1963年1月1日、朝日新聞社は大阪本社85周年、東京本社75周年記念事業として懸賞小説の募集を広告しました。賞金が1千万円。翌年には東京オリンピックが開かれ、ハガキが5円、大卒の初任給が2万1,500円という時代です。当時の1千万円は今なら1億円くらいになるのでしょうか。
プロアマ含めて700編を超える応募があり、当選したのが旭川在住の主婦、三浦綾子さんの「氷点」でした。受賞作に多少手を加え、64年12月から約1年間朝日新聞に連載されて、氷点ブームといわれる時代が訪れます。連載の完結後には単行本となり、文庫本、全集にも収録されました。またラジオドラマを皮切りにテレビドラマ、映画、芝居にと幾度となく取り上げられました。
「氷点」のあとも綾子さんは精力的な創作を続けます。「ひつじが丘」「塩狩峠」「続氷点」「細川ガラシャ夫人」「天北原野」「泥流地帯」「海嶺」「銃口」などの小説、加えて随筆など作品は膨大な数に上ります。
そんな綾子さんを支えたのが夫の三浦光世さんです。2人は59年5月に結婚しました。光世さんは夜おそく布団の中で腹這いになって応募小説を書き続けた綾子さんをやさしく見守りました。氷点というのは光世さんが通勤途中のバス停で思いついたタイトルです。このインパクトある2文字がブームにどれだけ寄与したか計り知れません。
作家デビューしてほどなく、三浦文学の創作現場は、口述筆記という形になります。綾子さんが話すことを光世さんがテンポ良く書きとめていくのです。紙に書くことは大きな労力が必要です。綾子さんはそれから解放され、とぎれることなく物語ることができました。
もしこの口述筆記というスタイルがなかったら、綾子さんの作家としての活動がどれだけ広がっていたでしょう。そもそも光世さんという夫の存在がなかったなら作家三浦綾子が誕生していなかった可能性さえあります。
作品を植物にたとえれば、綾子さんが種であり、光世さんは水分や栄養を与える大地、そして植物にとってもっとも大切な太陽の光は2人を結びつけ、作品を世に送り出す動機であり力となったキリスト教だったと言えるのかもしれません。
1999年10月12日、三浦綾子さんは77年にわたるこの世での生を終えました。
三浦さんのご自宅は旭川東部の住宅街にあります。綾子さんや光世さんのエッセイで何度となく取り上げられた住宅です。まず訪れた人は売れっ子作家なのに、あまりにふつうの家なのでびっくりします。全国から精神的な助けを求める人々が訪ねてきて、ときには住み込んでしまう人もいました。毎年12月には100人ほどの子どもたちが集うクリスマス会が開かれています。
光世さんは綾子さんが亡くなってから講演、執筆でめっきり忙しくなりました。そんなスケジュールに割って入ってのインタビューでした。
「このところ特に忙しかったです。10月のアメリカ講演旅行から帰ってきて、11月1日は小田原、2日に旭川に帰って3日は札幌の清田区、4日はうちにいて、5日は斜里町、7日から3泊で京都、大阪でした…」
2002年の講演回数は2度の渡米を含めて100回に及びました。2003年は若干少なくなったものの、やはりアメリカでの講演を含めて70回以上。それにエッセイの執筆などが加わります。
体のほうは大丈夫なのでしょうか。三浦さん夫妻は若いときから病気と闘い、それによって愛を育み、お互いが強くなってきたという側面があるはずです。
戦後間もない1946年、綾子さんは肺結核となり入院しますが、その後脊椎カリエスと診断され、58年まで病院や自宅で療養生活を送ります。24歳から36歳までの13年間でした。
一方の光世さんは戦争が始まった41年、17歳の時、腎臓結核で右腎臓を摘出しています。その後、食糧難も影響して膀胱結核が悪化、戦後の47年ごろからは勤めていた営林署や営林局を何度も長期欠勤しました。幸いにも結核の特効薬、抗生物質のストレプトマイシンによって完治しましたが、残念ながら綾子さんには同じ薬でも難聴という副作用が出たため使用できなかったといいます。
光世さんは結核の完治後も持病を抱えての生活、綾子さんも心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、さらには難病のパーキンソン病と人生の大半が病と一緒の生活でした。
「50年来、朝めしは食べません。それがいいみたいですね」
光世さんは朝抜きで昼夕2食という生活を続けています。膀胱結核だった当時、食欲は減退し、朝食が食ラられません。そこで思い切って朝食抜きにしたところ、昼食がおいしかった。綾子さんと結婚してからもずっと2食の生活を続けています。
光世さんのもう一つの健康法は早寝早起き。夏は5時や5時半には起きてしまいます。そのあとは15分ほどの運動。歯を磨きながら、かかとを上下してふくらはぎの筋肉を伸ばす、腕立て伏せを30回程度行い、開脚、ブリッジといった柔軟体操をこなす。朝が早い分、夜も早く、9時には消灯してしまいます。「10時間も寝ているんですよ。旅行しているときもよく眠ります。家内がいたときも、羽田で飛行機に乗り込んで、すぐに眠ってしまい、目が覚めたら飛行機が走っていたので『旭川に着いたのか?』と聞いたら『冗談じゃないわ』といわれたことがありました」
海外旅行でも、移動中に寝てしまうので時差ぼけがないそうです。光世さんは2004年に満80歳を迎えます。数ある講演や執筆をこなすにはそれ相応の気力、体力が必要です。食事2回へのこだわり、朝の体操、そしてよく眠ることが、その秘訣かもしれません。
綾子さんが亡くなってから、多忙となった光世さんですが、疲労感は逆になくなったといいます。
「以前は『疲れた、疲れた』と綾子にも言ったり、日記にも疲労感とかが書かれていたんですが、それがなくなったのは、おそらく介護がなくなったためだろうと思います」
パーキンソン病の進行にともなって日常の介護も頻繁になりました。夜中はトイレに起きたり、体の不調などで最低でも2回、多いときには4回、5回と起きて世話をしました。
肉体も精神もヘトヘトになり、ときには光世さんが体の変調をきたしました。綾子さんが亡くなって、介護も消え、肉体、精神の重圧からも解放されました。
綾子さんが亡くなる1年ほど前の1998年6月にオープンしたのが三浦綾子記念文学館です。光世さんは文学館を運営する三浦綾子記念文化財団理事長ですが、2002年に亡くなった前館長、高野斗志美さんのあとを受けて館長兼務となりました。ところがなかなか文学館に来ることができません。それでも定期的に来館者との交流ができればと2003年1月から「小さな講演会」が始まりました。毎月第2水曜日の午前と午後の2回、30分程度の講演を行っています。また著書へのサインや記念撮影など、来館者の求めにも気軽に応じています。
「氷点」の舞台となった「見本林」の入口に文学館はあります。正確には「外国樹種見本林」。国(現林野庁)が100年以上前、外国から導入した樹木の成長を観察するために設置しました。
氷点ブームでこの見本林は大きな役割を果たしました。住宅地に隣接し、その向こうには川も流れるこの樹林が、自然豊かな北海道の街、旭川をイメージするのにぴったりだったはずです。またテレビや映画ではロケ地として直接目に触れることとなりました。
文学館は2階建てで、上から見ると円に近い多角形。中央は吹き抜けになっていて、その上には明かりとりの塔が立っています。1、2階に展示されているのは、単行本83冊、文庫本99冊といった著書をはじめ、生原稿、17カ国語に及ぶ翻訳本など。また綾子さんの歩み、光世さんとの生活の様子などがパネルなどで紹介されています。開放的な図書室、喫茶室もあって、建物はさほど広くないものの、長時間くつろげる作りです。
この文学館の運営にあたるのは数人の財団職員と総勢80人にも及ぶボランティア。毎日数人のメンバーがそれぞれの持ち場で仕事をしています。
図書室には来館者が自由に書き込める「想い出ノート」が置かれており、さまざまな人たちが書き込んでいます。
三浦文学の大ファンはもちろんですが、氷点ブームを知らない若い世代も訪れています。来館をきっかけに作品を読み始めたり、自分の生き方を考え直すなど、与える影響は大きいようです。
「1冊の本によって私の価値観が180度変えられました。感謝を知らない私が不満から感謝へと変えられました…」
「年を経ての三浦文学にはまっています。若い頃は文学というより仕事と生活で一杯。余裕が出てきて、やっと読書…」
「旭川には大学受験のために来ました。正直、三浦綾子さんのことは名前を聞いたことがある程度で、なんとなくこの記念館に寄ってみたというぐあいです。でも、この偶然にはすごく感謝しています。受験に対する不安、将来への不安、自分が生きる意味、生まれてきた意味etc。高校生活の中でず~っと悩んでいたことのヒントを、今日ここで見つけることができました…」
「初めて参加しました。『小さな講演会』どうもありがとうございました。なぜか心温まる、おだやかな気持ちになります。又、来館したいと思います…」
こうした書き込みが続きます。
三浦綾子記念文学館は訪れる人々にとってどんな存在なのでしょう。三浦夫妻の生き方と作品のバックボーンになっているのはキリスト教です。その集会所である教会のような存在なのでしょうか。しかしクリスチャンだけでなく幅広い人々が来館し、何かを感じていくようです。
綾子さんは小学校の先生だったこともあり、子どもたちへの指導力は抜群だったそうです。講演も文学者仲間では2番目にうまいといわれていました。この文学館は自分の生き方を見いだすことができる、時を超えた永遠の学校といえるのかもしれません。
2004年は三浦綾子さんが作家デビューして40年の節目にあたり、文学館では記念の企画を立案しているところです。
綾子さんが亡くなって光世さんの生活はがらり変わりました。健康的になりました。講演もうまくなりました。財団理事長、そして文学館館長としての仕事もあります。80歳を迎えるとは思えない充実した生活です。
しかし心は満たされないようです。
「昼食はスタッフたちと3人で食べます。夕食を作り置きしてもらい、2人は帰ってしまうので夕食は1人でモソモソと食べるわけです。それはさびしいというか、悲しいと、ときどき思います。やっぱりいつまでも一緒に生きて欲しかった」
2人なら夜は一緒にテレビを観たりして過ごしましたが、1人ではおもしろくないので早寝してしまいます。その結果が、健康的な早起きなのです。
人生最大の悔いが、綾子さんの命を縮めてしまったのが自分ではなかったのかという思いです。それは最後の入院となった直前のことでした。体が自由にならないパーキンソン病が進行するに従って、食事の時間も延びていました。せっかく口のすぐ近くまで持ってきたおかずをポロリと落とすような状態です。食事の途中で居間のソファーで一休みしてまた食事するということもありました。
ところがその日、光世さんも疲れていました。「私はさっさと食べ終わって待っているだけです。でも2時間経っても終わらない。そのとき、ソファーで一服したいと言ったんです。でも私は屁理屈を言いましてね。ここに来てまた戻って食べるとなったらかえって疲れるだろうから、適当に切り上げて2階に上がって寝たほうが楽だよと。結局4時間10分。半日ですものね」
これまでの最高は4時間でした。光世さんはこんなことも言ったそうです「4時間10分は新記録だな」。
翌日の朝、光世さんは衣服を着せ、介助しながら階段を下りましたが、綾子さんは一段ずつ尻餅をついて下りるような状態でした。
「階段というのは尻餅つくところでねえぞ、なんてまたバカなことを言いましてね。ソファーに寝かせて(体温を)計ったら8度7分、午後は9度8分。その日に入院し、それで戻ることができなかった。私が無理やり(食卓に)座らせておいたばっかりに命を早めたなと思いましてね。今もそれが毎日思い出されます」
このことは「綾子へ」(角川書店 2000年)や「妻 三浦綾子と生きた四十年」(海竜社 2002年)など著書に光世さんが書いており、講演でも何度となく触れているはずです。でもこのことを語るとき、それまでのとつとつとした口調が崩れてしまうのです。何度となく話をしても、そのたびに抑えられない感情が湧き上がってくるようでした。
こうしてお別れした光世さんと綾子さんですが、キリスト教の信仰で結ばれた2人は天国で再会できると信じています。でも夫婦という関係ではないそうです。
「また会うことができたときには、わびてやったり、ねぎらってやったりしたいと思います。夫婦の関係を引きずることはないと聖書には書いています。それ以上の関係なんでしょう」
このインタビューの最後に光世さんが強調したのが、平和です。おりしも地元旭川の陸上自衛隊第2師団がイラク派遣の第1陣となるとの報道があったばかりでした。
綾子さんがかつて典型的な軍国主義教師であったことは有名です。
「綾子は厳しくてね。あるとき水を入れたバケツを頭の上にかかげて廊下に立たせたそうです。教育勅語をトイレのそばで暗記しようとしていた。おそれ多くも天皇陛下のみことのりをそんなご不浄のそばで、と。天皇陛下は神様なのよ、特に男子生徒は兵隊に行って戦地に行って命を差し出すのよと。それが負けて半年も経たないうちに人間宣言でしょ」
綾子さんは国家の欺瞞、教育の過ちに気づいて教師をやめ、その後病に倒れます。
「もちろん私も綾子を笑えない。あるときニュース映画で昭和天皇が白馬にまたがって。まさに現人神(あらひとがみ)だと感激して涙が流れたくらいでした」
聖書は、やがて人類には戦争や争いごとのない日が来ると予言しています。
「聖書には平和を作り出す人たちは幸いという言葉があります。漫然とではなくて作り出していかなくてはいけないとは思います。どこまでも今の憲法を守っていかなくてはならない」
終始、柔和な表情を崩さない光世さんですが、現在の危ない状況を危惧する感情がにじみ出ているように感じました。
【三浦綾子記念文学館】
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