連絡船で津軽海峡を渡るのは十数年振りのことであった。ドラの音とものがなしい蛍の光のメロディーは以前と変っていなかった。
冬の海は青かったり黒かったり、ねずみ色だったりいろいろである。その日は時折陽のさす天候なのに、海はずーっと鉛色であった。
2時間も経ったころから船は揺れだした。窓の外を見ると、ドス黒い波のうねりがほとんどデッキと同じ高さにまで迫ってきているように感じた。飛沫はバシャバシャと窓を叩きはじめた。船はまさに高波の壁をぶち破るように体当りで進んでいるのがわかった。ガランとした船室で一人いるのはやはり不気味であった。大海に浮かぶ一葉にしがみついている気分であった。
すでに外は暮れかかり、陸の影すらも見えなくなったころ、もしかしたら海に押しつぶされるかも知れないという馬鹿げた事を思って時を過ごした。人間がいかにも小さくて弱々しいものに思えた。
飛行機の小さな窓から下界をのぞくと、隆起した山々と限りなく広がる海しか目に入らない。しかし、よく見ると、山すそがググーツと海へもぐりこんでいるその際に、ほんの少しの人間の気配を感じることができる。それらが家なのか道路なのか判別し難くとも、確かに何かが息づいている気配である。ただその気配は、ほんのすこし山すそが動き、ほんのすこし海があふれるだけで、またたく間に消し去られるだろうことは明らかであった。人々は、山海のわずかな隙間をぬってはいつくばり、息をひそめているように映る。それは又、恐ろしく絶望的な光景ともいえるものである。
船が青森へ着くまで、そんなことをアレコレと思いめぐらしていた。
冬の青森は、とめどなく降ったり止んだりする雪で一日が暮れていった。決して寒くはないのに、横なぐりの津軽の雪はホッペタを真赤に染めるほど痛いものであった。
青森ではなかなか津軽弁をきけなかった。しかし博物館や棟方志功の記念館や刺し子を集めた稽古館などを見てまわっているうちに、津軽のにおいが身体に染みこんでくるようであった。
弘前では津軽三味線を聞き、津軽塗りを見てまわった。大工町や紙漉町といった城下の職人町が今もそのまま残っていた。「僕の家」という名の大衆酒場の主人夫婦は、店の仕事もそこそこに毎晩ストーブを囲んで町の文化人と飲んで語っていた。安岡章太郎氏もこの店のファンらしい。亡くなった寺山修司によく似た医者もいた。
弘前ではどこへいっても津軽弁だった。夜更けの町にちらつく雪も暖かいほどで、ふと住みつきたくなる町であった。
人々の昔ながらの息づかいが、つまり文化が不動のかたちでそこに居すわっているように感じた。山や海の恐怖はみじんもなかった。