何年か前に他愛もない前世占いが流行した。学生たちが本を片手に「占ってあげる」と寄ってきたが、その時、自分でも思いがけず強く「いや」と拒絶した。そのにべもない調子にかえって自分の思いの深さに気づいた。
何の根拠もなく、おまけにけっこう確信に満ちて「私の前世は木に違いない」と密かに思い、日常のあれこれに「やっぱり」とその証拠を探し始めたのはもういつのころからか思い出せない。
花屋の花より、野の花、野の花より、木の花と思いを込めて見る花が変わってきて、そのうち、木の花より、木のそばに立って梢を見上げるとき、胸にこみ上げる懐かしい充足感が、年とともに深くなっていったこともある。
だれにも見られずひっそりと花びらを散らす、深山の山桜がいいなあとか、やはり木にうまれたからには、エルムの木のように畏れを抱かせる巨木がやはり王道かななどと、その時々の心境でなりたい自分を描くようなものだったのかもしれない。それ以来、「私の木」探しが、山歩きや、散歩のテーマになった。でもなかなかみつからなかった。
この晩秋、通勤で毎日歩く大通公園で息をのむ光景に出会って、私は運命の木を見つけた。ブランコのそばにあるイチョウの木だ。その朝、いつものイチョウの根元が、みごとな黄色い落葉で埋まっていた。それも枝を広げたそのままに、丸くきれいな円を描くように葉が散り敷いていた。昨夜は風のない、寒い夜だったに違いない。月光を浴びながら、葉の一枚一枚が命を全うし、舞い散るシーンは、どんなにすごみがあったことだろうか。
「静かなる者、遠くまで行く」という言葉が思い出された。声高に主張せずひっそりとそこにあるだけで、さまざまな思いを人に伝え、遠くまで思いを運んでいく一本の木。それは私にとって「カムイミンタラ」という北海道の文化誌に重なる。葉を落とした木はまた春に芽吹くように、たくさんの人の思いを養分にしてまた巡り会える日がくるに違いない。