙台を追われた榎本武揚たちが蝦夷地を占領、西洋風の城、五稜郭に立てこもります。上空か迪ゥると星の形をした五稜郭です。しかし主力の軍艦を失ったこともあって「官軍」に対抗できず、激戦ののち翌年には降伏しました。いわゆる箱館戦争です。
五島軒が開業したのは1879年ですから、この戦争の11年後でした。
五島軒は現社長の直さんで4代目です。初代は若山惣太郎さん。東京の米問屋の長男として生まれましたが、仲間とやった大がかりな米相場に失敗し、その責任をとって店をたたみ、再起をかけ北海道にやってきました。そして出会った1人の料理人とともに開いたのがロシア料理とパンの店でした。
その料理人の名前が五島英吉さんです。読みは「ごしま」。九州の五島(ごとう)列島出身だったため、この姓を名乗ったとされており、謎の多い人物です。
五島さんは長崎で幕府の通訳をしていたようです。旧幕府軍に加わり、各地を転戦、箱館戦争で負傷し、逃げ込んだところがロシア領事館も兼ねるハリストス正教会でした。家捜ししようとする官軍の兵に対してニコライ神父が立ちはだかり、五島さんを助けます。そのときの約束が10年間教会で働くということでした。
神父の世話をしながら、神父に同伴してきたロシア人に料理、パン、お菓子の作り方を教わり、たちまち上達して代役がつとまるようになったといわれています。そして約束の10年が過ぎたとき、若山惣太郎さんと運命の出会いをするのです。
五島軒は創業7年目(1886年)にして最初の火災にあいますが、ほどなく営業再開を果たし、道新の前身である当時の函館新聞に次のような広告を載せました。
「西洋料理店廣(広)告」とし、新鮮な精肉を用い、フランスに行っていた老巧なコックを横浜から雇い入れ、廉価で提供します、とうたっています。
五島軒はロシア料理から、当時主流だったフランス料理に方向転換したのです。五島さんはそののち函館を離れています。
1901年(明治34年)には2代目である若山徳次郎さんが東京の帝国ホテルに修行に出かけました。経営者自らが料理に正面から向き合うのが五島軒の伝統です。また3代目も厳しい修業をしています。
1929年(昭和4年)に函館商業高等学校に入学した3代目は父親に命じられてアルバイト生活に入ります。朝は店で作ったスープをビンに詰め、牛乳のように自転車で家庭に配達しました。コンソメ、ポタージュなど3種類のスープがありました。数日に1回は朝4時半ごろ起きて石炭ストーブに火をつけ、固まったスープを温めます。学校から帰ると毎日6時から8時まで皿洗いです。
4代目の直さんは大学卒業後、ドイツに半年留学したあと、フランスに移り、ホテル学校で料理の勉強を行い、コックの現場で経験を積み、欧州滞在は7年に及びました。また弟で専務の央(なか)さんも大学卒業後ホテルニューオータニを経て5年間フランスで修行しています。
五島軒は歴史の節々で幾たびの困難に直面します。高校を出た3代目が法政大学予科に入学したのは1934年(昭和9年)です。そしてその年の大火で店は全焼するのです。
翌年一部3階建てのビルが完成します。現在、本館として残っている建物です。その3年後、3代目が法政大学の経済学部2年の時、父親である2代目が東京に訪ねてきました。ところが翌日、神田駅で急死してしまったのです。当時店の経営は倒産寸前だったといいます。再建しようにも借金が膨大で、税務署職員からそっと「商売をやめた方がいい」と忠告されたほどです。
3代目はもともと店を継ぐ気はなく、2代目も亡くなる前日に、店を継がなくても良い、と言ってくれていました。そんな彼を継ぐ気にさせたのは、高校時代に一緒に厨房で働いた従業員たちの期待の声でした。また彼らの献身的な働きがなければ再建はおぼつかないのも現実でした。
経営を引き継ぎながらも3代目は大学に籍を置かざるを得ません。学生の身分がないと徴兵されるのです。
1941年(昭和16年)、3代目はついには軍隊にとられ、3年後に除隊するのですが、そのとき店は警察から営業停止をくらっていました。理由は「西洋料理」ということのみ。野球をやっていてもストライクと言えない時代でした。夜行列車で帰ってきた3代目は軍服姿そのままで警察署に乗り込みます。署長に「あなたが着ているものはなんですか?」「靴は?」「頭にかぶっているのは?」とたたみかけました。いでたちが西洋風そのものの警察署長は答えに窮します。翌日には営業再開できたそうです。
そもそも洋食店をやるということが日本の伝統的風習から外れていました。肉を扱うことは忌み嫌われ、料飲業は水商売と呼ばれてさげすまれていました。外食産業華やかな現在では考えられないことです。
時代は遡りますが、2代目徳次郎さんの料理人に対する考え方は進歩的で合理的だったといいます。それは従来の職人にありがちな習慣をほぼ否定するものでした。仕事はすべて先輩が後輩に教える。教えを乞うているのに教えない者は罰する。教えることで自分独自のZ術が減ると思ったら本を読んだり仲間で研究して穴埋めする。そのために必要な本は必ず購入し、備え付けの本箱に補充する…。
こうした歴史のエピソードからも、五島軒の先進性、合理性、反骨精神、そして力強さが見えてきます。
現在の五島軒は本館と新館が並ぶ本店、函館駅前のビル内に構える駅前店、そのほか直営や委託の洋菓子販売店が市内各地に置かれています。また上磯町に缶詰のカレーと洋菓子を製造する第1工場、レトルトカレーの第2工場があります。
カレー缶詰の具材はレストランで出されるものとほぼ同じです。レトルトカレーはスープは同じですが、肉はポークなどを使い、野菜は玉ネギ、人参、ジャガイモをぶつ切りのまま入れています。もともとは厨房の職人たちの賄い食としてつくられていたカレーをモデルにしています。
本館1階にはメモリアルホール蘆火野、2階には豪華な雰囲気を今に残す王朝の間(約200名収容)などが配置され、新館1階はフォーマルなレストラン雪河亭とカジュアルなラウンジ雪河亭、2階には現代的雰囲気の芙蓉の間(約400人収容)があります。
このように五島軒は伝統的な豪華さを残すと同時に、ラウンジやレトルトカレーで見られるような庶民的要素を併せ持っています。
「昔から五島軒は二頭だてで来たんです。天皇陛下のお食べになるコース料理もあれば、庶民が食べるカレーもある。そのイメージの違和感は創業以来あるんですよ。どっちかに特化してしまうと、その層が消えれば終わりです。そこを矛盾だなどとは思わないようにしています。こっちがえり好みをするんじゃなくてお客に選んでもらうんですから」
社長の直さんは明快です。
「お客さんに、変わりませんね、とよく言われます。でも本当は変わっているんです」
本館は昔のままのように見えますが、定期的に補修してきました。昔と同じなのは建物の基本的な構造だけです。昨年の火事でも屋根、壁面、冷暖房設備などを全面改修していますが、その気配はほとんど感じません。
料理も変わってきています。
「このごろの料理でおいしいというのは柔らかいことだという風潮になっています。お客さんの感じ方が変わってきているんです。五島軒も昔とまったく同じではおいしいと言ってもらえない。アワビのクリーム煮なんかは典型ですが、より煮込んで歯ごたえはなくなっています」
変わらないと言われながらも内実は変わり続けている。伝統は守るものでなく、その時代ごとに創り出すこと。それがはたから見れば変わっていないように見えるだけなのでしょう。伝統を守ることは変革することでもあるようです。
五島軒では今後はますます国際化が進むという予測のもと、昭和女子学園高校への中国からの留学生3人をアルバイトとして雇っています。
「国際化は必ずやってきますが、受け入れる土壌が日本には不足している。日本人の優しさだとか謙譲の美徳だとかが、裏目に出てしまう。自己主張して相手に教えないと分からないんです」
フランスで下働きをしていたころの自分と重なります。
「交流の経験を積むのに1番いいのがレストランとかホテルの現場です。最初は皿さえ洗っていればいいんですから。そういう交流が一定期間あって初めて外国人に対する日本人のアレルギーもなくなるんです」
最近の日本の若者を見る目も冷静で理論的です。
「自己主張がメチャクチャ強くなったというのも、そうした時代への過渡期で、準備が始まっているんだと捉えれば何も情けないことじゃないんです。あとは一定の礼儀と法則を教えていかなくちゃならない」
遠い昔に外国との交流がいち早く始まった函館。一時は途絶えたその交流もまた活発になっています。20年近く前から函館にある(財)北海道国際交流センターでは、日本の大学などに留学している学生を夏の2カ月間函館でホームステイさせ、日本語や日本文化を学ばせる事業を行っており、毎年100人前後が訪れています。また地元の高校や大学も海外との交流が活発で、ロシア極東国立総合大学函館校も10年ほど前に開校しました。
函館は国際交流都市として幕末以来の歴史を持ち、その伝統が復活しつつあります。五島軒は途切れがちな伝統を守り抜いてきました。伝統を守り創る次のステージに向け、その変革はやみそうにありません。
[蘆火野と雪河亭]
蘆火野(あしびの)は船山馨(かおる)(1914~1981)の小説です。朝日新聞に1972年4月11日から73年6月15日まで連載され、すぐに朝日新聞社によって単行本化されました。その後も他社から全集や文庫本となって出ています。また森繁久彌主演の芝居になり帝国劇場で上演されました。
幕府が函館に設置した諸術調所(現在でいえば理工系学校)の教授の私塾で出会った河井準之助とおゆきが函館戦争に巻き込まれながら、武士を捨てて料理人として生きる決心をし、フランスに渡ります。ところがそこにもプロイセンとの戦争、パリコミューンの誕生、敗北といった動乱が待っているのです。
小説では夫婦の息子が五島軒を創業したことになっています。
パリで妊娠したおゆきと準之助が屋根裏部屋で語り合うシーンがあります。
「生まれる子が物心のつくころにはおいらたちも日本へ帰れるだろう。おいらはな、おゆき。東京なんてえことになった江戸へは帰りていとも思わねえが、いっぱしの腕になったら、函館へ戻ってちんまりした店をもちていと思っている。あの町の人たちがよろこんでくれるような喰物をつくって、お前と子供のそばで無事に暮らしてゆけりゃァ、おいらそれで本望だ。おいらはな、もう店の名も考えてあるんだ」
「まあ。なんていうんですか」
「お前とおいらの店だから、雪に河と書いてせっかと読ませる。雪河亭てえんだ」
(略)
「大きな構えでも、派手な店でもねえが、フランス料理なら函館に雪河亭てえ家がある。値段は手頃だが味は飛切りだ。人様がそう言ってくれるような店なんだ」
五島軒という店が蘆火野という小説を生み、その小説に登場する店の名前が本店レストランの名前となりました。
現在小説は品切れ状態。普通の書店で手に入らないのが残念です。
[本館の復旧]
五島軒本館(旧館)は1989年に函館市の景観形成指定建築物となり、97年には前年度から始まった文化財登録制度の登録建造物(登録文化財)に北海道で初めて、札幌市資料館とともに登録されました。
2002年の火事で本館は水浸しになり、その復旧には約1億5千万円かかりました。あと5千万円も追加すれば新たに建て替えられるほどの金額です。ちなみに最大限応援してくれた函館市からの補助は約600万円でした。
2階王朝の間の天井は、樺太(現サハリン)で生産されたツンドラ材と呼ばれる堆積した凍った苔からつくられる建材を使っていました。防音・音響効果が高く、肉声でも広間全体に声が広がります。
しかしその建材はもはや生産されておらず、被害を受けた天井の約半分は現在の建材にとって替わられました。
水浸しとなった床材や壁紙は全部張り替えていますが、濃厚な雰囲気を演出しており、新しさをまったく感じさせません。
火元側の窓にあったステンドグラスはガラス片を固定している鉛が熱に弱いため、バラバラに壊れてしまいました。
たまたま3年前にゆがみを直す工事をしていたことが幸いでした。担当した札幌の工房に砕けたガラスが運び込まれ、一つひとつ同じ色柄のガラスを選んでは元通りの形にカットしていきます。数人の職人で丸2カ月かかり、費用は約1千万円だったそうです。
五島軒の歴史(その1)
1854(安政元)
幕府がペリーと日米和親条約(神奈川条約)締結。箱館、下田2港を開く。
1855(安政2)
若山惣太郎、米問屋の長男として江戸で誕生。
1859(安政6)
箱館大町1丁目重三郎、箱館奉行に外国人向け料理店開業を願い出、許可される。
1868(明治元)
榎本軍、蝦夷地を占領。
1869(明治2)
榎本軍、降伏。
1878(明治11)
五島軒初代惣太郎が函館に来る。
1879(明治12)
初代惣太郎、富岡町でパン屋を開業。五島英吉の協力を得て旧桟橋付近でロシア料理、パン、ケーキの店を開業。
1886(明治19)
店舗焼失。旧八幡坂下(末広町15)に西洋料理店を開店。
新店舗が繁盛し「客室取り広げの披露」の広告。
1887(明治20)
アイスクリームの広告。
1900(明治33)
(財)函館競馬会認可、場内食堂を開業。
1901(明治34)
基坂下末広1の日本銀行隣接地に3階建て西洋料理店を新築移転。2代目徳次郎、東京・帝国ホテルへ修行のため出張。
1907(明治40)
函館大火で全焼。末広町4-5(旧相生町6)に新店舗を新築移転。
1917(大正6)
初代惣太郎が亡くなり、長男徳次郎が相続。
1921(大正10)
函館大火で全焼。旧桟橋のビルおよび焼け跡に仮店舗で営業。
1922(大正11)
現在地に一部鉄筋コンクリート地下1階地上3階の店舗を新築。2階の一部と3階はホテルに。
大正末期~昭和初期
函館船渠(株)休泊所内に食堂・売店を出店。
1930~1934
森屋百貨店6階食堂に出店。
1931(昭和6)
小樽市花園町の千代田火災北海道支部新社屋(地上6階)の地階と4、5階に支店を新設。
1934(昭和9)
函館大火で本店全焼。仮店舗で営業。小樽支店を閉鎖。
1935(昭和10)
現在地に一部3階地下1階の本店を新築。函館市内で初めて神前式場を設置。
1938(昭和13)
2代目徳次郎急逝。長男、勇が徳次郎を襲名。
1941(昭和16)
3代目徳次郎が函館七十一部隊に入隊。
五島軒の歴史(その2)
1944(昭和19)
西洋料理店を理由に函館警察署長名で営業禁止。3代目召集解除で帰還し、函館署長に交渉し営業再開。
1945(昭和20)
本店を米軍が接収。第九軍団第七十七師団の司令部を設置。
1950(昭和25)
五稜郭支店を開業。本店の米軍接収解除。
1960(昭和35)
本店隣接地に食品加工場、洋菓子工場を新設。
1965(昭和40)
末広町13の店舗を改Cし十字街支店を開設(精肉業を併業)。
1967(昭和42)
函館駅前の拓銀ビルの7階にレストランを開店。
1968(昭和43)
五稜郭に一部5階建てのビルを新設し、支店を移設開業。
1970(昭和45)
函館市民会館の新築で館内食堂、売店を出店。
1975(昭和50)
函館市民体育館の新築で軽食堂を出店。
1980(昭和55)
イトーヨーカ堂函館店のテナントとして洋菓子店を出店。
1982(昭和57)
札幌・プランタンデパートで洋菓子を委託販売。市役所新庁舎落成で喫茶店出店。五稜郭支店を売却。開店した棒二森屋アネックスにケーキショップ出店。丸井今井地下にケーキショップ出店。
1984(昭和59)
法人化し、株式会社五島軒設立。本店隣接地に別館(新館)を新築。本館内にメモリアルホール「蘆火野」を新設。3代目徳次郎北海道函館方面公安委員長に。
1985(昭和60)
3代目徳次郎が会長、4代目直が社長に就任。
1988(昭和63)
函館ツインタワー内にケーキショップを出店。青函博会場に「キリンビア・レストラン五島軒」として出店。
1989(平成元)
天皇皇后両陛下が行幸。五島軒で御昼食。
1991(平成3)
本町にビアレストラン「ビアアベニュー・ハートランド五島軒」を開店。
1992(平成4)
レトルトカレーの生産開始。
1993(平成5)
洋菓子、カレー缶詰製造の上磯第1工場竣工。
1994(平成6)
市民会館食堂撤退。
1997(平成9)
レトルトカレー製造の上磯第2工場竣工。
2001(平成13)
ハートランド五島軒閉店。
2002(平成14)
本館が類焼、復旧。