地面に接した雪山の下方から、ちょろちょろと快活な音を立てて雪解け水が流れ出す。何度巡ってきても、ふたたび喜びが湧く春の到来。雪の下から起き上がるクマザサは、生き物が身の内に備えている力を思い出させてくれる。
昨年、夫と二人で『グラヌール』(「落穂を拾う人」の意)という小さな季刊雑誌を始めた。映画『落穂拾い』(仏、2000年)からこの名前を付けた。アニエス・ヴァルダ監督のカメラは、農村で収穫後に作物を拾いに来る人、都会の市場で残り物の野菜を拾って食べる人……さまざまな「拾う人」の姿を捉えている。
この映画を観て、ふと、地面は誰のものなのか、問われている気がした。たとえば道。もう長いこと、私は道を歩く時に用なく立ち止まったり、落ちている不思議な物に手を伸ばしたりした記憶がない。子どもの頃はきれいな紅葉を時間の経つのを忘れて拾ったのに。いつの間にか、街で窮屈な振舞いしかできなくなってしまった。人目が気になるし、自分自身の心の声が、変わった行動は慎みなさいと注意する。考えてみればなんと不自由なことだろう。
今年3月以来、テレビのニュースは、フランス各地で起こっているCPE(若者雇用促進策)に抗議した学生や労働組合によるデモの様子を度々伝えている。思い思いに声を上げ、プラカードを掲げた人びとが道いっぱいに溢れている。街に出て自分たちの主張を意思表示する、これはとても基本的で、シンプルな手段であり、権利なのだ、と気づかされた。誰に憚ることはない、街路はそういう場所でもある。
春、雪に覆われていた地面が姿を現わす。散歩の時、少し目線を変えて地面に目を向ければ、思いがけない拾い物に出くわすかもしれない。窮屈なコートを脱いで少し気持ちを解放して、わたしたちの暮らす街をゆっくり歩いてみよう。
生まれ育った東京から札幌に移住して10年目に入った。北海道近辺はオオワシやアザラシが、もちろん国境線にお構いなく自由に行き来し、アムール河の氷が流氷になって流れつくところ。人間の尺度とは全く違うスケール(物差し)を持つおおきな島だ。私はここで、自分と地面との関係を捉え直しはじめている。