2003年9月、小樽市では「モノづくり月間」と称され、20以上のイベントが連続しました。北海道新聞社主催のシンポジウム、北海道中小企業家同友会主催の研究集会、北海道地方発明協会大会、国土交通省主催のシンポジウム…。職人たちが伝統の技を披露する世界職人展が3日にわたって催され、海洋土木で使われる巨大なコンクリート箱「ケーソン」の進水式も行われました。街がモノづくりイベントで沸き返ったのです。その中核が世界職人学会の設立でした。
小樽では11年前の92年に「小樽職人の会」が結成されています。その後、小樽職人展を毎年開催し、99年には小樽職人の会が全国に呼びかけ全国職人学会が設立されました。また小樽職人展、北海道職人展、さらに北海道・東北職人展を開くなどの活動を続けてきました。そして全国職人学会ができて5年目の今年、世界職人学会が設立されることとなったのです。
JR小樽築港駅に直結し、ホテルもプールも映画館も備えた大型商業施設「ウイングベイ小樽」。「マイカル小樽」として99年にオープンし、経営破綻を経て、今年春に新たな名前で再出発しました。
この施設内の広場に人だかりができています。世界職人展の会場です。ねぷた絵師、しめ縄職人、おぼろ昆布の職人などが実演や展示をしています。インドカレーのコーナーもありますが、「世界」と銘打つにはちょっと大風呂敷すぎないか、という印象です。ただし後ほど触れますが、これまでの経緯をたどれば、なるほどという気にもなるのです。
この施設の中央部に位置するホテル、ヒルトン小樽。ここの大ホールで世界職人学会設立総会が始まりました。まず規約、役員、事業計画、予算などが決められ、会長には北海道経済連合会会長の泉誠二さんが選出されました。
来賓で目を引いたのが佐賀県知事の古川康(やすし)さんです。その日の朝は長野県にいて、翌日には県議会という多忙を押しての参加でした。コンピューターと人間がチェスで対戦したとき、人間が勝った要因はほかの人々の応援だった、という話や佐賀県内での取り組みを紹介しながら、今後も職人芸を応援していく、と力強く表明しました。
設立総会では「北海道宣言」が採択されました。「職人衆はいつの世もファッション(流行)を興し続けてきた」という文言が印象的です。
議事終了後の記念講演はマイクロソフト(日本法人)社長のマイケル・ローディングさん。IT(インフォメーションテクノロジー 情報技術)とインターネットは職人の世界でもすでに重要な役割を果たしており、これからさらに技術開発、協業、そして職人芸の記録、伝承などで支援することができる、と語りました。
世界を変えたIT。その総本山、マイクロソフトの大物が来てくれるまでには、ちょっとしたエピソードがあったそうです。
ことの発端は1年前。マイクロソフトでは昨年10月から、特製トレーラーを使っての「IT体験キャラバン」を始めました。大型トレーラーの中でセミナーやIT体験をしてもらう移動教室で、1年をかけて全国主要都市を回ります。その出発式を行ったのが小樽市だったのです。
このとき小樽と米国シアトルのマイクロソフト本社が映像で結ばれ、現れたのがビル・ゲイツ会長でした。そこで小樽側はすかさず今回の世界職人学会に会長を招きます。そして、社交辞令だったかもしれませんが、OKという返事だったのです。
これで言質をとったとばかりに招へいの働きかけが本格化します。直接本人にアプローチしようと、特製の大漁旗をつくり、シアトルのパーティに出席する岐阜県の梶原拓(たく)知事に託しました。しかしビル・ゲイツ本人はスケジュールが合わず、代わりに実現したのがアメリカ本社副社長でアジアを統括する日本法人社長、マイケル・ローディングさんの講演だったのです。
続いて「世界職人学会・削ろう会世界大会記念シンポジウム」です。
削ろう会というのは名古屋に本部を置き、木を鉋(かんな)で削り、どれくらい薄く、幅広く、長く鉋くずができるかという技術を競いながら交流している団体です。97年に発足し、年に2回ずつ大会を開いています。この職人学会に合わせて北海道で初めて第14回大会として翌日開かれる予定でした。そんないかにも職人らしい団体が職人学会に名を連ねたのです。
シンポジウムのパネリスト、小関智弘さんは50年以上、旋盤工として東京の町工場を転々とした渡り職人です。また職人たちの世界を描く作家としても活躍しており「大森界隈職人往来」(朝日新聞社)で日本ノンフィクション賞を受けています。
職人の定義は? と問いかけられた小関さんは「与えられた機械で教えられたとおりしか仕事ができない人間は単なる労働者。そういう機械であっても自分がちょっとでも工夫を加えたり、道具を工夫するのが職人」と答えました。
そして最近は大企業でも新たに工師、範師などの名称をつけて熟練工を大切にし始めたこと、カメラやクルマで往年の名機を復活させ、その技術を学ぼうという動きがあることを紹介し、「かつての人々が現場の中に蓄えてきた知恵をもう一度見直し、そこから学んでいくことができれば、日本は新しい製品、新しい技術を開発していける」と職人復権の期待を語りました。
英国人のフィリップ・ハーパーさんはオックスフォード大学を卒業し、英語教師として来日したものの、酒造りに興味を抱き、10年以上にわたって酒造業に従事しているという経歴の持ち主。経営者である蔵元から酒造りの一切を任される独特な杜氏(とうじ)の制度を研究してきました。
「酒造りは微生物という生物を扱っており、蔵に住み込んで24時間ケアすることは、労働管理からも経営管理からも、微生物学的にも非常に完成度の高いシステム」だといいます。
ただし後継者が不足し、杜氏制度の新しい形などいろいろ課題を抱えている、と報告しました。
坂本明美さんは(社)日本カール・ディスベルグ協会という団体の専務理事で日本からドイツに職業訓練・研修生を送り込んでいます。
日本の職人の親方とドイツのマイスターとでは大きなちがいがあるといいます。特に気になるのがその意識の高さです。
「ドイツのマイスターはどんな小さなお店に行っても、非常に誇りをもっているんです。ところが日本の親方は私どもがドイツから来た同業者を連れて行ってもぜんぜん話をしようとしない。仕事を見せようとしない。恥ずかしがっていると私は思うのですが、なぜ自分の仕事を恥ずかしがらなければならないのか。私は日本の職人さんたちが誇りを持って仕事をするようになったら、日本はまた元気な国になると考えています」
ドイツ暮らしが長く、これまでずっとドイツと深く関わってきた坂本さんによれば、東ドイツが消え去った理由の1つが「職人をバカにしたから」です。何もかも国が管理しようとしました。ある程度独立して自分でお金の計算もできるような存在を嫌ったのです。そのために社会主義は崩壊したと考えています。
坂本さんはもう1つ重大な指摘をしました。日本人を受け入れているドイツのマイスターたちが一様に感じている現実です。
「若い日本人が難しいドイツ語を勉強して技術を学ぶことには感心するが、一番欠けているのは自分で考えて自分で仕事の段取りを決めて、そして問題を自主的に解決できる能力ではないか」
子どもたちは長い間、あまりにも大事にされすぎて、自分で運命を切り開いていくチャンスに恵まれなかったために、ドイツに行ってもちょっとした問題にぶち当たると挫折してしまう、と坂本さんは考えています。
「日本の職人の今後を考える上でもたいへん重要なポイント」とコーディネーターをつとめた北海道新聞論説主幹の新田博さん。元北海道職業能力開発短期大学校校長で、現在北海道職人義塾大學校校長の大川時夫さんも、長年職業訓練に携わってきた経験から、そのことを痛感していました。
「教壇に立っているときもそのへんを強く感じたわけです。日本の歴史の中で、特に明治以降の150年間、職人を極力排除していくという傾向が顕著にあった。職人の価値というのは科学とか技術では測れないものだと私は認識しています。職人気質(かたぎ)というものが人間形成の中で重要です。日本人にあった、昔からの師弟教育で培われた頑固な個性というものが、それこそ自主的に何でもやってしまう能力が、近ごろの学校教育の中でまったく排除されて伝わらなくなっている」
職人を目指す若者に足りない自主独立の精神。これからこの学会でも大きなテーマとなりそうです。
パネラーにはドイツの家具職人で日本に研修に来ているアンニャ・グリージンガーさんも加わりました。
「日本にはすばらしい仕事をする職人さんが大勢いらっしゃいます。家具の分野では鋸(のこぎり)や鉋など使いやすい日本の大工道具が世界を支配しています」と、国内では気づきにくい日本のすぐれた一面を紹介しました。
シンポジウム終了後は、ITを利用した企業の実例と成果などを報告する「IT実践・国際シンポジウム」が、翌日には「削ろう会世界大会」などが開かれました。また全国職人学会では恒例となっている永六輔さんの記念講演もありました。
世界学会、削ろう会、世界職人展などが続いた4日間の来場者の目標は2万人。そして講演や削ろう会など有料参加者の目標は2千人。これらはすべて上回ったということです。
次回、来年の世界職人学会は岐阜県で開催される予定。同時に全国学会も開かれます。そして3年後のドイツ開催も話題に上っています。
こうして幕を閉じた世界職人学会と関連イベントですが、職人がなぜ学会をつくり、そしてその拠点が小樽なのでしょう。またなぜ世界なのでしょう。そこには日本における小樽の独特な事情がありました。
小樽は北前船の時代から海運の拠点であり、小樽札幌間に日本で3番目の鉄道が開通するなど、陸路を含めた物流の要衝であり、商都でもありました。そんな街の機能を支えたのが産業から生活用品までのさまざまな職人たちでした。
多種多様な小樽職人ですが、高度成長、大量生産、大量消費時代に入ると勢いを失います。
小樽職人の会で「小走(こばしり)」(世話役)をつとめ、今回のイベントでも裏方として走り回った伊藤一郎さんは「ブルーカラーが日本では敬遠され、職人という言葉が差別としてとらえられたこともある」といいます。そんな危機感が92年の会の結成へと駆り立てたのです。
ただしこれには北海道の小樽という独特な事情があったため、と同じく裏方として中心を担った藤田和久さん(小樽職人の会 文書方=庶務)はいいます。道外の都市には高度な技術を持った職人がたくさんいるのですが、長い伝統と格式で固まっているために、さまざまなジャンルが集う職人の会を作ろうとしても、うまくいかないという事情です。
32人の職人が集い小樽職人の会が結成されました。その後会員は増えて現在は約80人になっています。ちなみに伊藤さんは旗などの染め物をつくる「旗イトウ」の代表、藤田さんは1級建築士で「藤田建装」の専務です。
職人の会が誕生して5年目の96年から開いているのが職人展です。そして9年目の99年に設立されたのが全国職人学会でした。
「最初は楽しむ世界の『楽界』だったんです。でも学者などから、学会でなければ参加しにくいという声もあって、学会となりました」と伊藤さん。小樽職人が全国に目を向けて勉強し、交流しようという意気込みの現れが「全国」を冠した学会でした。
当初、道外の職人からは、なぜ「全国職人」が小樽なのだ? という反発もあったといいます。でもそれは幅広い職種が集って10年近い活動実績を持ち、しかも歴史が浅いためにしがらみがない小樽だからこそ可能だったのです。
2000年には北海道職人義塾大學校(大川時夫校長)を開校させ、現在はNPO法人になっています。「義塾」の意味は「一般の子弟を平等に教育することを目的に義捐(えん)金によって設立された塾や学校」(大辞林)。当初は勉学と実習を合わせた職業学校でしたが、最近はより実践的に、研修を受けたい人とそれを受け入れる職人を探して橋渡しし、何年かの修業ののち、その親方から認められれば卒業という形が多くなっています。その受け入れ先が北海道だけでなく全国に点在するのも、全国職人学会の成果です。
そして2003年、世界に羽ばたきました。もちろん根底にあるのは、今度は世界の職人のことを勉強したい、交流したいという願望です。小樽職人衆の学会づくりのやり方は、各地に組織があって、それをまとめて会を開くというものではありません。まず小さな自分たちの会があって、それを広げるために全国職人学会を立ち上げ、それによって各地に職人の会がつくられ、全国的な広がりを見せた。そして世界へ広げる願望で「世界」を標榜し、そして実態をそれに近づけていく。最初に実態ありきではなく、最初に願望ありきのスタイルなのです。
今回の北海道宣言にあるような「職人はいつの世も、時代の先端でファッションを興し続けてきた」という心意気そのものなのです。そしてこうした先進の心意気がなければ、職人に新たな時代は訪れないことも現実でしょう。
事務局を担う藤田さんはいいます。
「小樽にはこだわっていません。国連の隣に事務所を持つくらいになれば…」
大風呂敷がさらに広がっています。
世界職人学会・北海道宣言
Shoulder to Shoulder to Open a Way
人はみな力を合わせて フロンティア・ドリームへの道を拓こう
職人衆はいつの世も、時代の先端でファッション(流行)を興し続けてきた。
私たちは常に人類の夢に立ち向かうフロンティア・ドリームこそが
職人パワーの源であることを確信する。
1.私たちは、地球の未来に勇気と感動を育み、
異業種融合を志す職人衆とのサポーター集団づくりを提唱する。
2.私たちは、世界の職人集団と連携して、地域にグローカリゼーションの門戸を拓き、
職人文化の原点・職人気質の研鑽と啓発を推進する。
2003年9月21日 世界職人学会
モノづくり月間プログラム
小樽地区移動大学講座実行委員会講演会(5日)
北海道インダストリアルツアー(10日)
モノづくりによる北海道産業活性化シンポジウム(16日)
北海道中小企業家同友会全道経営者「共育」研究集会(18・19日)
ケーソン進水式(20日)
世界職人展(20~23日)
モノづくり展(20~23日)
木に親しむ広場展(20~23日)
世界職人学会設立総会(21日)
世界職人学会・削ろう会世界大会合同シンポジウム(21日)
IT実践・国際シンポジウム(21日)
削ろう会世界大会公開講座(21日)
情報交流懇親会(21日)
削ろう会世界大会(22日)
キッズベンチャー塾・商品販売(22日)
北海道デザインセミナー(22日)
第5回全国職人学会総会(22日)
北海道職人義塾大學校卒業式(22日)
世界職人学会発足記念講演会(22日)
オタルコレクション(23日)
北海道開発シンポジウム(24日)
北海道地方発明協会大会(26日)
第1回たるウィンプロジェクト(27日)
小樽職人の会・全国職人学会などの沿革
●1992年(平4) 3月:小樽職人の会結成
●1996年(平8) 7月:第1回小樽職人展(2000年まで毎年開催)
●1999年(平11)10月:第1回全国職人学会(小樽市)
●2000年(平12)10月:北海道職人義塾大學校開校
● 10月:第2回全国職人学会(秋田市)
●2001年(平13) 8月:第1回北海道職人展(小樽市)
● 10月:第3回全国職人学会(静岡県焼津市)
●2002年(平14) 9月:第1回北海道・東北職人展(札幌ドーム)
● 11月:第4回全国職人学会(沖縄県那覇市)
●2003年(平15) 9月:第1回世界職人学会・第5回全国職人学会
放送作家・世界職人学会応援団 永六輔さんの記念講演(一部)
佐渡島で観光客に人気のたらい舟。作れる職人さんはどれくらいいるの?と聞いたら一人もいません。でも大丈夫、アメリカに一人いますと。アメリカから税金を使って派遣されて、たらい舟を研究した。
たらい舟を作るとき使うのが曲尺(かねじゃく)です。ところが日本では計算法という法律が出来て、尺貫法を使ってはならないんです。おかしいじゃないですか。アメリカではたらい舟を作れる人がいて、作り方も曲尺の使い方もすべて残している。日本にはその曲尺を使ってはいけないという法律が残っている。このばかばかしさを何とかしたいんですよ。
うちは寺だったもので、出入りの職人さんがたくさんいて、指物(さしもの)の大工さんもいます。30年くらい前の正月に若いお弟子さんにいい仕事をしてもらおうと、曲尺を配ったんですよ。それを誰かが密告したんですね。警察が来た。
電話が来て、ぼくと一緒に警察に行って、わたしゃ曲尺でしか仕事ができないから、道具箱があると未練が残りますから、どうぞ収めて下さいと。若い警察官が、受け取って、無造作にガシャンと落とした。それで棟梁が怒ったの。啖呵を切った。
いいか、この机は何尺何寸、おれの目玉の中に入っている目盛りはどうしてくれるんだ。曲尺を取り上げるのはいい。俺の目玉はどうすりゃいいんだ。えぐり取ってもっていけ、この野郎!
それで曲尺や着物を作るときに使う鯨尺(くじらじゃく)を作って売る運動を始めたんですよ。ぼくは逆に捕まった方がいいと思った。捕まれば、なんで永六輔は捕まったんだ、と言われますから。でも警察が来ない。
それで小沢昭一が、自首したほうがいい、って。それでいろんな所の警察署に、捕まえて下さい、と行くんですよ。でもどこも逮捕してくれない。こういうのを愉快犯っていうんですって。
それで今は曲尺を使っても見て見ぬふりをすることになったんです。
。
小樽職人の会 伊藤一郎さんの話
小樽職人の会の入会規定では、我こそが日本一の職人気質と自負する衆、としていて自己申告です。それが我々の原点になっています。
モノ作りを極めようという人は芸術家、作家、職人と三つに分かれますが、どれも最終的に目指すところは職人気質でしょう。趣味で文化教室に通っている人でも、筋のいい人がいる。その辺の芸術家や作家や職人より、感性が良くて腕もいい。やはりそれも、精神面では行き着くところは職人気質です。
欧米には職人にぴったりの言葉はないんですが、芸術家も職人もそれを極めた親方の呼び方は同じです。アーティストもアーチザンもクラフツマンもその親方はマイスターです。
今回の世界大会では、芸術がどうの、わざがどうのいうより、精神面で、モノづくりを極めようとすることが職人気質だとの考えで取り組みました。
5年前に全国職人学会がスタートしてモノづくりの復権をうたった時からみたら、みなさんの認識がものすごく深まっている事を感じました。継続は力だと思いました。
北海道宣言にある英文は、小樽交通記念館にあるアメリカ人鉄道技師クロフォード像の下のプレートに刻まれています。時代が変わっても、いろんな問題があっても、肌の色に違いがあっても、人は皆で力をあわせて新しいフロンティアドリームの道を開いていこう、というのが我々の解釈です。