野幌森林公園の一角、すっぽりと雪に包まれた原始林のなかに、レンガづくりの建物がどっしりと建っています。
北海道開拓記念館。1971年(昭和46)4月に開館しました。
一歩入ると広びろとした吹き抜けのホール。ナウマン象の骨格模型と道章をデザインした大きなタピストリーが私たちを迎えてくれます。
社会科の授業でしょうか、小学生が列を組んで楽しそうに館内を横ぎります。静かな展示室に一瞬の歓声。そして声をひそめて語り、指さしあう子どもたち…。
展示は先史時代から始まります。続いて開墾の様子をドラマチックに展開した壁画が一面に広がっています。アイヌのチセ(住居)からフチ(おばあさん)の唱うユーカラが。そして2階へ進むとニシン場の風景が現われ、どこからともなく聞こえるヤン衆たちのソーラン節が、潮の香りを運んでくるように思われます。
北海道開拓記念館は、北海道の先人の残した遺産、生活と生産の歴史を、ジオラマやパネル、音響効果を駆使して明るくわかりやすく展開しています。
しかし、開拓記念館にはもう一つ、ふだん私たちが見ることのできない顔があります。それは収蔵庫と研究室です。大きな収蔵庫。そして収集、調査、保存の仕事。開拓記念館の地下では、博物館の基礎的な活動が営まれているのです。これらは私たちの親しんでいる展示とどのように結びついているのでしょうか。
階段を下ると、そこは一転して荷解き室。まだ解かれていない荷物、積みあげられたプラスチックやダンボール箱の山…。どれにも荷札やラベルがつけられています。「気をつけてください」と資料管理課長の三野紀雄さんにうながされ、ふと見るとなにやら黒い固まりが5つ、6つ、新聞紙に干しています。「発掘のときに持ち帰った土ですか」とのぞき込むと「いいえ、生態を調べるためのクマの糞です」との答え。あわてて顔を離します。
「ここから靴をぬいでスリッパに履き替えてください」
厚い扉。三野さんはかぎを開けます。カード室を通りぬけ作業室に入ると、また厚い扉。そして2つめのかぎ…。ここからが開拓記念館の収蔵庫なのです。
静まりかえった収蔵庫。
鉄の鍋が棚一段、ずらっと並んでいます。鉄びんもあります。大きな桶。しゃもじ、へら、茶碗、小皿、焼き串などの小さなものは数十とまとめて箱に入れられています。こんなものまで、という言葉が喉まで出かかります。
「こちらが明治の初期から中期にかけて農村で使っていた茶碗。こちらが同じころのニシン漁場の茶碗です」
生活史を研究する矢島睿さん(普及課長)が、茶碗の違いを説明してくれます。
がっちり組まれた棚、棚、棚。そこに隙間なく並んでいる“もの”たちのなかにあって、奥行きがどれほどあるのか見渡しても見当がつきません。奥に入ると馬具、すき、くわ、伐採用のこぎりなどが、やはり棚にずらっと並べられています。
ニシンを運んだモッコや大たも。新墾プラウや初期のトラクター、脱穀機。石炭を運んだトロッコ、馬そりなど大型の資料も並んでいます。
別室の恒温恒湿室。
ここには仕事着、刺し子、赤ゲットなどの衣料、漆器の祝い膳、アイヌの衣装、儀式で使う道具類などが、ていねいに和紙に包んで保存されています。ここは収蔵庫のなかでも、特別、湿度の管理に気を配っているところです。
開拓時代の生活を語る“もの”たち。鍋のさび。馬具の皮にしみついた汚れ。それらは生活者のぬくもりを、いまなお生なましく伝えていて、当時の暮らしへと一瞬タイムスリップしたかの錯覚が…。
開拓記念館に登録された資料は、現在、11万点。祝い膳などは1セットで1点と数えますから“もの”一つひとつを数えると20万点になります。1、2階の展示室にある展示資料は4千点。ですからその20倍もの資料が、地下の収蔵庫に収まっていることになります。
「庶民全体の歴史、北海道のある時期の、ある地域の生活をすべて伝えようというのが館の活動目的なのです。ですから農家の釜、鍋、しゃもじ、ニシン場で使ったモッコ、三平皿など、実際に使ったものをそれぞれ1個ずつ集めるのではなくて、その地域、家、部屋での生活がわかるように、できるだけ一括して集めるというやり方をしているのです」と矢島さん。
北海道開拓の歴史は、明治以降急速にすすみましたが、入植した人びとにとって厳しい北の自然との新たな闘いの歴史でした。
収蔵庫の入り口近く、右側は暖房具のコーナーです。火鉢。そしてさびた鉄板の薪ストーブ、欠けた部分そのままの貯炭式ストーブ、指で触れるとポロポロと壊れてしまいそうな鋳物のストーブ。コークスストーブ、ルンペンストーブ、なかにはインテリアになりそうな黒光りしたストーブもあって、目をみはります。産業のあゆみと絡まりながらダイナミックに変化する人びとの暮らし。失敗や発見を繰り返しながら進む人間の営み。その一例を暖房の変遷の足どりから追ってみます。
明治初期。開拓地に入植した人びとにとって、冬の寒さは死の恐怖につらなる厳しいものでした。激しい吹雪。粗末な小屋に容赦なく吹きこんでくる雪。いろりにどんどん薪をくべても、寒気は背中から襲ってきます。生きて春を迎えられるだろうか――人びとはそんな思いを抱き、ただじっと冬が過ぎ去るのを待ったのです。
北海道開拓計画がすすめられるなか、ケプロンはストーブを奨励しましたが、技術や材料がととのわず、北海道の奥地までなかなか行きわたりませんでした。その後、鉄板で囲いえんとつを付けただけの新ストーブが作られ大正中期まで続きます。
そして燃料は薪から石炭へ。投げ込み式のずん胴ストーブが現われ、このころから北海道の冬に適した熱効率のよい新しいストーブをつくろうと、開発研究が各地に起こってきます。札幌の鈴木豊三郎が貯炭式ストーブを開発、福禄ストーブの名で北海道全域に広がったのは1925年(大正14)のことでした。
「これは、みんなが待ちこがれていたストーブだったのです。北海道人が自分たちの生活に適した商品を自分たちで考案した、いわば初めての開発商品だったと思いますよ。自分たちでつくった冬の生活文化の始まり、ともいえるのではないでしょうか」一年後、鎌田政一によって『カマダストーブ』が売り出され、これらは爆発的勢いで全道に普及し、この時期、人びとの冬の生活は一変したのです。
鈴木豊三郎の開発した福禄ストーブ。それはどんな経過で生まれたのか、いまとなっては、当時の関係者を見つけだすことは、容易なことではありません。ところが調査を続けでいくうちに、やっと、ストーブの制作に加わったという鈴木さんの従兄弟が、埼玉県川口市にいることがわかったのです。矢島さんはさっそく川口市へ。そこにはストーブの試作品や道具類がそっくり残されていました。
福禄ストーブ誕生から60年。これらの資料は、ねばり強い調査によって私たちの前に姿を現わしたのです。
こうした研究は、生活史の分野だけでなく、32人の学芸員、研究者によって地史、動・植物、考古、アイヌ民族、産業史、文書、美術、展示技術、保存技術などの分野に分かれて、日々、研さんが積まれています。
「保存技術でいちばん難しいのは桶やわらなんです」と三野さん。
三野さんは開館以来、館にやってきた“もの”たちをじっと見守ってきました。
桶はタガが外れてくる。わらもポロポロ落ちてくる。アイヌの儀式や東北地方の祭で使った「削りかけ」(木を削ったもの)も古くなると途中で切れてしまいます。これらは、まだどこの博物館でも適した保存の方法が見つかっていません。
「薬品やセメントで固めてしまうなら簡単です。しかし、わらの手ざわりを伝えたいと思えば、保存技術もいままでとは違う質のものが要求されます。いまはその技術を模索しているところなんです」
考古資料の場合は、掘り出した瞬間から酸化が始まり、すぐに化学的処理をしなくてはなりません。少し前までは生活用具も同じ考え方で、きちんとさびを落とし、油をぬって保存していました。ところが生活用具は、手を加えると逆に変化を速める場合のあることがわかってきたのです。
「発見された時、ここに持ちこまれた時と同じ状態で保存しよう、土はついたまま、さびはさびたまま…。その“もの”が運んでくれた情報もひっくるめて保存しよう、いまはその段階にきているんです」
そのためには、これ以上さびさせない環境づくりが大切です。空気調節装置による温湿度などの調節で、収蔵庫の“もの”たちの変化は10年前とほとんど変わらないといいます。
保存技術研究室。
ビーカーや試薬品、大小のブラシ―まるで化学実験室のようです。
黒い液体の入ったビーカーが20個ほど並んでいます。土から花粉の化石を取りだしているとのこと。
「花粉というのはとても丈夫でしてね、縄文時代の土器からソバの花粉を見つけたんです。ソバは開拓期に入って本州から持ってきたものとされていました。ところがずっとそれ以Oに北海道にあったんです。これがはっきり解明されると、従来のパネルや展示は変えなくてはならないでしょう」
学芸員の山田悟郎さんは、しばし顕微鏡から目を離して語ってくれました。
先住の人びとの暮らしが、一つひとつ解き明かされていく。その研究成果が、新しい展示、工夫を加えられる展示、様々な形となって私たちに戻ってくるのです。
第二次世界大戦後を見ても、10年刻みといえないほど生活は急激に変化しています。石油の時代に入り、石炭ストーブは少なくなり、現在では温風式、FF式ストーブ、そして床暖房の出現と、私たちの暮らしから“火”の姿はますます見えなくなっていきます。
「燃料が石炭から灯油に変わったころの初期のストーブやポット式ストーブなど、うかうかしているとなくなってしまいます」
100年後、200年後の道民に生活と文化を伝えるため、いま集めなければ永久に手に入らない“もの”やデータは、いまの暮らしのなかにもたくさんあります。
近年、館には道民から手紙や電話などで情報がたくさん寄せられるようになりました。人手や収蔵庫にも限度があり、残念ながらすべてに応じられないのが現状ですが、周囲に存在する“もの”たちへの関心が、北海道の歴史を深くとらえ、学び、次代へ伝えていくことにつながるのです。
北海道開拓記念館館長 高倉新一郎
北海道の開拓の歴史は人類史上、世界的に見てもひじょうにめずらしいできごとなのです。
ヨーロッパ人がアメリカやブラジルにわたり新天地を拓いたときは、ほぼ同じ緯度に動いています。ところが日本だけが南から北へと動いた。温かいところから寒いところへの移動というのは、人類が長い年月をかけて徐々に可能にしてきたものです。ところが、とくに明治以降の北海道の開拓はひじょうに短い時間で一定の文明に到達しようとしたのです。
温暖な本州における生活と生産の方法はあてはまらない。それを突破してひとつの文明を築こうとした。いわば人間にとって限界を越えた生き方だったと思うのです。それだけ苦労も大きく時間もかかった。先人は裸のまま未経験の環境に飛び込み、挑戦しながら自分たちの生活を築いていった。北海道開拓の歴史はその過程を示してくれたものです。
これは単なる日本の歴史としてではなく、人類の文明の歴史として注目にあたいします。
このように北海道の歴史は深い意味をもってはいますが、しかしまだまだ科学的な調査、研究は足りません。そのために、いまの私たちの考え方を後世におしつけてしまうようなことがあってはいけません。まず、歴史を語ってくれる物を集め、研究すること。そこから事実を蓄積し、知識をひっぱり出せるところをつくろう、私たちはこう考えました。そのために北海道開拓記念館が生まれたのです。
博物館は、基礎的な作業、裏方の仕事が大切です。大きな収蔵庫があり、そこで研究する人が育って初めて、博物館は生命をもつのです。
●常設展示
テーマ1・北の夜明け
北海道のおいたちと動植物の変遷、約2万年前から700年前までの人びとの生活をたどります。
テーマ2・先住の人びと
アイヌの生活文化資料を中心に、ウィルタ(オロッコ)やニブヒ(ギリヤーク)の資料を展示しています。
テーマ3・新天地を求めて
松前藩成立から箱館戦争にいたる近世北海道史を示しています。
テーマ4・開けゆく大地
明治初期の欧米技術の導入、屯田兵による開墾にはじまる北海道開拓の跡をたどります。
テーマ5・産業のあゆみ
明治初期から昭和20年ころまでの産業の変遷を、漁業、農業、林業、工業の順に示します。
テーマ6・北のくらし
生活の歴史を衣食住、教育、医療と薬、町の発達、遊びとスポーツ、郷土芸能にわけて、展示しています。
#テーマ7・新しい北海道――自然と人間の調和をめざして
過去と未来の接点にたつ現代の北海道の姿を21面のスクリーン、42台のスライドプロジェクター、3チャンネルの音響でとらえ北海道のすすむ方向を提示しています。
●収蔵陳列
地学、考古、生物、民族、生活、産業、文書、保存技術などの専門性を生かし、常設展を補う各部門の資料を収納、展示しています。
●特別展示・テーマ展示
特別展示の分野、主題をもとにして年1~2回開催しています。1985年は「第26回特別展・津軽こぎんと南部菱ざし~北海道開拓文化の源流をさぐる」「第27回特別展示・北海道1億年~クビナガリュウからマンモスゾウまで」。テーマ展は各分野それぞれのテーマにそった研究発表として年間5~6回、企画しています。1986年では『アイヌの木彫り』(1月19日~2月16日)「くらしのなかの地図」(2月23日~3月9日)を予定しています。
●体験学習室
わらじ、ぞうり、石うすなどの生活用具、お手玉、メンコ(パッチjなどの遊具、石器、土器などの標本を直接手に触れることができます。しめ縄づくり、わらじづくり、はた織りなどの講習会も行なっています。資料に触れ試作するなかで、昔の生活に対する理解をより深めることができます。
●開拓の村
明治・大正期に建設された建造物を復元・再現した野外博物館です。農村あり漁村あり、市街地あり、村全休が開拓期の社会に導いてくれます。夏は馬車鉄道、冬は馬そりが走り、体験学習棟や子どもたちの広場、村のあちこちでは季節の行事、催し物、講習会を開き、当時の人びとの暮らしも体験できます。
〒004-0006 札幌市厚別区厚別町小野幌53-2
電話/(011)898-0456 FAX/(011)898-2657
開館時間9時30分~16時30分(入館は16時まで)
休館日・月曜日、祝日の1部、年末年始