ウェブマガジン カムイミンタラ

2005年05月号/ウェブマガジン第3号 (通巻123号)  [ずいそう]    

フォスコ・マライーニ氏を悼む
高澤 光雄 (たかざわみつお ・ 日本山書の会幹事)

伸  版画:宝賀寿子
伸  版画:宝賀寿子

イタリアのフォスコ・マライーニ氏は、1938年から3年余りを北大医学部解剖学講座・児玉作左衛門教授のもとで、留学生としてアイヌ民族の研究のかたわら、登山に没頭した。

北大山岳部員10人が冬季未踏のペテガリ岳を目指し、1940年1月5日、コイカクシュ札内沢で雪崩に遭遇、8人が埋没死するという痛ましい惨事を惹き起こした。マライーニ氏はこのパーティーに参加する予定であったが、娘が発熱し、2日遅れて出発。一行とは出会えず、コイカクシュサツナイ岳への登りは無理だと判断して引き返した。

マライーニ氏は山岳雑誌で、モンブラン頂上でイグルーで1週間過ごした記事や、器用な人ならイグルーを短時間で作れるのを思い出し、自宅の庭で実験を重ね、1940年冬に手稲山、芦別岳、十勝岳と実際にイグルーを作って報道陣に公開した。留学中には白老、二風谷、美幌などを訪れ、アイヌの踊りなど貴重な風俗写真を撮影。2年後に論文「アイヌのイクパスィ(ひげべら)」を発表している。

1941年3月、京都大学イタリア語科の講師となり、戦時中は名古屋郊外で軟禁、終戦とともにイタリアに帰国した。1958年にガッシャプルムIV峰遠征隊に参加。翌年、ヒンズクーシュのサラグラール峰の遠征隊長を務め、初登頂に導いた。

1972年の札幌オリンピックでは、選手役員として来日した。植田木材工業(株)の植田英次社長とは学生時代から昵懇の中だったので、現在の(株)りんゆう観光社屋ビル隣の社員寮に宿泊され、私はそこに何回かアイヌ関係の本をお届けしたことがあった。

2002年4月から6月にかけて、北海道立文学館で「フォスコ・マライーニ写真展-東洋への道-」が催され、日本山岳会北海道支部で後援した。

2004年6月7日、フィレンツェの病院で91歳の生涯を閉じられた。

生前のマライーニ氏を思い浮かべるたび、北海道の冬山登山にイグルーをもたらした功績の大きさを思わずにはいられない。

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