この6月14日の演奏会で、東京で続けていた「植田克己ベートーヴェンシリーズ」の幕を閉じた。ウィーンの寵児と持て囃された20代前半から晩年に至るまで、ベートーヴェンが生涯に亘って作曲したピアノのための作品は、32曲のピアノソナタを初めとして、20曲を越える変奏曲や3つの小曲集や小品など膨大な数に上る。しかし合奏も大好きな私としては、それだけに留まることなく、ヴァイオリンやチェロなど他の楽器との室内楽作品、連弾曲や主要な声楽曲も加えて、結局このシリーズ計27回を終えるのに20年を要した。私が扱った分だけでも2100ページを悠に越える。
当初ベートーヴェンがモーツァルトやハイドンなどの大先輩たちの後を辿ってどのような道を歩み、考え、その体験から発想したことをどのように楽譜に記したかを、自分なりに追ってみたいという素朴な考えから出発したが、彼がまるで音楽を岩石に切り刻むような思いで作曲しつづけたのだと感じるようになるまで、さほどの時間はかからなかった。
確かに彼について度々言われる難聴のこと、薄幸な家庭的な面など、個人的な、あるいは目前の問題を乗り越えようとするのも、大きな力になったに違いない。
しかしベートーヴェンはひたすらに人間の善意と品性を信じて、音楽の偉大さと可能性を追求し世に問い続けて、一生を駆け抜けた。旧体制の中、貴族たちの庇護の下にありながらその人たちにおもねることなく、現代でも聴衆を震撼させるような革新的な内容と、スケールの巨大化を次々とやってのける能力には驚くばかりである。
不屈の闘志の持ち主というイメージが前面に押し出されてしまいがちだし、多くの作品には技術面でも精神集中の面でも、実際の演奏表現に困難さをもたらす要素がたくさん盛り込まれている。しかしその背後にある愛情豊かな、あるいは晩年に至っては、次第に宇宙に解き放たれるようにすら感じられる音楽の数々。古今無双の大ピアニストで、新音楽の旗手の一人だったフランツ・リストは、その作風を三期に分けて「青年」、「巨匠」、「神」と評した。
尊敬する先輩や友人たちの協力を戴きながら、多くの方々に崇高な音楽を聴いて頂けた幸せを、今噛み締めている。また社会意識の変革すら齎したといわれるその意味も、改めて考えさせられている。
またその中で、子供の頃にクラシック音楽好きの父が集めていたシュナーベルの弾くSPレコードを聴いて、その力強い音楽の存在を知り始めたことや、ケンプが東京で行なっていたソナタの全曲連続演奏の模様を、北の地で譜面と共にラジオで聴いたことなどの原体験がめぐり巡って、今回の一応の終結を導いてくれたのだと、今更ながらに思い起こされる事である。