ウェブマガジン カムイミンタラ

2006年07月号/ウェブマガジン第10号 (通巻130号)  [特集]    

地域文化の交差点
ドラマシアターどもの25年

  JR江別駅前で「ドラマシアターども」(安念智康代表=57)が新たな門出を迎えました。25年前、野幌駅前で喫茶店として、また自分たちの劇団の稽古や発表の場としてスタートしたその空間は、演劇だけにとどまらず、音楽、お笑い、踊り、文学、絵画、写真などさまざまな芸術の交差点となってきました。移転のたびに新たな段階を切り開いてきたドラマシアターは、その最終段階を迎えたようです。
 [⇒ドラマシアターども]

JR江別駅前。札幌のベットダウンとしても人口を増やしてきた江別市ですが、顔であるはずのJR江別駅前は人影がまばらです。市内は江別地区、野幌地区、大麻地区に大別され、人口が多いのは野幌や大麻。江別地区はさびれ、過疎化が進む地方都市の中心街そのもののようです。

イメージ(どもIVの建物は1922年建設の私設郵便局)
どもIVの建物は1922年建設の私設郵便局

それでも碁盤の目に道路が切られ、通りには「平和通」「銀座」といった名前がつけられ、三階建ての商店も目立ち、「割烹」の看板を掲げた店もあります。商店街の向こうに見えるのは工場の高い煙突。王子製紙が隣接しているのです。かつてこの街は活気にあふれていたのでしょう。「ドラマシアターども」はそんな街の一角に4番目の居場所を見つけました。

巣立つアーティストたち

2006年4月15日、ドラマシアターどもIV(フォー)の門出を祝う会が開かれました。(以降ドラマシアターども=ども)

「300人も来てくれて、入りきれずに受付で帰っていったお客さんもいました。それも感激したけど、朝、俺たちが起きたら、若いのたちが、すっかりきれいにしていてね。ワックスがけも始めている。それに一番感動したね。だれかが命令しているわけじゃないんだけど、みんなが自分でやるクセがついていてね。俺と『がまちゃん』の2人だけの空間じゃなくて、自分たちの空間でもあると思ってくれているのが」

イメージ(どもさんとがまちゃん ドラマシアターの25年を築いてきました)
どもさんとがまちゃん ドラマシアターの25年を築いてきました

がまちゃんとは智康さんの妻で喫茶店を切り盛りし「劇団ドラマシアターども」の団員でもある優子さん。「がま」とは中学生のときに旧姓が水口だった優子さんが大きな赤いがま口をもっていたので付けられた愛称。「ども」は高校時代の智康さんの愛称です。みんなからは「どもさん」「がまちゃん」と呼ばれています。

祝う会はおおいに盛り上がり、どもIVにそのまま泊まった人も大勢いました。パーティに来たお客さんの車の誘導から、会場設営、料理の準備、そして食器洗いや清掃といった後かたづけを行ったのが、同じく泊まり込んでいた学生らの若者たちでした。

イメージ(喫茶店は交流の場)
喫茶店は交流の場

5月18日のこけら落とし興行は、酪農学園大学卒の落語家、林家卯三郎さん(36)の独演会。大学の落語研究会で活躍し、卒業後に獣医として岡山県に就職してからも毎年どもで落語会を開いていましたが、プロへの道があきらめきれず、4年で公務員を辞めて林家染丸師匠の門をたたきました。

「あと15年くらい苦労すると思うけど、可能性があるね。酪農学園大卒ではもう1人、桂紅雀というのもいるし。中学生のころからうちでサックスを吹いていた吉田野乃子という子に、アメリカに行け、アメリカに行けと何度も言っていたけど、高校卒業したらアメリカに行くって。これからいろんなジャンルで(若いアーティストが)出てくるんじゃないかね」

イメージ(喫茶店のとなりにはギャラリーが)
喫茶店のとなりにはギャラリーが

こと芸術に関しての批評はいつも辛口とされるどもさんですが、若者の将来性を語るときは優しさにあふれています。がまちゃんも「いろいろなフリースペースがあるけれど、うちは家庭的なところが特徴かな。人が出合ってものを作り始め、つくり続ける場所でありたい。何かやりたくなるような場所」と言います。

どもさんやがまちゃんが意図して教育してきたわけではないはずですが、将来性ある若者たちが育っているようです。そしてここまで至るにはドラマシアターどもの25年にわたる積み重ねがありました。それはまさしくドラマそのものでした。

東京で挫折

のちに「どもI(ワン)」と呼ばれる最初のどもは1981年7月にオープンしました。演劇で身を立てようと上京した青年が挫折して故郷に帰り、再起をかけたのがどもIでした。

江別高校時代、どもさんは演劇に明け暮れました。
「芝居をやりすぎて授業に出ないから卒業まで4年かかった。教師が見るに見かねて『おまえはふつうじゃない。東京に行って芝居をやれ』と。それで東京の劇団に入ったんです」

イメージ(どもさんは演劇に没頭し高校を4年で卒業します)
どもさんは演劇に没頭し高校を4年で卒業します

土方与志・秋田雨雀記念青年劇場。大正年間に土方らが創設した築地小劇場の流れをくんだ劇団でした。また劇団に入って1年半ほどのちに中央大学に入学します。しかしときは70年闘争まっただ中。大学はロックアウトされ、まともな学生生活はできません。そんな中、東京に行って3年目のとき、どもさんはある大きなものに出合います。

「モスクワ芸術座が来ました。1日のアルバイトが千円、家賃が5千円のときにチケット代が5千円。社会主義リアリズム演劇の最高峰の、ちょっとかげりはoてはいたけれども、ゴーリキやチェーホフに育てられた俳優たちがごっそり残っていた。これを観たときに、日本のレベルはなんだ、子どもと大人じゃないかと思ったんです。生意気だったんですね」

どもさんはもともとモスクワに行ってロシア文学をやりたいという願望を抱いていて、大学の第一志望も早稲田大学の露文でした。そんな青年がソビエトを代表する劇団と出合ったのですから感激しないわけはありません。そしてあまりのレベルの違いから、演劇にかける情熱はしぼんでしまうのです。

「3年いた青年劇場をやめて、そのあとの3年間は、どこかの劇団に入る気は全然ありませんでした。何をやったらいいのか、人生いかに生きるべきか、悩みに悩んでいました。今になって思えば、あのとき悩み抜いて良かったと思います」

劇団ほかい人群(びとぐん)との出合い

江別に帰ったどもさんは塗料の会社に入り、開発局などに売り込むセールスマンになります。そして高校の演劇部でどもさんが4年目のときに1年生だったがまちゃんと結婚します。

どもさんが帰ってくる1年前に江別には川という劇団ができていました。農村青年と江別中心街の青年たちが合同した10人ほどの若い所帯でした。

「稽古を見に行くと、芝居をやろうという雰囲気はあったので入団しました。でも若いから芝居よりは酒だとか男女の恋愛だとか、目標がそっちになっちゃう。芝居はブライダルセンターじゃない!がぼくの口癖でした。最初はがまんしていたけれども、どうしても合わなくて。がまちゃんと別れて東京に戻ろうかなとか、気持ちはぐちゃぐちゃに揺れていました」

イメージ(公演後の打ち上げは恒例 ここから深い交流が生まれます)
公演後の打ち上げは恒例 ここから深い交流が生まれます

そんなとき、どもさんたちにとって生涯で最も大きな出合いがあるのです。愚安亭遊佐さん率いる劇団ほかい人群との出合いでした。彼らはボロワゴン車に大人6人、幼児1人、犬1匹と鍋釜を詰め込み、投げ銭で公演していました。まさに家々の門前で物をもらいながら流れ歩く「ほかいひと」そのもの。しかし芸のレベルは高く愚安亭さんの一人芝居は当時から高い評価を受けていましたが、18年後の1999年には文化庁芸術祭優秀賞を受章するなど多くの賞を受賞しています。どもさんはもちろん高レベルの芸に感銘はしましたが、衝撃を受けたのは芝居のテーマでした。

「川の劇団員はぼくが代表になって30人くらいに増えていて、15人くらい引き連れて観に行きました。それはすごかった。レベル的に演劇の基礎がきちっとできていたからね。特に人生一発勝負はすごかった。愚安亭の母親の一代記だけれども、自分の生まれ育った下北から少しも外さないで母親の一代記という愚安亭しか見ていないことを下北弁という本人しか語れない言葉で語っていく。おまえは芝居をやって何をつくりたいんだと、舞台から突きつけられた気がしました」

それまで劇団川が取り組んできた芝居といえば「セールスマンの死」など東京から取り入れたものばかり。それが文化だと思っていました。また演出家志望だったどもさんは、名作は一字一句まちがっちゃいけない、へたな(台)本など書いちゃいけないという教育を受けていました。ただしそういう意識がある一方で、いつかは北海道の本を書くという漠然とした思いがあり、資料は集めていました。

ほかい人群の道内公演では白老町に1軒家を借りて拠点にし、知り合いのところを泊まり歩いていました。ところがその晩は泊まるはずのお寺で葬式が入り、急きょ白老まで帰るといいます。そこでどもさん夫婦は自分のアパートに泊まってもらうことにしました。もともとアパートには芝居関係者などが毎日のように寝泊まりしていたのです。初対面の夫婦が泊めてくれたことで、ほかい人群のメンバーは感激し、交流が始まります。そしてがまちゃんが、彼らの旅公演に3ヶ月間同行するのです。

「がまちゃんは一緒に芝居をやっていたんだけれど、ぼくとは経歴がちがう。それでプロとは何かを経験するために一緒に旅してこいと。ぼくが頼み込んで同行させてもらったんです」
 下北半島、盛岡、東京、愛知…。旅は続きました。

「今から思えばいい人生修業たったと思うね。世界が大きく広がった。帰ってきたら、どもさんが会社を辞めていました」(がまちゃん)

幼稚園の教諭や保母を断続的にしていたがまちゃんが旅に出ている間に、どもさんは会社を退職し、自分の劇団を持って本気で芝居をやるつもりになっていました。

ドラマシアターはみんなの手で

イメージ(どもIはレンガ倉庫を改造)
どもIはレンガ倉庫を改造

たまたま見つけた野幌駅前のレンガ造り倉庫。そこで初代ドラマシアターどもが誕生します。それは喫茶店の名前であり、劇場の名前であり、のちに劇団の名前にもなっていきます。

「ぼくは大工仕事ができるわけじゃない。最初に手伝ってくれたのが劇団川の農家勢でした。彼らの仕事が忙しくなって来れなくなると、見るに見かねて親父やその友だち、弟たちが手伝ってくれました」

どもさんは4人兄弟の長男です。父親は農家の長男でしたが、跡を継がずに馬車追い、今でいう運搬業を営んでいました。江別は王子製紙の城下町として繁栄し、父親も羽振りのよい時代がありました。よく映画館に連れて行ってくれた、という子どものころの思い出がありますが、決して優しい父親ではありませんでした。

どもさんが東京での辛さに絶えきれず故郷に帰る決心をして、母親に伝えようと電話したとき、いきなり出たのが父親でした。

「東京を引き払おうと思って、と言ったとたん『バカやろう!』と頭から怒られて。『何て言って出ていったんだ!』と。東京に行くとき『河原者に育てた覚えはない!出て行け!』『ああ、出て行ってやる!』と言って出てきたんです。でも最後には、そんなに辛いなら帰ってこいと。やはり親だなと思ったね」

どもさんは北海道の開拓農家の5代目。しかも直系で本家筋の長男です。芝居に明け暮れて東京に飛び出し、絵にかいたような挫折を経験して故郷に帰ってきた。結婚しておとなしくサラリーマンを続けていたと思ったら、今度は会社を辞めて芝居に専念し新しい空間をつくるという。そんなどもさんですが、親兄弟は見捨てませんでした。

父親が道具一式を持ち込み、友だちも動員しての大工仕事。レンガ造り倉庫が店舗の形に改造されていきます。父親の安念清光さんはその1年後に亡くなります。58歳でした。

大工仕事の次に喫茶店や劇場の備品をつくってくれたのは、出合いの翌年、北海道に来ていた劇団ほかい人群の人たちでした。そのときのカウンターやテーブル、芝居用の木箱などは今に受け継がれています。

文化・芸術の交差点に

1981年7月、ドラマシアターどもが野幌駅前にオープンします。どもさん32歳、がまちゃん29歳。1階はシックな喫茶店、2階に夫婦が寝泊まりしました。

イメージ(演劇、踊り、音楽、お笑い、文学… 利用者のジャンルは広範囲)
演劇、踊り、音楽、お笑い、文学… 利用者のジャンルは広範囲

劇団川を辞めたどもさんは新劇団を結成します。しかし稽古場はありません。店の営業を終え、テーブルなど喫茶店の備品を外に運び出して夜10時から稽古が始まります。深夜2時ごろ稽古を終えて備品を戻すというくり返しでした。「若かったからできたんだと思います」と、どもさんは振り返ります。

どもIではコンサートなど多くのイベントも行われました。当時はまだ東京下北沢の本多劇場がなかったころで、全国的に見てもフリースペースのはしりでした。毎年、北海道ツアーを行うギリヤーク尼ヶ崎さんの踊りも、どもIから始まり、連続して今年に至っています。

「ギリヤークさんの公演は最初と2回目は2千円の入場料をとったんです。そしたらギリヤークさんがやめてくれ、投げ銭にしてくれと。『それじゃギャラは払えないよ』と言うと『いいです。大道芸人ですから』と。そう言われたから、これまで続けてこれたんだろうね」

今年は7月11日に江別駅前の公園で行われるギリヤーク尼ヶ崎さんの公演は22回目。連続公演としては一番長くなりました。

こうして文化・芸術の交差点として順調に歩んだのもつかの間、持ち上がったのが道路拡張による立ち退き話です。居座るわけにもいかず、立ち退き料は380万円ほど出ましたが、借金を払うと消えてしまいました。父親など多くの人々の手によってつくられたどもIは、わずか4年半で終わりを告げるのです。

どもII劇場はもと馬小屋

再建するか否か。悩んだどもさん夫婦は1ヶ月間全国を旅します。その間に結論を出すつもりで、喫茶店や劇団の備品、生活用品などは、野幌地区と江別地区の中間に位置する高砂町の農家に頼み込み、使われていない一軒家に運び込んでおきました。それがどもIIとなります。

旅から帰ってきて決心し、その家を借りて改装するとき、力になってくれたのが酪農学園大学ブルーグラス研究会などの学生たちでした。どもIは学生サークルの発表の場としても利用され、交流が深まっていました。高砂町は学生たちの生活の場から少し離れてしまいましたが、彼らは午後4時ごろから10時ごろまで毎日やってきて夕食だけで仕事をしてくれたのです。

イメージ(どもIIは農家の母屋と馬小屋から)
どもIIは農家の母屋と馬小屋から

改装に2ヶ月をかけ、1985年春にどもIIはオープンします。どもさん36歳、がまちゃん33歳。資金は友人に少しずつ借りて200万円ほど集めました。どもIIは当初、母屋を借りて喫茶店を開きますが、その後母屋のわきにある馬小屋も借りて、そこが独立した演劇などのフリースペースとなります。

「本格的にオリジナル作品をつくりだしたのはどもIIから。母屋の方にイベントが入っていても、芝居の稽古ができるようになりました」

また、がまちゃんが自然食品の八百屋を始めることになり、喫茶店と八百屋を抱えて常時雇用のスタッフは2人となり、さまざまな老若男女が出入りして活況を呈します。ところがまたまたの移転の話です。借りていた農家がその土地を売り払うことになったのです。

見つけたのが、どもIIのすぐ近くにあった古いアパートでした。大きな建物だったので、4ヶ月かけて改装し、元ほかい人群の木本博さんが泊まり込みで作業に当たってくれました。そのころ愚安亭遊佐さんは一人芝居に専念し、木本さんはその照明・音響を担当していましたがA公演の合間に通ってきたのです。

試練を越えて

1990年春、ドラマシアターどもIIIがオープンします。喫茶店やギャラリー、八百屋、それにフリースペースを備えていました。どもさん41歳、がまちゃん38歳。どもさんが銀行から500万円ほど借りてそれまでの借金を返し、さらに友人から300万円を借りてのスタートでした。スタッフも増えてどもIIIの初期はどもさん夫婦を合わせて15人にもなっていました。

「でも自分の芝居が忙しくなって、どもIやどもIIのときのように、だれもこれもに貸すということはしなくなっていた。方針がだいぶ固まってきたんだと思う」

劇団としてのドラマシアターどもは、どもI時代の「かまどがえしの系譜」から始まり、どもさん自らの体験に基づく「トド山第三分教所」、ホームレスの生活をテーマにした「月は何処ぞ雨如何に」など次々にオリジナル作品をつくり公演を重ねます。94年にはどもさんが道銀文化財団奨励賞を受賞するなど、その評価も高まりました。

しかしどもさん個人にとっては試練のときでもありました。もともと聴力が弱く補聴器を付けていましたが1992年ごろにはほとんど聞こえなくなったのです。演出家として耳が聞こえないのは致命的。絶望の月日をさまよったすえに、踏み切ったのが最新技術の人工内耳を頭に埋め込むというというもの。96年にその手術を受け、それからはふつうの人並みとはいきませんが、聞こえるようになっています。

イメージ(どもIIIは2階建てアパートを大改造)
どもIIIは2階建てアパートを大改造

「一番辛かったのは耳を失ったときじゃないかな。カネのことより耳だね。でも聾唖者の人たちとか、かえって付き合いが広がったね。それに芝居も変わった。解りやすくなった。ていねいな生き方ができるようになったんじゃないかな」

どもさんはプロアマ含めた劇団が集う北海道演劇集団の創造委員、全国リアリズム演劇会議の運営委員もつとめ、自分の劇団以外の仕事も増えていきます。そんなどもIII時代でしたが、ついに移転のときはやってきました。敷地が売りに出され、賃貸契約が切れて2004年11月に14年の歴史を閉じるのです。

原点に返る

次はどもIVです。さまざまな案が浮かんでは消えました。まったくの新築で出発する案、現在江別市が管理する「アートスペース外輪船」となっている石造り倉庫を借り上げる案…。結局、どもさんは江別駅前で歴史を重ねてきた建物を買い取る決心をします。

この建物は1922年に石狩川と千歳川の水運で栄えた岩田商店が私設郵便局として建てたもので、医院として長く使用され、どもさんも子どものころこの医院に通いました。一時ジャズハウスにもなっていました。全国からのカンパと多額の借金で建物を買い取り、全面改装です。土地は30年契約で借りました。

2006年4月、約1年半に及ぶ空白期間を経てドラマシアターどもIVがスタートします。どもさん57歳、がまちゃん54歳。3回も移転を繰り返し、年齢的にこれが最後だと思っています。

しかし付近は人通りがなく、さびれる一方という印象です。野幌を中心とした学生たちの生活域とはますます遠くなり、周囲には古くからの住民はいますが、新興住宅地や郊外のショッピングセンターのような華やいだ雰囲気はありません。

「この街はいわばゴーストタウン。喫茶店担当のがまちゃんが一番心配していたのはそのことです。これまでは開店して2ヶ月ほどはお客さんが次々にやってきたけれども、今回はオープンの日だけでした」

ふだんの日に客はあまり来ません。イベントのときだけ大勢が訪れ、学生たちも応援に駆けつけるという状態です。

「今までのパターンとちがうけれど、ぼくはそれもおもしろいと思っているんです。この近辺のお客さんさんに来てもらわないと、どものパワーがなくなる。ぼくは自己否定しないでいつも自己肯定だから、もう1回原点に戻ってどもIVを作り上げていきますよ」

劇場とは

どもIVを祝うパーティである人が次のような意味のあいさつをして、どもさんをハッとさせたそうです。「ほかの劇団の人々は稽古場兼発表の場として自分の空間を持つことはあるが、どもさんの場合は、自分の芝居をやるだけの場所じゃない劇場づくりというのが最初からあったんじゃないだろうか」と。

「劇場というのはいろんな人が入ってくる。ある意味で冠婚葬祭も含めて、本来の劇場とはそういうものだと思います。あまり意識してこなかったけど」

ドラマシアターどもは江別の顔であるべき江別駅前で、新たな一歩を踏み出しました。


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話してもらえなかった学生時代

落語家 林家卯三郎さん(36)

イメージ(林家卯三郎さん)
林家卯三郎さん

学生時代はどもさんに批評してもらいたい、認めてもらいたいという気持ちでいっぱいでしたが、あまりしゃべってもらえなかったですね。それでわざと雪駄を忘れたふりをして訪ねたことがありましたが、「商売道具を!」とえらい怒られただけで、そのときもしゃべってもらえませんでした。

卒業公演では客にぜんぜん受けなくて、自分ではこれでいいかなと。後日どもさんノ、何かスッキリしたような気分でこれで終わっていいという気がしますと言ったら、とたんに冷たくなって、そういう次元の人とは話はできない、といった感じでした。

岡山県に就職しても毎年1回はどもさんのところで卒業生や学生たちに手伝ってもらい落語会を開いていました。就職1年目のとき、結婚していたんですが、落語家になりたくて辞表を出したことがあります。そのときは親が猛反対して、ぼくに内緒で上司と交渉して辞表を取り下げられてしました。4年目のときの落語会で異様に受けてしまって、これほどの快感が得られるなら落語を続けたいと。それでもう一度この道に入る決心をしました。

プロになっても修業期間は来れなかったですが、修業があけた平成14(2002)年から17年を除いて毎年やらせてもらっていて、すごい楽しみにしています。

同じ気持ちをもった人

ジャズベースプレイヤー 池田芳夫さん(64)

イメージ(池田芳夫さん)
池田芳夫さん

どもIIから来ていると思いますが、一番イメージが強いのはどもIII。去年を除いて18回。これまでの北海道ツアーでは、室蘭、苫小牧、遠軽など道内各地をまわってきましたが、どもさんの18回がダントツです。ずっとやらせてもらっているということがぼくの自慢ですね。

むかしジャズをやる場合はライブハウスとかコンサートホールとかが当たり前だと思っていたけれども、ここに来てからは、そういうところだけでなく演奏できるんだなと。どもは大好きなところです。

どもさんは芝居でぼくは音楽ですけれども、最初にお会いしたときから共通点があると思っていました。どんな仕事をしてもお金はもうかった方がいいと思うんですけれど、お金に関係なしに自分のやりたいことを追求していくような。勝手な考えですが、同じ気持ちを持った人だと思っています。

CDを何枚も出しているんですが、その中のDADAというCDにぼくがつくったDOMO'Sムード、どもさんところのムードという曲を入れています。ドラマシアターどもはドラマそのものです。

どもIV マップ

[ドラマシアターども]

〒067-0074
北海道江別市2条2丁目7-1

TEL/011-384-4011
E-mail/domo@aioros.ocn.ne.jp








関連リンクドラマシアターども  http://www.geocities.jp/dt_domo/

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