2006年2月27日、午後1時過ぎ、その裁判(第10回口頭弁論)は始まりました。裁判長の「お名前は?」という質問に「箕輪登でございます」と答えます。しわがれた、体全体から絞り出すような声です。「ご住所は?」「小樽市花園町…」
車椅子に座ったままで、しかも医師が付き添っての意見陳述。しかしこの陳述は2回の休憩を挟んで延々3時間近くに及びました。口調はたどたどしくも、その内容は整然とし、迫力に満ちています。原告団や傍聴席の全部を埋めた一般の人たちが、その1つ1つの言葉を聞き漏らすまいと耳を立て、心に刻んでいきます。そして発言に圧倒されるように、居並んだ被告である国側からの反対尋問はまったくありませんでした…。
これより2年ほど前の2003年12月、札幌弁護士会が開設している法律相談センターに1本の電話がかかりました。元国会議員の箕輪登だと名のり、イラク派兵で訴訟を起こしたいといいます。半信半疑で申し出を受けてはみたものの、人物が人物で、しかもことがことだけに弁護士1人の手に負えることではありません。弁護士会の理事たちで応対することにしました。札幌弁護士会館を訪れた箕輪さんを伊藤誠一会長と4人の副会長が迎えました。
「自衛隊のイラク派遣は憲法9条と自衛隊法に違反するので、これを止めるための訴訟を提起したい。自衛隊員が殺人をせず、早く引き返せるように頑張りたいので協力して欲しい」
箕輪さんの熱心な話に理事者たちは全面協力を決意します。というのも札幌弁護士会では世界的な批判を無視して米英などが始めたイラク戦争そのものに異議を唱え、またイラクに自衛隊を派遣するための「イラク特措法」(イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法)にも反対姿勢を明確にし、会長声明という形でアピールしていたからです。ただし弁護士が全員加入する弁護士会として対応することはできないため、若手中心に有志を募って協力し、その事務局を佐藤博文さん(北海道合同法律事務所所属)が担当することになりました。
2004年1月28日、道内弁護士の4分の1に相当する104名もの代理人を連ねた「自衛隊イラク派兵差止訴訟」(PDF)が札幌地方裁判所に提起されます。その後、全国各地で同様の訴訟が次々に起こされました。自衛隊の海外派遣では92年のカンボジア、2001年のアフガニスタンの際に差止訴訟が提起されています。しかしすべて敗訴しており、イラクについてはその動きはまだありませんでした。箕輪さんの訴訟がその先陣を切ったのです。
箕輪さんは1924年(大正13年)に小樽市で生まれました。1942年、18歳のとき北海道大学医学部付属医学専門部(北大医専)に入学、3年後に卒業しました。医専とは戦時下で即戦力となる医師を短期間で育成するために設けられた教育機関です。45年3月に卒業した箕輪さんは陸軍軍医見習士官となり8月には少尉に任官しますが、すぐに終戦を迎えます。
復員して1年後には日本医療団寿都(すっつ)病院(のちの寿都町立病院)に外科医長として赴任、48年には寿都町に箕輪外科医院を開業しますが、52年には故郷の小樽市に箕輪外科医院を開業、55年には朝里療養所も開設します。
医者であり病院経営にも携わる箕輪さんですが、それだけでは終わりません。政治家を志したのです。しかし60年に無所属で衆議院選挙に打って出るも落選でした。そこで当時北海道開発庁長官だった佐藤栄作議員(64~72年首相)の秘書になるなどして準備を進め、67年の選挙で当選を果たします。42歳のときでした。
以降連続8期衆議院議員をつとめ、郵政大臣、自民党副幹事長のほか、防衛政務次官や日本戦略センター理事長など防衛族の一員として歩みます。8期目の1987年、自民党北海道支部連合会(道連)会長のときに北海道知事選挙が行われます。そこで推した候補が大差で敗北し、責任をとって道連会長を辞任、90年にはいさぎよく落選候補に衆議院の地盤を譲る形で23年にわたる議員生活を終えるのです。
箕輪さんはどうして訴訟に及んだのでしょうか。裁判が始まって間もない2004年4月に日本弁護士連合会(日弁連)憲法委員会委員や東京女子大非常勤講師もつとめる内田雅敏さんが小樽市内の箕輪さん宅を訪れて対談し、その内容を掲載した「憲法9条と専守防衛」(梨の木社)という本が6月に出版されました。
国会議員になって間もないころ憲法と自衛隊法との関係について箕輪さんは徹底的に勉強しました。何ごとにも筋を通さなければ気が済まない性格なのでしょう。結果は「自衛隊は違憲ではないけれども、武力行使はわが国が攻撃されたときの自衛のために限定されている」というものでした。以下は対談での箕輪さんの発言です。
「憲法9条で、武力行使を国際紛争解決のためには、永久に放棄するというふうになっています。ところがあるとき自衛隊法を読んでみたら、自衛隊法の88条ですが『自衛隊は、わが国を防衛するために必要な武力を行使することができる』と書いてあるんですね。一方で武力行使を放棄し、一方で武力行使を認めている。それから興味をもって猛勉強を始めたのです。自衛隊法作成の作業に従事した人から主として話を聞きました」
「76条で『わが国が攻撃を受けたときに、内閣総理大臣は衆参両院の賛成を得て防衛出動命令を出すことができる』と書いているんです。そのための準備で、87条ですが『その任務の遂行に必要な武器を保有することができる』と書いてあります。このときはじめて『ああ、なるほど』と、納得しました。憲法で武力行使は禁じているけど、自衛権の否定はしていなんだと。そのわずかな隙間で自衛隊を認めている。武器の保有を認めている。わずかな隙間で88条では武力行使ができるとしている」
内田さんによれば憲法9条の解釈には3つの学説があります。1つは自衛権も放棄している。2つ目は外交その他の手段でもって国家を守る権利、つまり自衛権はあるが、その武力の行使による自衛は認めない。3つ目が自衛権は否定されていないし、その裏づけとなる自衛戦力を否定するものではないというもの。箕輪さんの解釈はその3つ目に当たります。
「自衛隊、これは違憲だという意見もあることを知っていますけれど、僕は自衛権はあるのだと考えています。自衛隊は認めてやるべきだと。若い人たちが生命をかけて日本の国を守ろうとしているんです。これは志願制ですからね」
医療の専門家だった箕輪さんが政治家となり自衛隊法を猛勉強した結果が「自衛隊は違憲ではないけれども、武力行使はわが国が攻撃されたときの自衛のために限定されている」でした。自衛隊を統率する国家権力を握ってきた政府・自民党内でもその認識は長らく同じだったはずです。しかし箕輪さんが政界を引退した90年代になって自衛隊をめぐる環境は急激に変化していきます。訴訟は唐突でしたが、変わったのは為政者たちであって、箕輪さんの自衛隊に対する考え方は何らぶれていないのです。
1990年8月にイラク軍がクエートに侵攻。翌91年1月には米国を中心とした多国籍軍がイラクに武力行使を開始して湾岸戦争に突入。4月に停戦となりましたが、その後始末として海上自衛隊の掃海艇が機雷処理のためにペルシャ湾に派遣されました。箕輪さんが国会議員を引退するころで、掃海艇についてはずいぶん論議をしたそうです。
「自衛隊法99条にはこう書いています。海上自衛隊は長官の命を受け、海上における機雷その他の爆発物の除去及びこれらの処理を行うものとする。残念なことには掃海艇には武器を積んでいないということと、出動できる海域を書いてないのです」(対談より)
しかし箕輪さんはこうした自衛隊の派遣が『アリの一穴』となり、拡大していくことを懸念していました。そしてそれが現実味を増してくるのです。1992年にはPKO協力法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)が社会党や共産党による牛歩戦術での抵抗を受けながらも国会で可決成立、カンボジアに派遣されます。
隊員は拳銃や小銃だけを持たされて派遣されましたが、自衛隊員とともに派遣された日本の警察官、高田晴行警視が殺害され、次からは自衛隊のみの派遣となって機関銃を携帯し始めました。
そして99年には周辺事態法(周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律)が成立します。周辺事態とは日本の平和と安全を脅かす日本周辺での武力紛争などで、アメリカ軍の後方支援として自衛隊が協力するというもの。箕輪さんの危機感は高まり、ついにある行動をとらせます。国会議員に手紙を書いたのです。
「自民党の国会議員全員にです。そのころ日米安保条約の論議があって、新聞も賑わっていたころですからお出ししたんです。ところが返事をくれたのはわずかです。そのときに思ったんです。これは危ないなと。憲法9条はわりに勉強しているんですが、自衛隊法はその下にあって、自衛隊の行動規定は全部、自衛隊法に書かれています。だから自衛隊法を見ればよくわかるんですが、だれも見ていないんですね」(対談より)
2001年9月11日、アメリカで旅客機4機が乗っ取られ、ニューヨーク国際貿易センターの超高層ビルや国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突するという、同時多発テロが起こります。アメリカ政府はアルカイダの犯行として、それを保護していたタリバン政権のアフガニスタンですぐさま空爆を開始、日本ではその後方支援を目的にしたテロ対策特別措置法(平成十三年九月十一日の米国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国連憲章の目的達成のための諸外国の活動に対してわが国が実施する措置および関連する国連決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法)が成立しました。そして難民救済などの人道支援として自衛隊の航空機や艦船がアフガニスタン周辺に派遣されたのです。
2003年3月20日、イラクが大量破壊兵器を保有しているとしてアメリカ、イギリスを中心とした多国籍軍が攻撃を開始し、イラク戦争が始まりました。フランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対する中での開戦で、のちに大量破壊兵器はなかったことが明らかになります。開戦から約40日後の5月1日にはアメリカのブッシュ大統領が早々と戦闘終結宣言を行い、7月に日本の国会ではイラク特措法が成立するのです。
2004年1月に石破茂防衛庁長官が自衛隊に派遣命令を下し、3月には旭川の陸上自衛隊第2師団員を中心とした部隊がイラクのサマワに展開しました。それと重なるように1月に箕輪さんの自衛隊イラク派兵差止訴訟が札幌地裁に提起され、3月29日には第1回口頭弁論が行われました。
そんなさなか4月7日、イラクから衝撃的なニュースが飛び込んできます。今井紀明さん、高遠菜穂子さん、郡山総一郎さんの若者3人が誘拐されたのです。武装勢力にとらえられた3人の生々しい映像が中東の衛星テレビ局アルジャジーラで放映されました。このとき箕輪さんがとった行動が、「自分が代わりに人質になる」という申し出でした。新聞(北海道新聞)では次のように報道されています。
----------
元自民党衆院議員の箕輪登元郵政相(80)=小樽市在住=は14日までに、カタールの衛星テレビ・アルジャジーラに対し、イラクで人質となっている日本人の身代わりになる用意がある、とするメッセージを送った。
犯人グループにあてたもので、「私は元閣僚の1人で、自衛隊派遣という小泉純一郎首相の誤った政治選択に関して提訴中です」と自身を紹介したうえで、「あなた方が拘束した3人の日本人の代わりに人質になる覚悟があります」として、テレビ番組などでメッセージを流すよう求めている。
これについて箕輪氏は、「当面の問題は3人を助けることで、80歳になった私の命など惜しくはない。小泉首相ら政府関係者は、『テロ』という言葉を使うのはやめた方がいい。レジスタンスだと思っている彼らの神経を逆なでする」と話している。
----------
3人は4月14日に無事解放されましたが、5月にはフリージャーナリストの橋田信介さんと甥の小川功太郎さんが銃撃されて死亡、10月には旅行者としてイラク入りした香田証生(こうだしょうせい)さんが誘拐殺害されます。11月には日本の外交官、奥克彦参事官と井ノ上正盛三等書記官の乗った車が銃撃され、死亡しました。それにも増して戦争終結宣言もむなしく現地のイラク人や多国籍軍の兵士などがおびただしい犠牲者を生み出し続けています。
箕輪さんの提訴から1年2ヶ月後の2005年3月23日、札幌地裁に道内の元国会議員、文化人、学者、医者、企業経営者など32人を原告とするイラク派兵差止訴訟が提起されます(二次訴訟)。箕輪さんの子ども世代、孫世代といった幅広い年齢層でこの原告団は構成され、裁判は箕輪訴訟と併合され進められていきます。
二次原告の1人はかつての箕輪さんの印象をこう述べています。
「友人の結婚式で来賓としてあいさつしたのが箕輪さんでした。そのときは偉ぶっていて傲慢そうな代議士だという印象でした。こういう訴訟を起こすとはまったく思いもしませんでした」
しかし裁判に参加し、その発言を聞いたり著書を読んだりしているうちに受ける印象は大きく変わりました。
「豪放磊落(ごうほうらいらく)というんでしょうか。自分自身の思いを率直に示す人だったんだなと思います」
衆議院議員を1期、参議院議員を2期つとめた竹村泰子さん(社会党・護憲共同ののち民主党)も原告に加わりました。衆議院選挙時には同じ旧北海道1区の候補として争った間柄です。箕輪さんが訴訟を起こすと聞いたときは「えーっ、箕輪さんが」という感じだったそうです。
「もう、びっくりしました。最初は理解できなかったし、本気なのかと思いました。どうしても先入観がありましたから」
その竹村さんが原告団に加わるきっかけになったのはハーグで開催された国際会議のために書かれた箕輪さんの演説原稿を読んだことでした。
「そうか、そう考えていらっしゃるなら一緒にやっていいかなと思いました」
2004年11月、オランダ・ハーグの国際司法裁判所で『中東の正義と平和のための国際会議』が開かれました。当初箕輪さんが出席する予定でしたが体調不良で出席できず、二次原告の1人でもある坪井主悦(ちから)札幌学院大学教授が第4分科会「国連と国際法」で代読しました。要旨は次のようなものでした。
----------
私は、今度のアメリカのイラク戦争は、何の大義もない、アメリカの覇権的先制攻撃、すなわち、侵略戦争であると思っております。そのアメリカに加担する日本は、侵略戦争の「共犯者」であると思っております。
自衛隊法には、「自衛隊は、祖国日本の防衛のために行動せよ」と書いてありますが、「侵略戦争に加担せよ」とは書いてありません。日本国憲法は、すべての侵略戦争を固く禁じております。
みなさんの、イスラエルがパレスチナ人を隔離するために建設している「壁」の撤去について言えば、みなさんは、国際司法裁判所の「不法判決」という強力な‘武器’をもっています。イスラエルの不法な占領をやめさせることについて言えば、みなさんは、すでに、度重なる国連の「撤退決議」という強力な‘武器’をもっています。残された課題は、その‘武器’を使って、大きな、大きな国際世論を作り、「誤った権力」に圧力を与えることではないでしょうか。
私は、ピーターベッカー博士のペーパーや、本国際会議事務局の高橋のぞみ博士や天木直人前レバノン大使の情報から、わが日本も、イスラエルの不法な「壁」建設や、不法な占領に対して、ノーと言った国連加盟国の1つであることを知りました。私は、この事実を心に留めます。そして、日本政府に圧力を与えるという形で、みなさんの国際世論作りに加わりたいと思っております。
----------
国会議員を引退したあとはYWCA(キリスト教女子青年会)のボランティア活動を基本に置いている竹村さん。軍隊を持たない国家を理想としています。
「いまコスタリカが軍隊を持たない憲法をつくっていますよね。中米のややこしいところでそれが可能なんです。(軍隊を持たない国家は)絵空事ではなく可能なのだと思います。それにいま私が心を痛めているのは子どもたちのことです。教育基本法を変え憲法を変えて、どんどんきな臭い方に国は行こうとしています。生まれてくる新しい命、あるいは未来世代の命に私はどう責任を取れるんだろうか。それで裁判にもかかわろうと思いましたし、平和憲法を守りたいと思います」
箕輪さんの人となりについては、裁判で次第に明らかにされてきました。冒頭で紹介した2006年2月27日の第10回口頭弁論では、次のようなことが語られています。代理人の弁護士の「医者を志されたきっかけは?」という問いに箕輪さんが答えます。
「私の父親は全盲です。その父親が、大きくなったらおれのような弱者の役に立つ医者になれと。小学校に入ってから私のすぐ下の弟が死にました。重ねて父親から言われました。小樽市の手宮というところで生まれ育ったんですが、いわば当時の貧民窟(くつ)で、そこで父親はあんま業をやっていたんです。市内で名の通ったお医者さんを呼ぶんですけれども、めったに貧民窟には来ません。ほとんど呼んだ先生に来てもらったことがないんです。そして自分のところの先生の死亡診断書で亡くなりました。いいか、貧乏人の味方になるような医者になれと。それが頭にありましたので3年で医者になれる医学校ができたので受けたのであります」
その『貧民窟』には朝鮮人も住んでいました。箕輪さんはいじめられていた朝鮮人の娘をかばったことがありました。そのことを弁護士から聞かれます。
「僕が幼少のころ、向かいに小さい袋小路があって、その一番先端に朝鮮人がいたことは事実です。こら朝鮮、にんにく臭えとか、いじめられるんですよ。そのたびに、子どものころはけんかが強かったんで、止めに入ったんです。何も思い出さないんですが、僕が病院をやっているときに社会保険庁の監査がありました。ちっとも監査らしきことをしないんで変だなと思っていたら『箕輪さんの子どものときを思い出してください。向かい小路の雑品屋の娘を私の女房にしておりますが、何回か箕輪さんに助けられた話をいたしました。それで先生にお礼に今日来たんで、監査はこれで終わります』と、そう言って帰られたことがあるのは今でも思い出します」
二次原告の1人に日本共産党の衆議院議員だった児玉健次さんがいます。1986年に初当選し、1度落選したものの2003年11月まで4期つとめました。箕輪さんと旧北海道1区で2回争っています。箕輪さんが訴訟を起こすと聞いたとき、児玉さんは最初から一緒に闘いたいと思ったそうです。
「選挙で激しく議席を争う相手として、どんな方かはよく存じていました。旧北海道1区をずいぶん回りましたが、箕輪さんが最初に赴任した寿都では、今でも医師として尊敬している人がずいぶんおられました。私が一緒に裁判をすることになって、その人たちが喜んでくれています」
「2003年6氏Aイラク特措法案を審議する衆議院特別委員会で、福田康夫官房長官(当時)は、私の質問に対して法案の『安全確保支援活動』に米軍等がイラクで展開する『警備・警戒、偵察』への自衛隊の支援を『当然入ってくるだろう』と答弁しました。これには高度の危険性が伴います。イラク特措法の国会審議を行った者として、私には現在も重い責任があるのです。1人の自衛隊員も命を失ったり傷つくことなく、1人の自衛隊員も外国の人を殺すことなく、今のうちに待ち望んでいる家族のところに帰っていただくことが私の1番の願いです。その点では箕輪さんと完全に重なっているんです」
箕輪さんと児玉さんとでは思想信条が大きくちがっているはずですが、派兵に対する考えは完全に一致していると児玉さんは言います。そこに貫かれているのは深い人間愛なのでしょう。
自衛隊イラク派兵の準備が始まったころ、児玉さんの事務所に道内の自衛隊員から「専守防衛だから私は自衛官の道を選びました。イラク派兵に不安を感じます」と電話がありました。隊員だけでなく家族からなど数回がありました。
箕輪さんにも電話が来ています。
「現職の自衛隊員から、電話で激励を受けたことが2、3度あります。名前も言わないし、部隊の名前も言わない。そうでありますとか、何でありますとか、あの口調は自衛隊でなければ普通は使いませんから」(第10回口頭弁論より)
「何とかこの日本がいつまでも平和であって欲しい。平和的生存権を負った日本の年寄り1人が、やがては死んでいくでしょう。やがては死んでいくが、死んでもやっぱり日本の国がどうか平和で、働き者の国民で、幸せに暮らしてほしいなと。それだけが本当に私の願いでした」(同)
「80歳でも元気ならばいろいろやれるんでしょうが、そうではなくて、これだけはというのがこの訴訟だと、箕輪さんのお話を聞いていてよく分かりました。80年生きて語る言葉には重みがあります」
箕輪さんの言葉を重く受け止める1人が二次原告で箕輪さんの孫世代に当たる影山あさ子さんです。影山さんはアジア・アフリカ、ラテンアメリカ諸国との対等な関係と平和をめざして活動している北海道アジア・アフリカ・ラテンアメリカ(AALA)連帯委員会の専従職員。これまでアジアはもとより、アフリカ、南アメリカなど12ヵ国を訪れています。またイラクについては医薬品などを送って子どもたちを救おうというセイブ・イラク・チルドレン札幌の共同代表の1人でもあります。二次原告にと誘われたとき、名簿には元国会議員などがずらりと並んでいてかなり躊躇したそうです。
道AALAでは、創立40周年の平和活動として2005年に米軍基地がある韓国、沖縄、北海道別海町矢臼別の地元住民に取材したドキュメント映画「Marines Go Home」を企画制作し、全国各地で上映会を開いています。またこの4月には南米ベネズエラの代表団を招いての交流を行いました。
「訴訟だけではだめだと思っています。だから映画もつくるし、セイブ・チルドレンのようにイラクの人々と直接やりとりする活動もするし、街頭行動もします。訴訟はそうした人々を結びつける場所でもありますね。そして私は議員でもないので小泉さんに直接問う唯一の方法が裁判だと思っています」
弁護士たちの行動も広がりを見せています。全国各地で自衛隊のイラク派兵差止訴訟を起こしている原告代理弁護士たちは「全国弁護団」(事務局長 佐藤博文弁護士)を結成しました。
任務を終えて日本に帰国した自衛隊員に起きている異変。2006年3月には帰還自衛隊員のべ6600人のうち5人が自殺したとの報道がありました。異常な高率で自殺者が出たことになります。
そこで全国弁護団は派遣された自衛隊員や家族の悩みを電話で聞く「何でも相談110番」を4月14・15日に札幌など全国6カ所で行いました。また各政党に公開質問書(PDF)を送り、イラク戦争や自衛隊派遣に対する考えを問いました。
箕輪さんの願いを受け止めた人々のさまざまな活動が広がっています。
資料(PDFファイル100KB~350KB)
(1)箕輪登さん経歴
(2)自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟 一次訴状
(3)自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟 第10回口頭弁論(2006年2月27日)速記録全文(箕輪発言)
(4)「イラク戦争」および「自衛隊派遣」等に関する公開質問書
以下 2006年6月29日追加公開分
(5)自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟 第11回口頭弁論(2006年5月8日)
速記録全文(山田発言)
(6)イラク派遣自衛隊の装備 (2.34MB)
(7)5月8日証言要旨
(8)1990年代以降の日米安保関連年表
(9)山田 朗 経歴書
以下 2008年6月5日追加公開分
(10)箕輪家のお礼文書での故箕輪登さんの言葉(2006年5月17日 箕輪登さん葬儀にて)(HTMLページ)
(11)自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟・一審判決文
(12)自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟・判決に対する弁護団の見解
(13)自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟・判決に対する弁護団の見解・控訴申立にあたって原告団・弁護団コメント
(14)2008.4.17. 名古屋高裁 イラク派兵違憲判決・判決文
(15)名古屋高裁 イラク派兵違憲判決・声明 (168KB)