幕末に太平洋横断を成し遂げた咸臨(かんりん)丸には、勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎などが乗船していたことが知られている。しかし和船出身の水夫が、60人も乗り組み、操船に当たっていたことは、あまり注目されない。まして病気のためにサンフランシスコ残留を余儀なくされ、後にアメリカ船で箱館に帰国した水夫たちがいたことは、ほとんど知られていないように思う。
咸臨丸が江戸からサンフランシスコに向かったのは、安政7(1860)年1月のことだった。しかし冬の北太平洋は大時化(おおしけ)続き。甲板は大波をかぶり、船室へは小さな滝ほどに浸水したという。士分にはベッドが与えられていたが、水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶぬれになり、航海中、晴れた日はわずかで、乾かす間もなかった。
そのため艦内に悪性のインフルエンザが流行し、常時、14、5人の病人が出た。
サンフランシスコ到着後には、3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにされたのである。しかし病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と、惣八というふたりが、みずから申し出て、看病のために居残ったという。
計9人の世話を、艦長の勝海舟は、ブルックスという現地の貿易商に託し、充分な金も置いて行った。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。それでも水夫たちにしてみれば、言葉も通じない異国で、仲間を見送るわけであり、さぞ心細かったことと思う。
咸臨丸がサンフランシスコを離れてから、約3カ月後、病人は快復し、ブルックスはフエフート号という自分の持ち船で、9人を箱館に送り届けた。当時、箱館は多くの外国船が集まる開港場だった。水夫たちが箱館に無事、入港できた喜びは、想像にあまりある。
彼らの帰国は、箱館奉行所の文書に記録され、今も函館市立図書館に残されている。この水夫たちを主人公にした拙作「桑港にて」が、今年、新人物往来社の月刊誌「歴史読本」で、歴史文学賞をいただいた。北海道は新しい土地だが、興味深い歴史エピソードは意外に多い。