ウェブマガジン カムイミンタラ

2006年01月号/ウェブマガジン第7号 (通巻127号)  [ずいそう]    

決意 -2005年10月3日意見陳述-
竹村 泰子 (たけむら やすこ ・ イラク派兵差し止め北海道訴訟第二次提訴 原告)

サトイモ家族 版画:宝賀寿子
サトイモ家族 版画:宝賀寿子

国連平和維持活動法(PKO協力法 1992年成立)の時、牛歩戦術で採決を引き延ばしたり、連続徹夜国会で抵抗したのは、この法律が成立すると実質上自衛隊が海外へ行くことが可能になるからでした。そして、私たちが愛する人々の血と涙であがない取ったこの憲法に保障された平和を、おろそかにできないからでした。

よく現在の憲法は占領軍によって押し付けられたものだと言われますが、戦争放棄のルーツは1928年に締結されたパリ不戦条約にあります。同条約は第一条に「国際紛争解決のための戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名に於いて厳粛に宣言す」とあり、日本をはじめ15カ国が批准しています。従って日本だけではなく、フィリピン憲法には「国策遂行の手段としての戦争を放棄」とあるし、イタリア、ハンガリー、さらにアゼルバイジャンにも似た表現があります。

1945年に調印された国連憲章にも「武力による威嚇または武力の行使を慎む」とあり、不戦条約の精神が活かされています。

こうしてみると9条1項の内容は、「国際基準」といえるのではないでしょうか。日本国憲法は、第二次世界大戦が終わり、世界の国々が本当に平和を求める気持ちが強い時に、日本やドイツなどの敗戦国の不戦の誓いを、いわば代弁して創られ、世界の平和主義の思想がよく表れています。

1992年、自衛隊はPKO協力法に基づいてカンボジアへ。1996年、日米安保共同宣言。1999年には、周辺事態法により日本周辺地域での米軍支援が可能になりました。この時、小渕恵三首相は対米支援の範囲について、「中東とか、インド洋とか、地球の裏側まで考えられない」と国会で答弁しています。そして2001年、テロ特措法を作り、インド洋に海上自衛隊を派遣することに。自衛隊の海外活動は、この時、「戦場」に拡がったのです。

憲法は前文では「平和のうちに生きる権利」を規定しています。平和の中で生きることを人権として位置づけています。かつて我が国は、アジア太平洋戦争など相次ぐ戦禍を経験しました。多くの犠牲を払って学んだのは、国は必ずしも国民を守るとは限らないという事実であります。

箕輪登さんをはじめ、他の原告の皆さんとともに、信念をもってこの裁判を闘い抜きたいと思います。

最後に、第二次世界大戦時、ドイツで牧師をしていたニーメラーの詩をご紹介します。

ナチが共産主義者を襲った時、
 自分はやや不安になった。
 けれども結局、自分は共産主義者ではなかったので、
 なにもしなかった。

それからナチは、社会主義者を攻撃した。
 自分の不安は、やや増大した。
 けれども依然として自分は社会主義者ではなかったので、
 やはり何もしなかった。

それから学校が、新聞が、ユダヤ教徒が、というふうに、
 次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安が増したが、
 なおも何事も行わなかった。

さて、それからナチは教会を攻撃した。
 自分はまさに教会の人間であった。
 そこで、自分は何事かをした。
 しかし、その時には、すでに手遅れだった。

1933年から1939年まで、ニーメラーよ、
 お前はどこにいたのか!

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