ウェブマガジン カムイミンタラ

2005年07月号/ウェブマガジン第4号 (通巻124号)  [特集]    

ドクさん こんにちは
 ―札幌、釧路、函館・・・ 北海道交流記

  「ベトちゃんドクちゃん」で知られるベトナムのグエン・ドクさん(24)が初めて北海道を訪れ、札幌、釧路、函館などで9日間にわたって市民と交流し、観光を楽しみました。8歳のときに分離手術を行い、その後の手術を経てすっかり自立した生活を送っているドクさん。その青年らしい活動的な姿が多くの人々に新たな感動を与えました。
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イメージ(新千歳空港での歓迎)
新千歳空港での歓迎


ある女性がつぶやきました。
「私、ドクさんを見ていると胸が締め付けられてどうしようもないんですよ」
 この思いはドクさんを知る人々に共通するものだったにちがいありません。片足が付け根からまったくなく、松葉杖または車いすを使っています。同情、不憫、そして健気。彼の生い立ち、分離手術などの試練を知っていればみんなそんな感情に駆られるのです。

ところが新千歳空港に現れたドクさんは、松葉杖を使って人より先を歩いてきました。待ちかまえていた歓迎団はその速さにまず驚かされます。

そしてその後の9日間、人々はドクさんの青年らしい行動に目を見張ります。階段を駆け上がり、温泉では1時間も長湯をし、初めて見る雪の上では大はしゃぎ、サッカーボールを操り、ヘッドフォンステレオで音楽を楽しみ、大型電器店では時を忘れてパソコンや最新AV(オーディオビジュアル)機器の売り場を回る、それは元気な青年の姿そのものだったのです。

枯葉剤の悲劇

イメージ(手術前のベトちゃんドクちゃん 中村梧郎さん撮影)
手術前のベトちゃんドクちゃん 中村梧郎さん撮影

ドクさんはベトナム戦争が終わって6年後の1981年に兄のベトさんと一緒に誕生しました。いわゆる結合双生児で上半身はそれぞれ別なものの、下半身が1体分しかなく、2本の脚が横から出てました。

しかし1988年にベトさんが意識不明の重体となり、そのままでは2人とも命が危険なため、分離手術を決行されます。12時間を超える難手術に耐え、2人は無事に分離されました。その後日本の協力もあって弟のドクさんは手術を経ながらも順調に成長し、自立した生活が送れるようになりましたが、ベトさんは寝たきりの生活が続いています。

「ベトちゃんドクちゃん」だけでなくベトナムでは戦争が終わっても奇形児が次々に生まれました。またベトナムから帰還したアメリカ兵の子どもにも奇形児が生まれます。

その原因とされているのが戦争時に航空機からばらまかれた枯葉剤です。アメリカ軍によるベトナムでの枯葉剤の散布は1961年に始まり、1971年まで続きました。解放勢力が潜むジャングルや田畑を枯れ果てさせ、潜伏も食料生産もできない死の大地にしていったのです。

そしてその枯葉剤に不純物として含まれていたのが猛毒のダイオキシン類でした。生物を死滅させる強い急性毒性のほか、生物の染色体を変え、その子孫たちに奇形をもたらしました。

ドクさんがつとめるツーズー病院は、ベッド数1400というベトナム南部で最大の産婦人科病院ですが、今でも1%の奇形児が生まれているそうです。出産前に検査をして、問題がある場合は生まないそうなので、現実の割合はずっと多いと考えられています。枯葉剤を浴びた世代の孫の世代になっても、悲劇は続いているのです。

歓迎また歓迎・・・

イメージ(青木知事室長と懇談)
青木知事室長と懇談

2005年6月9日午後1時過ぎ、ドクさん一行は新千歳空港の国際線到着口に姿を現しました。ツーズー病院のチュイ副院長、そして通訳として旅行会社サイゴンエクスプレス社長のオアンさんが一緒でした。

今回のドクさん一行の訪日・来道は「平和と教育を考えるツアー連絡会」(鴫谷=しぎたに=節夫会長)の「ベトナム解放30周年」企画として実現しました。この会は教職員などで構成され、ベトナムなど世界各地で平和を考えるツアーを実施しており、ツーズー病院も訪れたことがあります。

イメージ(高橋知事と握手)
高橋知事と握手

空港での歓迎セレモニーのあと、一行は北海道庁に向かいます。応対したのは青木次郎知事室長でしたが、帰るときに高橋はるみ知事が現れ、ドクさんたちと握手を交わしました。次に訪れた札幌市役所では上田文雄市長が議会開催中にもかかわらず時間をさいて懇談しました。夕方には病院での交流会もありました。

この日ドクさん一行がホーチミン市の空港を大韓航空機で飛び立ったのが夜中の0時40分でした。約5時間の飛行でしたが、ベトナムと日韓との時差が2時間あるため、午前8時ごろソウル(仁川)空港に到着、10時過ぎにまた大韓航空機に乗り込み、午後1時ごろ新千歳空港到着、歓迎セレモニー、道庁、市役所を回るというというスケジュールでした。

イメージ(上田札幌市長と懇談)
上田札幌市長と懇談

直行便のある日本の航空会社を使えば楽なようですが、成田や関西空港で税関を通るため、手続きや荷物のチェックを受けて国内線へと荷物を自分で運ばなければなりません。その点ソウル乗り継ぎだと、その煩わしさがありません。ただし航空機での夜間移動、乗り換え、そして休む間もない表敬訪問、交流会というハードな1日になってしまいました。

学生など道民3000人以上が直接交流

その後の日程も過密でした。ドクさんたちの来道が新聞などで報道されたあと、事務局の旅システムには、ぜひうちに招きたいという電話が殺到し、途中からすべて断らざるを得ない状態になってしまいました。またいったん予定に入れ途中でキャンセルしたところも出ました。肉体的な疲れはもちろんですが、知事、市長、そして各界の重鎮といった人々との連日の対面で精神的な疲れも大きかったようです。

イメージ(伊東釧路市長と懇談)
伊東釧路市長と懇談

2日目(6月10日)はスーパーおおぞら3号で釧路へ。前日からの寝不足でドクさんは車内でぐっすり寝込んでいました。伊東良孝釧路市長を表敬訪問した後、ベトナムからたくさん研修生が来ている釧路コールマイン(旧太平洋炭鉱)を訪問、夜は歓迎レセプションがありました。

3日目(11日)には250人が参加した「ベトナム解放30周年 市民交流集会」。若者の発言も多く、集会終了後にはすっかりうち解けた雰囲気に。厚岸町での昼食のあと、自衛隊の別海町矢臼別演習場の中で牧場経営を続けている川瀬氾二さん宅も訪問しました。宿泊は中標津町養老牛温泉「ホテル大一」で露天風呂が大好きなドクさんは1時間も長湯をしたそうです。

4日目(12日)は早朝の便で中標津空港から札幌丘珠空港に。午後1時からの歓迎レセプションでしたが、ドクさんはホテルの部屋で寝過ごしてしました。次の医者や看護師を目指す若者との交流会「ドクさんと語ろう」では同世代同士とあってリラックスムード。通訳をつとめたオアンさんが専門職でないため、語り合うまでには至りませんでしたが、看護学生の手話付きコーラスなどもあって和やかな雰囲気の交流会となりました。

イメージ(北星学園大学附属高校)
北星学園大学附属高校

またこの日はYOSAKOIソーラン祭りの最終日。高橋知事のはからいでファイナルコンテストの観覧席券を入手しましたが、まだ夕食前で、翌日早いということもあり3チームの演舞を観ただけでした。

5日目(13日)は朝9時から北星学園大学付属高校を訪問、婦人の会との交流、夕方の「ベトナム解放30周年 市民交流会」(約300人参加)と続きました。その合間に札幌の観光やショッピングを楽しみました。雪が見たいというリクエストに札幌近郊の山に。黒ずんだ雪でしたが、みんなではしゃぎまくり、満足した様子でした。

イメージ(札幌市民交流会)
札幌市民交流会

6日目(14日)は病院での見学と交流会、札幌弁護士会表敬訪問、そして札幌聖心女子学院での交流会と続きました。中高一貫校の女子校であるこの学校では交流会の前にビデオなどで現在に残る枯葉剤の影響などについて学習しており、ベトナムの歴史やドクさんたちの現状をよく理解している様子でした。

イメージ(札幌聖心女子学園)
札幌聖心女子学園

7日目(15日)にはスーパー北斗10号で函館入り。井上博司市長を表敬訪問し、夕方には交流会の「はこだて歓迎と交流の夕べ」(約300人参加)。たまたまベトナムから函館に来ていた幼稚園の先生たちと一緒にのぞみ、コーラスや郷土芸能の披露といった彩りも添えられました。

イメージ(井上函館市長と)
井上函館市長と

8日目(16日)には金森倉庫など函館市内観光をしてから大型電機店の函館店へ。チュイ副院長はミニコンポを買いました。宿泊先の洞爺湖温泉では地元の人たちによる歓迎レセプションの計画をしていたようですが、最後の夜を静かに過ごしてもらおうと取りやめに。ホテル天翔のはからいで最高級の部屋に宿泊し、名物の花火もゆったり見ることができました。

いよいよ最終日(17日)。朝、ホテルの隣でサッカーに興じました。このあとクマ牧場や昭和新山などを観光して、新千歳空港へ。韓国そしてベトナムへと向かいました。

イメージ(はこだて歓迎と交流の夕べ)
はこだて歓迎と交流の夕べ

こうして各地であたたかい歓迎を受け、9日間の日程は終了しましたが、交流会、歓迎会などでドクさんたちと接した人々は3,000人以上に上り、特に学生など次の世界を担うたくさんの若者たちとの出合いがありました。

またツーズー病院の運営に役立ようと募金が呼びかけられ、その合計は522,679円にもなりました。新聞、放送などのマスコミもドクさん一行の来道を好意的に取り上げ、ニュースで知った市民から街で声をかけられることもたびたびでした。

戦争後の悲劇がテレビ番組に

ベトナムの枯れ葉剤被害の現状についてはドクさん来道の前月、5月15日に2時間枠の「ザ・スクープスペシャル」(テレビ朝日系)で報道されたばかりでした。2部構成で第1部が枯葉剤の影響の今を取材した「ベトナム戦争終結から30年~枯れ葉剤がベトナムに残したもの~」、第2部が劣化ウランに焦点を当てた「イラクでベトナムの悪夢再び!?~検証!恐怖の劣化ウラン弾~」でした。

第1部ではベトナム戦争の悲劇とその後を追い続けてきた報道写真家の中村梧郎さんがベトナム各地を訪ねてレポートしていきます。

画面にはドクさんが仕事やサッカーをしている様子が現れます。ただし目が見えず口もきけず寝たきり状態の兄のベトさん、そしてツーズー病院内の「平和の村」で暮らしているほかの多くの枯葉剤被害者たちの姿も次々に映し出されるのです。

番組はアメリカでも取材しています。アメリカ政府は1993年に枯葉剤被爆の事実を認めました。その補償金を受けたのはベトナム帰還兵の12%以上に当たる37万人以上に上っているといいます。その一方でベトナム人被爆者については謝罪や補償を一切行わず、損害賠償の訴えも却下されました。

番組ではもう一つ日本人にとって衝撃的な史実も明らかにします。アメリカ軍による枯葉剤作戦は、じつは太平洋戦争時に日本に対して行われる計画だったということです。このことは中村梧郎さんの著書「母は枯葉剤を浴びた」(1983年 新潮文庫)でもすでに指摘されています。

「デニス・ウォーナーが著した『神風』によれば、第二次世界大戦の終わる3ヵ月前の1945年5月には、日本の本州南部と四国の稲作地帯に、1644トンの24DをB29爆撃機で散布する大作戦が練りあげられていたのであった。しかしアメリカは『原爆によって日本にトドメをさす』ほうを選択する。そして日本の降服。対日化学戦は計画のまま立ち消えとなり、ベトナム戦争までの15年間、じっと楽屋口で待つものとなった」(「母は枯葉剤を浴びた」より)

24Dとはベトナムにまかれた枯葉剤245Tなどとともに兵器として開発されたものでした。

番組でもアメリカ陸軍生物化学研究所の担当者からこんな証言を引き出します。「空軍は原爆を使いたかったのです。もし11月まで戦争が続いていたらたぶん日本に枯葉剤が使われてたでしょう」

自分は幸せですが・・・

各地の交流会ではなかなかスムーズな意見交換ができませんでしたが、だいたい次のようなやりとりがありました。

イメージ(医看学生との交流会)
医看学生との交流会

「ベトさんはどうしていますか? どう思いますか?」
 「(分離手術の前は)意見がちがうと大変でした。たとえば兄は外に遊びに行きたいのに私は寝ていたいなど。食べたい物もちがいます。離れて私は喜びましたが、半分さびしかったです。いま兄は見ることも話すこともできません。兄のところには毎日行っていますが、とてもかわいそうです」

「ベトナム戦争と枯葉剤をまいたアメリカをどう思いますか?」
 「ベトナム戦争ではたくさんのベトナム人が亡くなりました。でもベトナム人は自分の国を愛するために戦いました。強いアメリカを相手に、食べるものもなく、薬もない中で戦い、勝利しました。戦争が終わって30年が経って、ベトナムの多くの人々は貧困に苦しんでいます。また枯葉剤によって多くの子どもたちが苦しんでいます。アメリカ政府には責任とってもらいたい」

イメージ(札幌市民交流会で)
札幌市民交流会で

「日本をどう思いますか?」
 「ベトナム戦争の時に日本の人々は戦争に反対しました。私は日本の政府や人々からたくさんの援助を受けて働けるようになりました。今回で来日は16回目です。大阪で1年ほど勉強したこともあります。日本は2番目のふるさとです。日本の人々とは長い友だちでいたいと思っています」

「日本の私たちに望むことはなんですか?」
 「私は元気になりましたが枯葉剤被害に苦しんでいる人々がたくさんいます。その人たちを忘れないでください。援助してください」

「平和についてどう思いますか?」
 「いまアメリカはイラクでも戦争をしています。戦争はすぐにやめてください。どこの国も戦争のない平和の国になってほしい」

「ドクさんはいま幸せですか? 仕事はつらくありませんか?」
 「私は枯葉剤で病気になりましたが、幸せだと思います。学校に通えて勉強ができ、仕事もできます。仕事は好きです。私は病院内を毎日たくさん歩きます。地下や2階、3階と行き来しています。脚のない子どもは義足をつけて練習し、学校にも通うことができます。でも脳がやられると学校へも行けません。」

強い心を見習いたい

札幌聖心女子学院では交流会のあと生徒たちに感想文を書いてもらいました。以下はその一例です。

イメージ(札幌聖心女子学園で)
札幌聖心女子学園で

「私達は戦争を知らない世代であり、今も危険に直面することも『平和』について考えることも少なかったと思います。しかし枯葉剤は日本に使われていたかも知れないとを知り、ドクさんをはじめとする被害者の方々の立場に自分もなっていたかと思うと、人事とは思えず、少し怖くもなりました。ドクさんは『自分は幸せだ』と言っていましたが、もし自分がドクさんだったら自分は幸せだと簡単に割り切ることはできないでしょうし、今の自分がどれだけ幸せなんだろうかと考えさせられました」(高校1年)

「戦争は終わったけれど、あんなにたくさんの人がまだ苦しんでいるとは知りませんでした。戦争とは直接関係のない人が今も病気と闘っているということに心を打たれたし、両親が健康な人でもおじいちゃんからの遺伝で病気になっている人もいて本当にかわいそうだと思った。もっと医学が進歩してかわいそうな人々を一刻も早く助けてあげてほしいです。いろいろな人のお話をお聞きして、もし機会があればベトナムに行ってみたいと思います」(高校2年)

「もし枯葉剤が日本に落ちていたら、自分にも影響があったかもしれネいと思うとすごく恐くなりました。またドクさんが自分の事を不幸に思わないと言った時は、本当に強くてすごい人だなと感じました。もし私が同じ立場だったら絶対に自分は不幸だと思うと思います。ドクさんのような強い心を見習っていきたいなと思いました」(高校3年)

感動をありがとう!

今回の事務局を担った旅システム社長の内山博さんは次のように話します。

イメージ(内山社長)
内山社長

「戦争が終わって30年経っても戦争の傷跡はずっと残り、それも戦争を知らない世代の人にまで影響を与え続けています。ドクさんたちに直接会った人たちが3,000人を超え、また新聞、テレビなどで多くの道民にそのことを知っていただけたことが一番の成果でした。
 日本でも戦争が終わってちょうど60年です。また世界では悲惨な戦争がまだ続いています。歴史と現在の姿を見つめ、平和を考えるチャンスを与えてもらいました。
 またベトナムという国を道民に広く紹介できたということ。これも国際交流の観点から大きな成果でした」

主催者代表として鴫谷会長はこんな感想を述べています。

イメージ(鴫谷さん)
鴫谷さん

「多くの人が元気をもらったという言い方をしていましたが、私もドクちゃんがああいう体で生まれて分離手術が成功して、立派に青年に成長した、その生命力の偉大さ、医学のすばらしさに感動しました。
 戦争やその後遺症への怒りはありますが、枯葉剤の後遺症を克服している生命力、ベトナム人の力強さ、さらに広くいえば人類の英知、生命力が感動を呼び起こしたのだと思います」

ベトナム戦争が終わって6年後に生まれた「ベトちゃんドクちゃん」は戦争の悲惨だけでなく、戦争が後々まで引きずる悲劇をまざまざと見せつけるものでした。そして今、現在もアメリカ軍の劣化ウラン弾使用などで、憎むべき悲劇が繰り返されようとしています。ドクさんたちはそんな現実を私たちに訴えかけました。

24歳になったドクさんは、ハンディを持ちながらも前向きに生きる、力強くて謙虚な青年でした。その姿は私たちの生きる力を呼び覚まし、新たな勇気を与えてくれました。ドクさん、長い9日間お疲れさま。感動をありがとう。


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