ウェブマガジン カムイミンタラ

2005年03月号/ウェブマガジン第2号 (通巻122号)  [ずいそう]    

「鵬の歌」‐弘大勤務三十六年の回顧‐を出版して
庄子 茂 (しょうじしげる ・ 弘前大学名誉教授)

舞鶴草の伝説 版画:宝賀寿子
舞鶴草の伝説 版画:宝賀寿子

自分の生きた軌跡、証しと言ったほうがよいかもしれないが、いわゆる「自分史」を書きたくなるのは人間の本能に近いだろう。私にもそのような欲望があったことはたしかである。

しかし、弘前大学での36年間をふりかえると、たんなる「自分史」の枠に収まらないことに気づいた。「大学紛争」と「岩岡問題」。特にこのふたつの大きな紛争には、多くの弘大人が関わっている。この人たちの大学人としての存在を賭けた努力、闘いを、自分の個人的な感情、経験でゆがめてはならない。それは彼等の努力に対する冒涜であると思った。勝手な思い込みだが、あくまでも忠実に再現することが義務であると考えた。

とりわけ、「岩岡問題」だけは、その他からきりはなし、一冊書きたいと思っていた。過去の中に埋没させたくないと思った。しかし、予算など現実の条件を考えると、「自分史」の中で書くしかなかった。

私が1965(昭和40)年にドイツ語教官として弘前大学に赴任した3年後、東大医学部に端を発した大学紛争はまたたくまに全国の大学に広まり、紛争の嵐はその後、弘大にも吹き荒れた。「岩岡問題」は、全共闘と称する学生たちが大学本部を占拠したその「大学紛争」直後の、異常な事件であった。当時の教養部の岩岡体育教官が、1969(昭和44)年度前期の保健体育の成績認定で、9名もの不可解な不合格者を出したことが翌年に発覚、それが発端となった事件である。

9名の学生たちは、本部占拠に反対し、封鎖解除の「声」形成の先頭に立った者たちであった。しかも、不認定の根拠の不確実さは、すぐさまはっきりしていったことだった。結果は、その学生たちの単位は教養部として最終的には認定することとなり、岩岡教官には大学側の処分として「分限免職」の決定が下されたことで、一応の区切りとなった。しかし「岩岡問題」は、結論までに7年の年月を要し、学問・思想の自由と、弘前大学の良識が問われた紛争であった。

過去の事件は、それ自身で意味があると思う。将来に役立つならば言うことはない。

最後に、毎日新聞の「余禄」の一部を載せる。アウシュヴィッツ収容所の解放60周年にあたり、強制収容所を生きぬいたノーベル平和賞作家のエリ・ウィーゼル氏が国連の記念会合で訴えた言葉と、それに対する毎日新聞余禄の筆者の付記である。

「『過去は変えられないが、未来は私たちの手にある。無関心ではいけない。無関心が常に加害者を助ける』。記憶を語り継ぐ大切さは過去よりも未来のためだと思う。風化と無関心が怖いのはヒロシマ、ナガサキにも言える。若者たちの手で記憶を伝える努力がほしい。」(2005年1月30日発行 毎日新聞 東京朝刊)

「鵬の歌」 発行:津軽書房

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