りんゆう観光のビルの垂れ幕を初めて見たとき、まず目に入ったのが向かって右がわの「森は海の恋人 (牡蠣の森を慕う会)」。なかなかいいこと言うではないか、と思った。こんな短い文で宇宙のすべての相互依存が語られているのだから。しかも、それを恋すること、つまりひとつの存在が他の存在を求めること、として表現している。
つぎに、となりの垂れ幕に目が移った。読み始めからわくわくした。あの与謝野晶子の「君死にたまうことなかれ」をもじって「小泉純一郎総理大臣 君、死なせたもうことなかれ 与謝名 阿寒 (鳥目の会)」と書いてある。もういちど読んでみる。ほんとうにこんなことばが札幌のビルにどうどうと掲げられているとは信じがたくて確かめたかったのだろう。
この反応は過剰であり、常識的でもある。「言論の自由」についてよく思うのだが、国家の法律によって守られたことばにどれだけの効力、ぎゃくに言えば危険性がありうるのか。そもそも、ことばはことばにすぎない。武器だといっても文字どおりの武器ではない。しかし、この特殊な武器の力を恐れて言論はしばしば弾圧されてきた。
昭和天皇が倒れたとき、在日の詩人・宗秋月さんが『哀のパラドックス』という詩を、『朝日ジャーナル』に寄せた。宗さんはこのなかで、やはりあの晶子のことばを受けて、「君、死にたまうことなかれ、いましばし」のフレーズをくり返している。天皇がほんとうにひとりの人間になることを求めた、痛烈な内容の詩であった。当時もすごいと思ったが、今はもっとそう思う。ジャーナルも勇気があった。
近年はあまりにもみんなが気を付けて、思ったことを言わなくなっている。すると自分がほんとうになにを考えているのかもわからなくなる。それだけではなく、自己検閲には歯止めがない。沈黙に行きつくしかないだろう。そうしたら、沈黙が咎(とが)とされ、特定の言葉を発することが強要されるだろう。それは忠誠を誓う言葉になることが多い。
アメリカの状況もたいして違わない。私が大学院生だった1970年代の後半でさえも、まだ1960年代の公民権運動、反戦運動の余韻があって、教授の研究室のドアにはいろいろな記事や風刺漫画が貼ってあった。今は極めて整然として、ビズネスライクである。研究者の客観性を訴えているのでもあろう。
客観性は大事だ。だけど客観性は無判断を意味しない。民主主義社会では市民ひとりひとりができるかぎり情勢について学び、客観的に判断し、慎重に(手段と相手を考慮したうえで)表現しなければならない。また、表現する自由をつねに主張しなければ、その自由も知らず知らず消えてしまう。
だから、りんゆう観光社屋の垂れ幕にあれほど感激するのは、実は悲しいことなのだ。でもすぐ付け加えなければならない。だからこそ、勇気をふるって表現することが大事なのだ、と。
「与謝名 阿寒」というウィットもすばらしい。真剣なことを伝えたいとき、ユーモアはなによりの味方だ。
真剣な話といえば、最初の垂れ幕「森は海の恋人」も、同じく真剣な話なのだ。わたしたちが馴染み親しんでいる地球を死なせるかどうかの話であるのだから。