中條
大雪山のことを話す時、台風15号(*1)のことをヌキには語れないね。
あの台風の前と後では、雲泥の差があるよ。30年分の木はダメにされて、自然はめちゃくちゃになったし。山の原生林の6割くらいは、なぎ倒されたほどだったんだから。
柴田
そうだ、あの台楓15号はすごかった。石室の屋根も飛んだんだって。
中條
飛んだ、飛んだ。屋根の石ごとな。
柴田
この被害の時、風倒の虫害防除員というのを営林署で募集したんですよ。それで俺は青森から翌年来たわけ。台風で倒れた木をほっといたら、山の津波をおこしたりするから。まあ、その後始末の仕事でした。被害の現場に来て驚いたのなんのって。
中條
あの頃は青森衆が、ずいぶん助っ人に来とったな。おれが層雲峡に落ち着いた時は、青森衆がカムカム祭りとかやっていたもの。
柴田
20人くらいは来てたね。
佐藤
今の峡谷火祭り(*2)などの前身は、みんなそこからきてるんだもの。
中條
1回しかやらなかったけど、ねぶた祭りの小型版みたいのもやったよな。
柴田
その時は、博物館の開館記念と一緒だったから昭和35年だな。もう峡谷火祭りになる前は毎年、ぼっぽこぼっぽこ出し物がちがってた。
保田
その峡谷火祭りが今の形となったのは、昭和42年でロープウェーの開通の年だったし、ちょうど僕が来た時だから覚えてるね。
中條
ロープウェーの完成記念の時に、成田嘉助さんも来てたね。この人こそ大雪山の主で、明治時代から大町桂月(*3)や小泉秀雄(*4)の山案内人だった。
佐藤
それじゃ、保田さんが黒岳に来て17年、柴田さんは、ちょうど30年になるんだ。長いもんだね。すごいね。
柴田
営林署からこの仕事やれっていわれて、ただ年がたっただけの話さ。
佐藤
ここにいる男たちは全員、内気なのばかりだから(笑)なかなか自分のことはしゃべらないんだ。
中條
柴ちゃんはね、謙遜してこういってるけど、この人の功績は大きいんですよ。林野巡視や高山監視にしたって。今年は黒岳の標高1984メートルと西暦年数が同じで、この標高年を記念して表彰するとしたら、まず柴ちゃんだね。
中條
昭和40年頃でしたか、登山ルート以外は歩かせないようにしたのは。20年近くたった今、やっと台風15号以前の黒岳に回復しつつあるけど、それまではひどい傷みようだったね。
柴田
うん、一時はどうなるかと思ったほどだったもの。
それにね、台風だけじゃなくて人間も。今は黒岳に年間3万人以上の人が登るんですよ。その人間が、まあ、ごく一部にしてもね、ゴミを捨てたり、植物の上に平気でテントを張ったりして荒らしているわけですよ。
保田
今でもそうかい?
柴田
今でもさ。レンジャー(*5)や営林署の人たちが、一生懸命アルバイトを引き連れてゴミを集めては下げてるんだ。自然ってのは、ちょっとやそっとの時間じゃなかなか傷は直らないさ。自分1人位ならいいだろうなんて考えで、平気でゴミを捨てたり、草木を取っていく奴が多くてね。例えば高山植物にしても取られてなくなっても、直接には困る人はいないだろうさ。悲しむ人は多勢いても。だけど、その跡にまた花が咲くまでには15年も20年もかかるってことなんだ。
中條
空缶1つが腐るまでに20年くらいでしょう。そこに緑が戻るのに、また20年で40年ですよ。それにね、時代の違いなんだよ。自分たちが登り始めた昭和10年頃は、1年で1,000人くらいの人しか登らなかったし、今みたいなパックの飯や、なんでもかんでも缶詰なんてことなかったもの。
柴田
だから、監視所みたいな施設があって監視人がいた方が、俺は荒れないと思う。あのまま放っておいてごらん10年もたったら昔の黒岳よりまだひどくなる。
中條
環境自然保護の中で、施設は一体なんなのかっていうことだけどね。例えば、黒岳のロープウェーを作ったことも、別に宣伝してるわけじゃないけど、情勢はよくなったと僕はいえるね。
柴田
それは、俺もいえると思う。最初はロープウェーがついたら、山は余計に荒らされるとおもった。だけど、逆に監視できる人は増えたし、ひとりでも多い方が目も行き届くし。俺ね、黒岳に来た人たちにああ、きれいな山だったなあって思って帰ってほしいのね。それが生きがいなんだ。
中條
もう、社会の構成自体が変わってきてるんだよ。山も昔と違うんだ。街の公園と同じさね。ゴミ箱があったって、平気でそこいらに投げてく人はいる。時代の流れっていうか、システムの中で動いてもらわんと。あと、ルールもね。
保田
それに遭難する人の数も減ったでしょう。それまでは最初から自分の足で登らなくちゃだめだったのが、ロープウェーとリフトで七合目まで登れるんだから。
中條
リフトを作る時もね、頂上までにしようかっていうプランもあったんだよ。でも、そうすると観光だけの山になってしまって、自分の足で歩いて自然に親しむことができなくなる。やっぱり七合目で正解だったね。もう自分たちは年になってきたから、こりゃ、てっぺんまであった方が楽だったかな、なんて思うこの頃だけど。(笑)
柴田
使う体力が違うからね。今は簡単に登れちゃう。本格的に山登りしない人でもすごい山に登ったという実感をもってるみたいだよ。我々は昔、下から登って大変な思いをしたけど。
中條
昔は黒岳でなくて、苦労岳っていわれたくらい厳しかったんだから。
柴田
ヤスさんの生まれは大阪だったかい?
保田
生まれは堺市、広島育ち。昭和36年に、初めて北海道ヘウスバキチョウとかね、虫を取りに来て。一度家に帰ってから、山にいられるなら、どんなアルバイトでもして虫を調べたいんだって、最初に泊まった旅館に手紙を出して。その手紙が、たまたま柴田さんの所へいってね。それじゃあ、ウチに来いよっていってくれて。以来、ずっと監視員です。20歳の頃でした。
中條
あのときお前、ハタチだったのか。
保田
そうですよ。
中條
まだ、ヒゲはなかったなあ(笑)
佐藤
なんで黒岳だったんだい?
保田
それは大雪が一番大きな山ですから。
佐藤
虫好きは子供の時から?
保田
そう、もの心ついた頃は虫取り網を持ってたみたい。
柴田
ところで、大雪山で新種どのくらいでた?
保田
僕が見つけたのだけで、もう2・30種くらい。これからまだいくらでも見つかるかもしれない。
柴田
俺のところに来てる蛾は新種でないのかい?。羽を広げれば12センチぐらいのがいた。
保田
(笑)もうこの辺は、まだまだ未開地だからね、原始と同じというか。これからなんですよ。
柴田
こないだ東京から来た人が、蛾を取ってた。カンテラを照らすと飛んできたのもいるけど、土の上を這ってくるのがいて、それをビンの中に一生懸命入れるわけ。俺、1時間くらい傘さしたまま見てた。
佐藤
やっぱり昆虫学者は、新種発見するのが醍醐味がい?
保田
素朴な意味ではね。
中條
発見は偶然的なことだよね。虫なら虫を極めるというのが目的で、その過程の中で新種が見つかるということだから。
保田
そうだね。でも単純な意味でたくさん見つけたいね。なんたって虫に惚れてるから(笑)人間と同じさ、惚れたらおわり。
柴田
足が6本だから、おもしろいんでないかね。(笑)虫、可愛いかい?
保田
そりゃあ、もう。まあ、これも人間社会と同じですよ。女の人だって100人いて100人とも同じってことがないでしょ。
中條
ウスバキチョウは、大雪山の高地帯にしかいないんでしょ、今は。
保田
そう。黒岳はね、1984メートルの高さに、だいたい日本からアラスカまでの自然分布を凝縮しているんです。標高差で、つまり地域でなくて高さで動・植物の生息種類が違う。特に、1200メートルを境にね。山頂はアラスカとまるっきり同じような状態にあるわけサ。2000メートル級の山だけど緯度の関係から本州の3000メートル級の山に匹敵するんだ。ロープウェーやリフトででも登る時に、意識して見てもらえばわかるよ。
中條
種が生き伸びる条件は大雪にしかなかったという事なんだね。
柴田
天気が良けりゃあ黒岳のてっぺんに来て、左側を黙って見てれば気流に乗ってウスバキチョウがヒラヒラしてるのが見れる。
保田
まあ、そういう意味でも素晴しい所ですよね。
中條
大雪山にはそういう大きなものがあるんです。神秘的な底辺の広さ、厳しい気象状況にもかかわらずに、この大自然の豊かさを誇っている。これは今もって、よそにない魅力です。大雪はいいなあ、本当にいいなあ。
保田
この間、僕が育った瀬戸内海の方に帰ってきたんだけど、山の美しさなどの自然は別にしても、昔は身近にあった風景が、どうも穏やかすぎて異様に感じられたのは、すっかり大雪山の住人になったせいでしょうかね。
柴田
俺、今は山に行ってないけど外に出た時、車からいっつも黒岳見てる。いつ見ても、どこ見てもいいなあって30年たっちゃったよ。(笑)1日、1日、山の風景が変わって見える。30年たっても見あきないね。
中條
いやあ、今だから話せるけど、柴田さんはよく鉄砲もって、山の上でバンバン撃ってたね。あの頃は今みたいに、うるさくなかったし、石室のまわりには熊が毎晩出たしさ。
佐藤
あの頃は本当にたくさん熊がいた。僕、毎日必ず熊に出会ったもの。石室にいる時、夜になると熊がゴミ箱をあさりにきて、そのたんびに飼ってるジロウっトいうアイヌ犬が吠えるから柴田さんと高橋のおやじさんと一緒に銃をもって、ゴミ箱めがけて1発ずつ撃ったの。次の日の朝、ゴミ箱が血でべっとり。あ~あ、こりゃ大変だわ、手負いにしたわと思って血の後をたどっていったら岩の向うで、やたらでっかいのがドターッと死んでてね(笑)
中條
心臓を抜かれとってても、80メートルほど走っとった。血を流しながら。
柴田
そして、その場所にまた違う熊がいて、また撃つと今度は明るいのに当らないって。
中條
その熊が今までとった中で、一番でかいんだから。闇夜にめくら鉄砲撃ってあたったくらいいたんだよね。(笑)
佐藤
あの熊の毛皮は俺が山から下げたんだ。重かったのなんのって。それから毎晩、毎晩熊が2、3頭、水飲み場にきて犬が吠える度に鉄砲を撃ってたよね。もう、それが日課なんだもの。
柴田
撃っても撃っても来るんだわ。
佐藤
当たらないから来るんだわ(笑)まあ、20か30メートル先にいるのにだよ。
柴田
そして、1頭いなくなると、次のがまた来るんだ。いや、この鉄砲はもう当らないんだろうっていってて、1週間目にようやく、もう1頭とったの。それがまた、一番ちっこいの。まあ、本当にまがり鉄砲で全然当らないんだわ。それから何かあるたんびにおやじさんの鉄砲とか、まがり鉄砲とか引きあいにだされてるわけ(笑)
佐藤
それくらい当らなかった(笑)
柴田
尾沢のおやじでなかったか、ワーツて立ち上った熊の腹めがけてズドンて撃ったの、10メートルくらい前で。そしたら、すごい音したし、絶対手応えあるっていったけども、なあに、足下に鉛玉落ちてるもんだもの(笑)あの頃ならホント、熊ものんびりしてたわ。昭和36年か37年頃。
中條
黒岳の山小屋は黒岳石室(いしむろ)っていうんだけど、できたのは古くて大正12年なんですよ。大雪山系の中で唯一、管理人のいる山小屋で、今では120人くらいは宿泊できるし、登山の大事な基地になってる。つくったのは北海道山岳会の人たちでね。開発については山岳会の人たちは大きな功績を残してますよ。当時のそうそうたる学者や写真家を連れてきたり、ロープウェーもリフトもない時代に資材などをしょって登ったわけですから苦労だって大変なものですよ。
柴田
苦労はなんもなかったよ。山にはね。人間様に迷惑をかけられることはあるけど。
軽装備で山に登って、遭難騒ぎの時なんかホントにいい苦労だ。
佐藤
遭難とかになるとまっ先に出動するのが地元の消防団だし、昔も今も。それに、まあ、ここにいる僕たち全員も、かりだされますがね(笑)
中條
柴ちゃんはね、24時間勤務みたいなもんですよ。
柴田
いや、勤務時間が終りだからとか、雨が降ってる、雪が降ってるからっていっても泣きつかれたら、俺、しらないっていえないしょ。仕事だし、人に頼まれれば仕方ないから行かなきゃならない。いやだっていって後からあの人が行ってくれなかったから死んだなんていわれたら困るしね。(笑)無防備な登山者に悩まされることは、年に何回かはありますよ。すぐ忘れちゃうけど。
中條
遭難は困るけど、山頂結婚式ね。来てくれっていわれて行ったら、突然媒酌人の挨拶してくれって頼まれてびっくりした。
佐藤
今まで4組やったかな。媒酌人と立会人のあいのこみたいなの、やらされたけどある日突然、結婚式やりたいって来た人もいたよね。
柴田
そうそう、それでいて一番派手だったんじゃないかい?カバン開けたらウェディング・ドレスがしっかり入っててさ、水戸から来た人。その日のうちにやってくれっていいにきた。それも、夕方だったよな。
佐藤
うん。ケーキもあわてて町に電話して登山者に持ってきてもらって(笑)
中條
時がたつとみんな、どんな事も楽しい思い出になるんですわ。
柴田
俺、去年の夏に黒岳の山登りの500回記録した。口ープウェーができるまで141回で、それからの合計が、今、510回くらいかな。
中條
定年まで1000回行くんでないかい?
柴田
いやあ、それまであと8年しかないもの。ちょっと無理でないの。
佐藤
なんの、なんの。それでなくとも黒岳にいる入間たちは、10歳は若くみられるし、体力だってまだまだ。きっと1000回は登れるよ(笑) ―おわり―
層雲峡は、大雪山に源を発する石狩川の渓流をはさんで原始林に覆われた峡谷で、その魅力は何といっても約15キロにわたって続く断崖削壁と、数々の滝の美しさにあります。この岩壁は熔結凝灰岩と呼ばれ今からおよそ3万年前に、現在、小鉢平と呼ばれている火口から、火山灰、軽石、多量のガス、水蒸気とともに火砕流として流出し、低所や谷を埋めて丘陵状に平担な面を作って流れ、広がったものです。
厚く堆積した部分では、内部からの高温と自重の圧力で再び溶融し、それが扁平化し、基盤の地形の凹凸によって湾曲、変形し、溶接したように緻密な熔結凝灰岩ができたのです。やがて冷却、収縮する際に亀裂ができ、それが四角ないし六角の断面をもつ柱状になっているところから柱状節理と呼ばれています。
石狩川はこの熔結凝灰岩によってせきとめられ、奥地一帯は大きな湖になりました。白揚平周辺の河成段丘はこの頃できたものです。しかし、石狩川は地殻の弱い所を押し破り、流路を求めました。激しい水勢は破壊を呼び、破壊は破壊を誘い、浸食を続け、現在のような景観を生んだのです。
柱状節理は全国各地に点在していますがこれだけの規模を現出している所はなく、兵庫県に玄武岩から成る玄武洞があるくらいです。
また、この峡谷からは流星、銀河、錦系などの滝が、数多く虹を放っています。これらの滝は、季節によって水量も異なり、雪どけの頃にしか現われないという幻の滝もあるそうです。厳寒期には、ほとんどの滝が凍り、そこを登るアイス・クライミングを楽しむ人々もいます。
最近では、ただ観光バスの窓からながめて通るだけの人も多いようですが、遊歩道も用意されていますし、是非、ゆっくりと見上げて歩いて、観賞していただきたいものです。
毎年2月上旬に開催される冬の祭りのひとつ、層雲峡氷曝まつりは、その規模の大きさもさることながら自然と人間が一緒に作り上げていく見事さに圧倒されます。11月の中旬から準備を始め、鉄骨、丸太、網、枝などの素材を組み立て、1月の厳寒期に入ってから石狩川の水を噴霧状にして吹きつけていきます。その水は瞬間的に氷結して、やがて結晶体となり形ができてきますが、なかなか人が思うような形にはならず苦労するそうです。なぜなら、水を吹きつけるのは人間ですが、それを凍らせるのは自然だから。
その時、その時の気温、風向き、吹きつける角度などによって、どんな形ができあがるかは、凍ってみないとわからない部分がほとんどなのだそう。場合によっては、設計図についてたタイトルが、できあがり次第で変更することもしばしばあるとか。
凍てつく透明な氷結群と雪の白に反射する色彩光は幻想を誘い、極寒の地ならではの祭典といえます。
(*1)台風15号
1954年(昭和29年)9月26日に北海道を直撃した未曾有の大型台風。函館では、洞爺丸をはじめ5隻の青函連絡船が沈没して千数百名の犠牲者を出し、大雪山地帯の被害も甚大だった。「上川営林署管下2263万石の被害総量」と当時の記録にある。
(*2)峡谷火祭り
昔、アイヌの人たちの間で語り継がれた行事を再現したもので、いで湯を清め、五穀豊穣、山の神、火の神に安泰を祈願する祭りです。毎年、7月24日、25日に開催。
(*3)大町桂月
高知県出身の文学者、1921年(大正10年)53歳の時、黒岳から北鎮岳、旭岳を登行し、それまで無名だった高山に「桂月岳」「層雲峡」「天城岩」「天柱峰」などの美名を命名。また、数々の著作により層雲峡を全国に紹介した。
(*4)小泉秀雄
1911年(明治44年)に初めて登山して以来、大雪山の植物分布の調査を続けて20余種の新種、変新種を発見するなど科学的究明に尽した。小泉岳は彼の功績を記念して命名された。
(*5)レンジャー
環境庁自然保護局に属しており、国立公園管理員事務所に勤務されている人々のこと。