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2003年09月号/第118号  [特集]    

地域の自立をリードする
浜中町農業協同組合

  道東・浜中町の牛乳が注目されています。ハーゲンダッツなど、ちょっと高級感のある製品の原料として使われ、「浜中」と明記された「こだわり牛乳」が最近、北海道を除く全国で売り出されました。著名なシェフなど料理界からも多数が町を訪れています。その生産現場には先進的な技術と将来を見据えた確かな目、そして何より行政や連合会とのあつれきをも恐れず、酪農で地域が自立していこうという情熱がありました。

根付いた科学的酪農 新農家の参入で明るく

イメージ((浜中町))
(浜中町)

味わい豊かなアイスクリームとして人気のハーゲンダッツ。そのホームページに次のような文面があります。

イメージ(ハーゲンダッツとカルピス北海道。浜中町から出荷される牛乳を使い、高級感を打ち出しています。)
ハーゲンダッツとカルピス北海道。浜中町から出荷される牛乳を使い、高級感を打ち出しています。

「アイスクリームの主原料として使われるミルクを得るための私たちの努力は土壌作りから始ります。アイスクリームの生命であるミルクを良質なものへ育て、乳牛にとって理想的な牧草を育てる土壌に改良するために、気の遠くなるような歳月をかけた土壌改良の研究と開発を行いました。定期的な土壌チェックから牧草の成分分析、一頭一頭の乳牛の健康管理など、最高品質のミルクを常に安定して供給する努力を行っています…」

まるでハーゲンダッツジャパンという会社が独自に牧場を経営しているような自信に満ちた表現です。

ギフト用としてふつうのカルピスのちょっと上を行く商品「カルピス北海道」。その説明にはこうありました。

イメージ(タカナシ乳業躍進のきっかけをつくった4.0牛乳と、最近「浜中」を明記して売り出された「こだわり牛乳」。)
タカナシ乳業躍進のきっかけをつくった4.0牛乳と、最近「浜中」を明記して売り出された「こだわり牛乳」。

「原料となる牛乳には北海道産(主に根釧浜中地区)のものを厳選使用しています。やわらかな甘みとコクが特徴の、大自然の牛乳から生まれた贅沢な「カルピス」です。(根釧浜中地区は、日本有数の酪農地帯であり…土壌管理、飼料管理、乳牛管理等がきめ細かく行われているため、良質な牛乳を得ることが出来ます)」

ハーゲンダッツでは場所を特定していませんが、日本でつくられている製品は浜中町から送られる牛乳を使っています。

つい最近「こだわり3.8牛乳」という商品が横浜市に本社を置くタカナシ乳業から、首都圏で発売されました。その容器にはホームページアドレスが大書され、「浜中地区」の文字もはっきり書かれています。

これは異例のことです。北海道で生産される牛乳の大半はホクレン農業協同組合連合会が一元集荷しており、浜中町農協の牛乳もその枠内にあります。そんな環境にあって、はっきり道内の地域名を打ち出した商品が出るのは初めてのことなのです。

このホームページは農協内のサーバーから発信されています。いかに浜中の牛乳が安全で安心なのかを生産過程を説明しながらアピール、最近よく聞かれるトレサビリティ(生産履歴の追跡)にもつながります。

なぜ浜中の牛乳がこれほど特別扱いされるのか。それには20年以上にわたる酪農技術センターの活動とその蓄積がありました。

“農協の研究所”

イメージ(酪農技術センターでは毎日、それぞれの牧場から運ばれてきた乳質をチェック。また牧草や土壌の分析も行います。)
酪農技術センターでは毎日、それぞれの牧場から運ばれてきた乳質をチェック。また牧草や土壌の分析も行います。

浜中町農協に酪農技術センターが設立されたのは1981年のことです。きっかけはアメリカなどで研修を積んできた若者たちの声。良質な牛乳をたくさん生産するには良質な牧草が必要、そしてそのためには牧草の畑である草地の土壌分析まで必要だという声でした。徹底した管理で生産性を上げるアメリカの酪農経営が、むかしからの牛飼いの延長線上にあった当時の人々には新鮮でまぶしいものに映ったようです。

そこでまず始まったのが土壌分析。農協の車庫の片隅を利用し、単純な機器を使った細々としたものでした。今から30年前の1973年のことです。

8年後の1981年、農協は酪農技術センターを開設します。土壌分析、牧草の成分分析、そして乳質の分析ができる本格的な分析センターです。おりしも牛乳の需給が崩れ、それまで順調に拡大路線を歩んできた北海道酪農が初の生産調整に追い込まれたころでした。

イメージ(石橋さんは3代目の組合長。自分自身も牧場を経営し、新規就農を目指す人々を世話してきました。)
石橋さんは3代目の組合長。自分自身も牧場を経営し、新規就農を目指す人々を世話してきました。

現在組合長の石橋榮紀(しげのり)さん(63)は専務理事になったばかり。北海道庁にセンター設立の相談をしますが、前例がないためにまったく相手にしてもらえません。
「農協が研究所を持ってどうするんだ、という対応でした。でも何度も話をしているうちに担当の課長さんが、これからの酪農はそういう時代かもしれないな、ということでようやく前進しました」

農業構造改善事業という補助制度に乗せてもらったのです。

こうして単独の農協では全国的にも例のない分析設備と人員のそろったセンターが誕生しました。

4.0牛乳を送り出す

この1981年には浜中町の酪農家にとって、もう1つ大きな出来事がありました。組合本所のある茶内地区の雪印乳業茶内工場が閉鎖されたのです。そして翌年、閉鎖された工場に進出してきたのがタカナシ乳業でした。

イメージ(タカナシ乳業北海道工場。多数のタンクを使い、乳質に応じて使い方を変えています。)
タカナシ乳業北海道工場。多数のタンクを使い、乳質に応じて使い方を変えています。

同社は当時、国内の乳業メーカーでは80数番目に位置する規模。ところが浜中町に進出することで、その後大躍進を見ます。今では明治、森永などの大手に続く準大手に成長しました。

タカナシ乳業はもともと牧場経営がスタートとあって、牛を見る目が確かでした。当時の社長が訪れるときに真っ先に向かうのは工場ではなく牛舎だったといいます。

その社長が酪農技術センターにあったホルスタイン牛1頭ごとの乳質データを見ていて気づいたのが、ときどき現れる乳脂肪分4.0%以上の牛でした。ふつうの牛乳の乳脂肪分はせいぜい3.7%程度。でも4.0%の牛だけから集めれば成分無調整で4.0%の牛乳ができる。

そのためには酪農家がバルククーラーという牛乳を保管する冷蔵タンクがもう1台必要で、運搬するには専用タンクローリーも必要です。農家も農協も大きな負担と手間がかかります。そもそも牛乳は全頭分を一緒にして納めており、分けるという発想自体がありませんでした。

しかし地元に進出してきた乳業メーカーの強い要望に応え、農協では脂肪分4.0%の牛の中から輸送経路などを考えて3戸の農家をピックアップ、その農家を説得し集荷を実現させたのです。

タカナシ乳業北海道工場(浜中町茶内)に集められた乳脂肪分4.0%の牛乳はすぐにパック詰めされ、釧路空港から空輸されました。当時、小売価格が1リットル350円という超高級牛乳でした。

これでタカナシ乳業は躍進のチャンスをつかみます。どこにもまねのできない看板商品を得ることができたのです。現在でも4.0%牛乳は発売されており、飲料よりは料理に多く使われているようです。乳脂肪分はバターを加えれば補えますが、牛乳の風味までは補えません。そしてその風味は健康な餌、健康な牛、そして徹底した衛生管理から生まれます。風味を損なわない加工が可能だからです。マスコミに登場する多くの有名シェフが支持し、訪れているという理由がそこにあります。

ハーゲンダッツジャパンはアメリカにあるハーゲンダッツの会社とサントリー、タカナシ乳業が出資して1984年に設立されました。そのときアメリカから来た技術者が、各地にあるタカナシの工場の中で迷うことなく選んだのが浜中でした。アメリカ並みに牧場の段階から管理された牛乳が浜中以外になかったのです。牛乳はタカナシ乳業北海道工場で一次加工され、群馬県にある工場に運び込まれてハーゲンダッツが作られています。またその後カルピスへの原料供給も始まっています。

現在、タカナシ乳業北海道工場では原料乳が浜中町農協の分だけでは足らず、近隣からも集めており、その量は浜中町が6割、その他が4割程度にまでなっています。そこで同工場では小型の貯蔵タンクをたくさん作り、牛乳の質によって用途を分けるなど、品質の維持に独自の対応をしています。

研修牧場建設を強行

高品質の牛乳で高い評価を得た浜中町農協ですが、悩みは酪農家の減少でした。草地の集約化などで、酪農経営は安定してきたものの、後継者がいないなどの理由で廃業し、その施設や土地が利用されなければ、地域としても農協としても大きな損失です。そこでほかからの就農者を積極的に受け入れることにしました。

北海道農業開発公社が農場リース制度を発足させたのを受けて就農第1号が入ったのは20年前の1983年のことです。さまざまな形で勧誘し、毎年のように就農者が現れました。でもその中にはすでにほかの地方で就農し、条件が良い浜中に移ってきたケースも含まれていたのです。

石橋さんは組合長になっていました。

「こっちの水は甘いぞと、よそから引き抜いてきた例もありました。いつまでもそんなことはできないな、自前で研修施設をつくらなければだめだな、と準備を始めました」

それまで、経験のない人が新たに酪農を始める場合、まず農家に泊まり込んで働きながら勉強する実習生になることがふつうでした。その間は給料といってもこづかい程度。なかなか機械に触らせてもらえなかったりで、技術の習得も習うというより慣れろといった状態が多かったのです。その点、研修牧場では酪農が初めての人でも2~3年で必要な技術を習得できます。

石橋さんはまず道庁に掛け合いました。しかし技術センターのときと同様に理解してもらえません。補助金のメニューにもなく、浜中町と相談して町と農協が費用を折半して設置することになりました。

ところが道庁は理解を示さないどころか、畜舎建設のための農地の転用も認めなかったのです。町の農業委員会が妥当だとの意見書を出したにも関わらず、です。

「一部の職員は理解してくれましたが、担当の幹部がね。研修牧場なんか必要ない、農地転用なんて認められないというのが道庁の一貫した姿勢でした。でも農協の総会も通っている。地鎮祭の日程も決まって、これは強行するしかない。着工後に現状復帰命令が出たら、裁判をやっても闘うしかない」

許可するという電話が来たのは地鎮祭が始まる2分前でした。

こうして新設された研修牧場ですが、本当に人が来るのか、心配だったといいます。

「意気込んでやってはみたものの、人が集まるかどうか一番心配でした。ところがさまざまな人から問い合わせが来て、日本人と結婚したロシア人が、おれでも行けるのかとか、モンゴルで遊牧民とともノ暮らしていた人とか」

心配は取り越し苦労に終わりました。研修牧場は順調に稼働し、ここから巣立った人々が年に1戸のペースで就農しています。ただし個々のケースはさまざま。半年程度で就農する人もいれば、気に入った条件の物件が出るまで、研修を続ける人もいます。

地域を明るくした“新しい血”

イメージ(研修牧場で子牛の世話をする研修生。2~3年で技術を習得し、牧場経営に入ります。)
研修牧場で子牛の世話をする研修生。2~3年で技術を習得し、牧場経営に入ります。

研修牧場に就農予備軍がいることで、農家の考え方も変わってきました。後継者がいなくても安心して譲り渡すことができ、まとまった金が入るからです。

「後継者がいない人はやれるまでやって、あとは研修生に譲る。それまできちんと経営していれば牧場を売った金と貯金を合わせれば7千万円くらいになって。老後は地元で暮らせば仲間もいるし。そんな例が多いんじゃないでしょうか。むかしは後継者がいないと暗い人生になってしまいがちでしたが、いまはあまり暗く考えていないようですね」

現在、新規就農者は20戸を超えています。その“新しい血”は、農村社会を維持するだけでなく新しい刺激を与えているといいます。

「彼らは喜々として仕事をして発想もユニーク。遊ぶことも上手でした。それで酪農を嫌がっていた子どもたちが、酪農っておもしろいんじゃないかと思い始めた。大学に行くなど、いったん出て行った子も後継者として帰ってくる率が高くなりました。新規就農がなかったらこうはならなかったと思います。いま思えば、研修牧場は単に後継者をつくるとか、人材を育成するとかだけでなく、地域の考え方を前向きにさせました」

道庁とけんかをしてまで建設した研修牧場。その成果は予想を超えて大きなものだったのです。

必要なことはなんでも

浜中町農協はほかにも次々と新たな手を打ってきました。

アメリカに視察に行った職員が、搾乳時に乳頭の消毒に使う薬品が安いことを知りました。それまでは1ガロン3万5千円していましたが、輸入すれば利益を上乗せしても1万8千円で売れそうです。ホクレンに相談しましたが消極的。そこで組合が輸入販売に乗りだしました。

薬事法をクリアするデータをすべてそろえて役所に提出。ところがいくら待っても許可が下りませんでした。3万5千円の薬品を売っていた会社には農水省出身の社員がいたことも関係していたようです。国会で取り上げてもらおうとしたとたん、許可が下りました。その前に、突然3万5千円の薬品は3割引で販売され、倉庫いっぱい買い込んだ農協もあったといいます。

コンビニ経営も始めました。近くにコンビニが建つという情報をキャッチ。そこで農協もコンビニ経営をとホクレンに相談したのですが、その気はありません。そこでいろいろ調べた結果、金銭面の条件や地方に合った品ぞろえができるということでセイコーマートとフランチャイズ契約を結びました。農繁期には開店早々から弁当が飛ぶように売れるなど、好成績を収めています。

こうした数々の施策を独自に打ってきた浜中町農協ですが、乳価は決まっており、ほかより高く引き取られているわけではありません。でも石橋さんは言います。

「WTO交渉の結果が国際化の進展をもたらしたとしても、浜中の酪農は生き残れるようにしたい」

イメージ(ルパン3世のモンキーパンチさんは浜中町出身。地区の案内板のほか、各牧場の看板にもすべて彼の描いた絵が使われています。)
ルパン3世のモンキーパンチさんは浜中町出身。地区の案内板のほか、各牧場の看板にもすべて彼の描いた絵が使われています。

ときには行政や連合会と協調し、ときにはやり合いながら、地域経済の自立を実現させてきた浜中町農協。現在の生産額は約210戸で約80億円。浜中町のもう1つの基幹産業である漁業が200海里の影響などで40億円程度に減少する中、町一番の産業に成長してきました。

そして農協と農家は将来へ向けて着々と手を打ちつつあります。こうした農協や農家が各地で数多く現れることによって、強い農業が形づくられ、地域が自立していくことにもなるはずなのです。


浜中町農協の歩み

1948年(昭23) 浜中村主畜農協設立
1950年(昭25) 家畜人工授精所開設
1953年(昭28) 浜中村開拓農協を吸収合併
1954年(昭29) 大冷害
1956年(昭31) 大冷害
1958年(昭33) 大冷害
1960年(昭35) 農協再建整備開始
1961年(昭36) 人工授精事業を共済組合に委託
1962年(昭37) 再建整備終了
1964年(昭39) 浜中町農協に名称変更 全農家に電灯灯る
1968年(昭43) 給油所を開設
1972年(昭47) 人工授精事業復帰 整備工場が法定車検指定に
1973年(昭48) 土壌診断室を設置
1979年(昭54) 乳牛育成牧場、肉牛団地落成
1981年(昭56) 酪農技術センター開設 雪印乳業が茶内工場を閉鎖
1982年(昭57) タカナシ乳業北海道工場が操業開始し「北海道4.0牛乳」発売
1983年(昭58) 道農業開発公社営農経営更新対策事業(リース農場)開始
1984年(昭59) ハーゲンダッツジャパンが設立される
1988年(昭63) 酪農ヘルパー利用組合設立
1991年(平3) 新規就農者研修牧場開設
1992年(平4) デッピング液輸入開始
1995年(平7) コントラ事業開始
1998年(平10) セイコーマート(コンビニ)開設 「カルピス北海道」が発売される
2003年(平15) タカナシ乳業が「こだわり3.8牛乳」を発売

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