大地に降った雨水は海に向かって流れます。その大地に山脈があれば、たとえば稜線の西側に降った雨は日本海へ、東側は太平洋へと流れが分かれます。その稜線が分水嶺で、分ける境界を分水界と呼んでいます。
中央分水嶺とは北海道、本州、九州を貫く日本列島の背骨に当たる約5000km。その北側に降った雨は日本海に、南側に降った雨は太平洋へと流れます。北海道では日本最北端の宗谷岬が起点となり、最初は日本海とオホーツク海との分水嶺をたどり、網走、十勝、上川の3支庁が接する三国山からは日本海と太平洋の分水嶺となって、北海道最南端の白神岬に至ります。
1905年(明治38年)に産声をあげた日本山岳会は2005年に100周年を迎えました。その記念行事として100周年史編纂などとともに計画されたのが、中央分水嶺踏査です。踏査とは「現地に行って調査すること」(大辞林)。単なる登山ではなく、北海道の宗谷岬から九州の佐多岬までを歩いて調査しようという壮大な計画です。
記念事業には一過性のものではなく後世に残るものをという意図がありました。また中央分水嶺踏査では1つの目的、1つの旗の下に、6千人近い会員のできるだけ多くが参加することを目指しました。
2005年は日本山岳会北海道支部(新妻徹支部長 会員約230名)にとっても節目の年です。支部の設立総会は1969年(昭和44年)に開かれていますが、昭和23年からの数年間、支部としての活動記録が残っており、その年月を加えると2005年がちょうど40周年なのです。
日本でもっとも伝統があり、社団法人として権威のある登山家集団です。豊富な登山経験を持っている人々だけに、当初は分水嶺踏査を簡単に考えていた人が多かったようです。ところが現実に踏査を始めると、まさに100年を記念する大事業であることを実感するのです。
「稜線のあたりに乗用車やトラックくらいの大きさの雪崩のブロックが、さあ落ちるぞとばかりゴロゴロしていました。そんなところはとても歩けないので、迂回して森林の中を歩きました」(道北で 長谷川雄助さん=北海道支部事務局長)
「咲来(さっくる)峠から屋根棟(やねむね)山というところを通って函岳に行く。その屋根棟山の傾斜がきつかった。スキーアイゼンで登れず、スキーを手に持ってね。滑り落ちたら大変です。特に危険な箇所は避けることになってますが、逃げ場所のない山なんです。そこを行くしかない。後日そのかなり北にあるイソサンヌプリに登って、屋根棟山が見えたんですが、傾斜が45度くらいあるんです。ああ、あの山に登ったんだなあと思いました」(道北で 鈴木貞信さん)
「岩子岳の分水嶺上に切り立った壁があるんです。そこだけは危なくてどうしても行けない。命をかけてまでやることないと。上から200mくらいのロープを垂らして下りてくればできるんですけれどもね。そこまでやることないですからね」(道南で 横内泰美さん)
北海道支部が担当する1065kmのうち、道なき道は1000km。夏にはササやぶなどに遮られ、人間の入り込めないところが大半です。そのため全体の8割は降雪を待っての縦走となり、期間も雪解けまでと限られます。
それにできるだけ多くの会員ができるだけ多くの区間で参加するという方針があるため、どうしても土曜、日曜を使った日帰りや1泊2日の踏査が主体となり、まとまった日数をかけて踏査ができるのは連休くらいしかありません。急峻で逃げ道のない山、今にも雪崩の起きそうな稜線、登ることも下りることも危険な岩などがそこに立ちはだかるのです。
分水嶺上を正確にたどるために最新の科学技術が駆使されています。北海道支部では2万5千分の1の地図を181枚購入、その地図の分水嶺にいくつものポイントを打っていき、緯度経度をカシミールというパソコンソフトで割り出しました。そしてハンディタイプのGPS(グローバルポジショニングシステム)機器にそのデータを入力し、踏査の現場で次の目的となるポイントの方向を指し示すようにしました。GPSは本部から4台借り受け、個人の持っているGPSも使いました。
決まった1本の線上を歩かなければならない分水嶺踏査では、一見簡単そうに見る低いなだらかな丘陵で、これまで経験したことのない困難に見舞われました。
「分水嶺だとばかり思って歩いていて、GPSで確認したら違う尾根に入っている。戻ってよく調べてみると斜面の下に尾根があってそこが分水嶺なんです。木がなければ尾根が分かるんでしょうが、見通しが効かないので。こんなことが何回もありました」(道央で 鈴木貞信さん)
「1000m以下の丘陵のようなところはかえって厳しかった。四方八方に尾根が出るんですよ。はっきりしている尾根があるでしょ。これだと思ってとっとこ行ってからGPSを見るとちがうんです。また戻ってGPSと地図をもう一度見て。ちゃんと見ながら行けばいいんだけどね」(道央で 長谷川雄助さん)
「谷底だと思って下がって行くとちゃんと尾根がつながっていました。ダメだと思って行ってみたんですが」(道南で 片岡次雄さん)
片岡さんは元営林署職員。長年にわたり仕事で道南の山々を歩いており、ふつうの登山家たちとは違った経験を持っています。それでも分水嶺をたどる踏査には新しい体験がたくさんありました。
北海道の山歩きではつきもののクマ(ヒグマ)との遭遇はみなさんが経験しているようです。
「林道を約9キロ歩かなければならなかったんですが、途中から我々と同じ方向に向かってクマの足跡が付いていたんです。そのうち林道の横の斜面にクマが掘った直径1mくらいの雪穴があって、中に肉の付いた骨が2つ入っていました。その穴をのぞいている姿をクマが見ていたのではと思ったとたんにゾッとしました。翌日同じ林道を通ったのですが、笛を吹いたり大声で話したり。ビクビクしながら帰ってきました」 (道東で 田島祥光さん)
「僕らを探しているように、僕らの足跡をたどってクマの足跡が付いていました。そしてあわてて逃げたように足跡が飛んでいたんです。音を聞いて逃げたんでしょう」(道南で 海川俊雄さん)
北海道支部が担当する中央分水嶺は宗谷岬から白神岬までの1065kmですが、それを道北(宗谷岬~北見峠 339km)道東(北見峠~狩勝峠 172km)道央(狩勝峠~静狩峠 283km)道南(静狩峠~白神岬 271km)の4ブロックに分け、それぞれ担当者を配置して計画をつくっています。
分水嶺はまず宗谷岬から稚内市内を南下して猿払村との境界線に至り、その後はほとんどが市町村の境界線、とくに隣接支庁の境界線を通って白神岬に至ります。その間には、標高20mという日本で1番低い中央分水嶺である千歳空港付近や、距離300mと日本で一番海岸線に近い礼文華峠付近などもあって話題に欠きません。
自然条件の厳しさではなく社会的要因で踏査できないところもありました。追分町の自衛隊演習場では公文書で要請しましたが、結局入れません。千歳空港も横切ることができませんし、宗谷岬や白神岬の自衛隊施設も入ることができませんでした。
支部長の新妻徹さんは日本山岳会の中央分水嶺踏査のずっと前から北海道の分水嶺を歩いてきました。これまで宗谷岬から日勝峠まで来ており、日高山脈を襟裳岬まで行けば北海道縦断です。
「私のライフワークでね。日高が残っている。いよいよ仕上げてしまおうと思ったときに中央分水嶺の話が出たので、ストップしているんです」
本部の最初の原案では知床半島に向かう分水嶺も日高山脈の分水嶺も今回の踏査に含まれていたそうです。しかし支部長の新妻さんは2年間で知床や日高は無理なことを本部に説明し、了解を得ました。ライフワークとして分水嶺踏査を続けてきた新妻さんだからこそ、具体的な思考が可能だったのでしょう。
会員は札幌周辺に集中しており、道北や道南は手薄なため、踏査が進むにつれて札幌周辺から遠征することが多くなりました。踏査の現場が遠くなればなるほど、日程的な難しさが加わります。
「たとえば札幌から名寄に行くのに1日かかります。帰りも1日かかります。中1日では何もできません。行った以上は1週間くらいやりたいんですけれども、そうするとメンバーが限られます。本来の主旨は全員参加ですからね」(新妻さん)
踏査の線と線はなかなかつながりません。
たとえば道北の北見峠からチトカニウシを経由して浮島峠に向かうルートでは、チトカニウシの山頂で猛吹雪のホワイトアウトという事態に今年5月の連休を含めて3回見舞われています。もう今年は無理と思われていましたが、雪解けの遅れが幸いし、5月14、15日についに達成することができました。
道南でも難航しています。
「道道が崖崩れで通行止めで、その峠を中心に両側合わせて30kmくらい残っています。道路が復旧する見込みはないから峠にテントを張ってベースキャンプにして往復する。それは今年はもうできませんから来年にと考えているんです。車で行けるところからテント場まで荷揚げしてくれるサポーターが必要です」(横内さん)
今回の分水嶺踏査については決まった様式の報告書にまとめ、逐次データとして本部に送られています。踏査は昨年(2004N)4月から始まる予定でしたが、北海道支部では一足早く1月から開始しました。本部では今年9月までを踏査期間としていますが、北海道では終わりそうもありません。最終的には来年のゴールデンウイークまで延長することにしています。
思いもよらない困難に見舞われた中央分水嶺踏査ですが、登山家たちは喜々として話します。
「三国山に立ったとき、その眺望は、日本海に流れるところ、オホーツクに流れるところ、太平洋に流れるところと3つに分かれる。そのピークに立っているんだと思うと、ふつうの登山とはまたちがった感慨深いものがありました」(田島さん)
「やっぱりこういう機会でないとふつうの登山では行けないというか、行かないところに行けません。いつも登っている山をまったく別なところから見られますからね」(鈴木さん)
「一番つらかったのは、十勝岳の山頂で4時間、別な2班の到着をじっと待っていたことかな。4時間10分は新記録だ。」(新妻さん)
苦労は踏査だけではありません。その準備段階から始まっています。踏査は区間ごとにリーダーが決められ、あらゆる準備をします。林道がどこまで通っているのか、厳寒期にどこまで行けるのか、駐車スペースはあるか。エスケープ(避難)ルートは確保できるかなど。ほかに食料などの手配もあります。
「行きルート、帰りのルート、エスケープルートを探して、4回目に本番なんです」(新妻さん)
新妻さんを始め担当者はルート調査のために毎日のように車を走らせています。こうした積み重ねがあって初めて毎週末の踏査が行われてきたのです。
分水嶺踏査は踏査するメンバーだけで成り立っているわけではありません。その人たちを車で送迎する人も必要です。踏査では行きと帰りのルートの異なることが多く、そのメンバーが同じ車を運転して帰ってくることはできません。車を回送したり別な車が迎えに行くのです。またベースキャンプを設ければ、そこで待ち受ける人、食事の準備をする人などが必要で、そうしたサポートメンバーも本部に送る報告書に明記されます。
「自分は参加したいけれど歩く自信がない、しかし送ってあげるよと。そういう人に助けられて踏査の成功があるんです」(新妻さん)
「踏査の成功にはサポートの力が3割も4割もあると思います」(長谷川さん)
札幌市の畠山迪子さんもそんな1人です。登山は10代から始め、50数年というキャリアの持ち主です。昨年は分水嶺踏査に10回以上参加しましたが、今年に入って体力的にも難しい箇所が多くなったことから、主にサポートを担当しています。
「時間さえかければ歩けると思うんですが、遅れたりすると足を引っ張ります」
サポートとは具体的に次のような仕事です。
「たとえば朝3時に起きてご飯支度をして食べて、そこから山に入るときにはそこで見送りますけれど、そうでない場合は車で一緒に林道の入れるところまで入って見送ります。そのあとテントに戻ってきて片づけて、それから定時連絡を待って。計画表がありますので、地図を広げておいて、連絡が入れば地図に時間を書き込みます」
携帯電話の圏外でなかなか連絡が入らなかったり、通話できてもすぐに切れてしまうことがよくあります。そこであらかじめ帰りのルートに番号を付けて、イチといえば朝に見送ったところ、ニといえばその向こうの林道、サンといえば順調にいったので次の林道というように決めているそうです。
畠山さんはそうした連絡を受けて指示された場所まで車を走らせて待っています。
「雪の林道ですから恐ろしいこともありました。ハンドルがとられたり川に落ちるんではないかと思ったり。それなりのスリルがありました」
乗り慣れた自分の車ではありません。ときには他人のキャンピングカーを運転することもあります。しっかりした運転技術を持っていなければ務まらない役割です。
本隊が踏査している間には長いひまな時間があり、畠山さんは車の中で本を読んだり刺繍をしたり、フルートの練習などをしているそうです。
「下りてくるまで退屈することはないです。居眠りしたりで、とっても楽しいです」
そんな畠山さんの脳裏に焼き付いたシーンがありました。
「今金町のピリカスキー場の頂陵部にテントを張りましてね。1日目は天気が悪くて出られなかったんですけれども、2日目の朝5時50分くらいに3人が稜線の方に歩いて行きました。去年の台風でずいぶん木が傷んでいるんです。まだ朝焼けがおさまりきらない、まだ空がピンクに染まっている中を3人がスキーでスーッ、スーッと歩いて行くんです。なにか自然の中にスーッと吸収されていくような、なんともいえない、いい景色でした」
畠山さん本人はアルコールがまったくだめですが、目的をとげた人々がテントの中で飲んでいるときにはじつにいい顔をしているそうです。
「自分たちでなければできないことをやり遂げたという満足というんでしょうか。達成感と満足感ですね。実にいい顔をしてお酒を飲むものだなと、眺めております。ビールなんかを召し上がるとき、それぞれに日焼けして真っ黒になりながら、いい顔をして召し上がるなと」
日本山岳会ではほかの記念事業として支部単位での記念登山を予定しています。海外での登山が多いようですが、北海道支部ではサハリンでの中央分水嶺踏査を計画しています。
「私は宗谷岬から佐多岬ではなく、サハリンから台湾までが中央分水嶺だと言っている。宗谷岬からその先の延長線上を歩いてみたい。そんな気持ちで計画しているんです」(新妻さん)
雪の残る来年(2006年)の3月ごろ、サハリン行きを実現させようという計画が練られています。
踏査では国土地理院の地図を使いましたが、林道が消えていたり、新しい林道ができていたり、送電線がなくなっていたり、新しい送電線が走っていたりと地図とはちがう部分がかなりありました。
また稜線上のポイントではGPSの座標を記録しました。日本では測量法の改正で明治から続くそれまでの表示に変わって世界測地系で表示することになりました。たとえば札幌が9mずれるなど、だいぶ違っているのです。踏査で得られたデータはまとめて国土地理院に提出し、現代社会に必要不可欠な正確な地図づくりに貢献することとなります。
踏査の報告書は本部でまとめられますが、北海道支部では感想文を中心としたユニークな文集を作成する予定です。
登山ルートといった従来のものとはまったく異なる、まさに未踏の地の調査結果です。また日帰り踏査が多かったことから、それぞれの地域から分水嶺に至り、そして帰ってくるというきめ細かなたくさんのルートが作られたことになります。それもGPSやパソコンなど最新技術を最大限に利用したデータです。今回の踏査ではこうした財産を後世に残すことにもなります。
「やっているうちにおもしろみが出てきました。今までは山というのはちゃんとしたルートがあって頂上までいく夏山中心にやってきました。ところがまったくルートのない山というのは冬しか登れないわけです。しかもGPSと地図、コンパスを頼りに、自分なりに考えて判断しなければならない。今までのルートが引かれている山とちがって新しい発見というか、これは大きかったですね」(海川さん)
「冬にはどこの山にも行けるんだなと思いました。ガイドをやっていますが、分水嶺踏査で冬のバリエーションができました」(横内さん)
「踏査のおもしろさが分かったリーダーが10人成長してくれればと思います。今のところ5人くらいは任せられる人が出てきました」(新妻さん)
名山に登るだけでない、身近な山に登り身近な自然を知ろうという気風が最近起こり始めています。今回の踏査はそんな時代を先取りする試みだったとも言えるのです。
[社団法人日本山岳会] http://www.jac.or.jp/