ウェブマガジン カムイミンタラ

2006年09月号/ウェブマガジン第11号 (通巻131号)  [特集]    

民族文化の伝承を進取の気性で
旭川・川村カ子トアイヌ記念館

  昨年240名ものボランティアが通って笹のチセ(家)を完成させた旭川の川村カ子ト(カネト)アイヌ記念館(川村兼一館長=55)。1987年にアイヌ語教室を開き、楽器トンコリを世に広めたり、子どもたちと一緒に丸木舟や弓矢をつくったりと独自のスタイルでアイヌ文化の伝承につとめてきました。その底には川村家の伝統といえる進取の気性が流れていました。

イメージ(トンコリを弾くオキさん。この記念館でこのアイヌの民族楽器に出合いました)
トンコリを弾くオキさん。この記念館でこのアイヌの民族楽器に出合いました

川村カ子トアイヌ記念館は北海道教育大学旭川校のすぐ近くの住宅街にあります。駐車場から入っていくと右側に川村館長の自宅、作業場、そして記念館(本館)と続き、館内にはさまざまな展示、そして踊りなどが披露される広間も備えられています。その向かい側には昨年建てられた笹のチセ、敷地の奥には3軒の民芸品店が並んでいます。

2006年8月5日・6日、この記念館で記念館祭が開かれていました。5日夜はアイヌ民族のトンコリ奏者、オキさんを中心としたコンサート。翌6日の昼どきにはシカ肉の網焼きやイカ焼き、エスニック料理、ビールなどが売られ、弓矢大会、ムックル(ムックリ)製作体験、ヨガワークショップ、そして歌と踊りなどが続きました。

イメージ(記念館祭では、大人も子どもも盛りだくさんの催しで楽しみました)
記念館祭では、大人も子どもも盛りだくさんの催しで楽しみました

記念館祭の最中、10数人の子どもたちの一行がバスで見学に訪れました。民族衣装に着替えた川村館長が説明に当たります。
「みなさんはアイヌ語を使っているでしょ。トナカイとか昆布とかラッコだとか。むかし北海道にはラッコがたくさんいたんです」
「この(丸木)舟の前後に人が乗って、ここから石狩川を日本海まで200キロを下って行ったんです。クマやシカの毛皮を積んで、海まで行って塩とかと物々交換した。むかしは何でも物々交換でした」

イメージ(民族衣装に着替え、バスで来た子どもたちに説明する川村さん)
民族衣装に着替え、バスで来た子どもたちに説明する川村さん

「これは210年前の絵ですが、日本人が北海道に来る前はロシア人とか中国人とか朝鮮人と物々交換していました。ラッコの皮はヨーロッパに持っていくと高く売れる。代わりにきれいな着物だとかネックレスとかピアスとかと交換しました。男はみんなピアスをしていたんです。おしゃれだったんですね」

子どもたちは30分ほど説明を聞き、周囲を見学して帰っていきました。川村さんはまた着替えて祭りの中に戻りました。

笹のチセづくりのボランティア240名

笹のチセはボランティアの手だけで建てられました。北海道でも北に位置する旭川には茅(かや)がほとんどなかったので、代わりに豊富な笹が使われていました。茅と比べて茎の部分が短いため、チセひとつ建てるのに大量の笹が必要とします。昨年建てられたチセは、一般家庭のチセより大きめですが、3トンもの笹を必要としました。

このチセづくりでは、アイヌ文化の振興を目指し地元で結成された「ケウトムピリカ(アイヌ語で美しい心)の会」がボランティア参加を呼びかけ、昨年3月から作業を開始、全国から老若男女がやってきて、それぞれの事情に応じて1日、2日、数日泊まり込みでと仕事をしました。

イメージ(240名のボランティアによって建てられたチセ。青々とした笹は1年で白くなりました)
240名のボランティアによって建てられたチセ。青々とした笹は1年で白くなりました

柱や垂木など家の骨格づくりまでは比較的順調でしたが、屋根や壁にあたる部分をつくる笹の編みつけが難関でした。遠く美瑛町まで出かけて笹を採取し、それらを運んでは横棒に糸で3~4本ずつくくりつけていきます。根気の必要な作業が延々と続きますが、人の入れ替わりが激しく能率は上がりません。それに山は新緑の季節になっていました。笹は若葉になってしまうと柔らかくて用をなさないので時間とのたたかいです。

どうにか完成にこぎ着けたのが7月下旬。その間の参加者は240名、延べでは2000人にも及びました。公的な支援もなく、私的なボランティアだけでこうしたチセをつくることは現在ではきわめてめずらしいことでした。

アイヌ文化はまず体験から

川村さんが川村カ子トアイヌ記念館の館長になったのが1983年、31歳のときでした。カメラマンにあこがれて上京した川村さんですが、父の死を受け、旭川に戻り館長を継いだのです。84年には旭川チカップニ(近文)アイヌ民族文化保存会会長となり、85年には28年間途絶えていたイヨマンテ(熊送り儀礼)を3日間にわたって行います。87年には旭川アイヌ語教室を開講、毎週日曜日に一般市民にアイヌ語を教え、旭川アイヌ文化フェスティバルを開催したり、アイヌ語劇を上演したりしてきました。

イメージ(弓矢大会では子どもだけでなく大人も夢中に)
弓矢大会では子どもだけでなく大人も夢中に

カラフトアイヌに伝わる弦楽器トンコリにいちはやく注目して普及につとめ、その作り方も教えています。93年に川村さんからトンコリをもらったオキさんは、今では世界を飛び回ってトンコリを演奏するミュージシャンとなりました。

「中学生たちに弓をつくらせたんだよ。でも材料ったって材木屋で売っていないからね。それで山に行って、『これは内緒だからね』と、木を切ってお祈りして。矢にはシカの骨とかが使われたけれども、ないので堅い木で代用して。4年前には丸木舟をつくってね。4ヶ月かかったけれども、中学生が舟をつくるというんでみんな驚いちゃって。新聞やテレビでニュースになった…」

イメージ(ムックル製作体験も人気)
ムックル製作体験も人気

川村さんが子どもたちについて話をしているときはじつに楽しそうです。物づくりを通してアイヌ文化に触れてもらうのが川村さんのスタイル。理屈よりもまず自分で体験してもらう。アイヌ語教室もトンコリも、そしてチセづくりも、まず体験からという点では同じなのでしょう。

書籍から読み取れる川村家の気性

次々に新たな試みをしてきた川村さんですが、そこには川村家に代々伝わる新進の気性といったようなものがある気がしてなりません。それは関係する書籍からも読み取ることができます。2006年4月には「旭川・アイヌ民族の近現代史」(金倉義慧著 高文研)が出版されました。父親である川村カ子トの生涯を描いた児童文学書「カネト 炎のアイヌ魂」(沢田猛著 こさかしげる絵 ひくまの出版 1983年)はいまも増刷され続けています。

多くの川が合流する上川盆地はアイヌにとって豊かなイオル(狩猟や植物採取などを行う生活圏)でした。ところが1887年(明治20年)に札幌から旭川への道路が通り、屯田兵が永山、東旭川、当麻と入植、さらに民間人の農民も各地に入植し、様相が一変します。

道路や兵屋建設は囚人たちが担いました。過酷な境遇に耐えかねた囚人たちはさまざまな事件を起こします。そのころ川村家は永山から近文に移住しましたが、その理由を川村館長の曾祖父のモノテクは「囚人たちがやってきて恐ろしいことが起こるようになった」と語っていたそうです。移転先の近文一帯は、そのあと国からアイヌたちに給与地として与えられます。

イメージ(今年4月発行の「旭川・アイヌ民族の近現代史」。史料と証言に基づいた長編です)
今年4月発行の「旭川・アイヌ民族の近現代史」。史料と証言に基づいた長編です

「旭川・アイヌ民族の近現代史」は当時道庁の技師だった新渡戸稲造がアメリカの雑誌に寄稿した文を紹介しています。

この盆地はいくつかの区画に分けられて日本人移住者に与えられた。しかし大きな部分がアイヌのために保留された。しかしながらアイヌたちは、この保留地にはほとんど注意を払わずに、狩猟と漁労に明け暮れていた。だがその周辺の土地が日本人移住者によって占有され始めると、伐採の騒音だけでなく、開拓民の小屋からのぼる煙や、入植者のふるう斧が、熊や狐、鹿などをアイヌ狩猟民の届かないところに追いやった。川や小川にも、まもなく魚類はそういなくなった。アメリカの赤人(インディアン)と同様、アイヌの首長は「どこまで逃げなければならないのか」と悲しげに叫んだ。

アイヌは生活の基盤だったイオルだけでなく文化の基盤である言語も次第に失っていきます。同化政策のもと、学校や公的な場ではアイヌ語が使えなくなったのです。こうして民族としてのアイヌは追いつめられていきます。

「記念館」以前から家を公開

アイヌたちが近文の給与地に集まって住み始めてしばらく経った1900年(明治33年)、その隣接地に札幌から帝国陸軍第七師団が移転してきました。全国から集められた兵たちは、アイヌの居住地を見物しようと無遠慮にやってきます。アイヌたちはいやがって兵たちが来るたびに逃げていました。そこで川村家ではいっそのことアイヌの生活を見せてしまおうと、家や生活用品を公開します。

「川村アイヌ記念館」が現館長の祖父イタキシロマによって開設されるのは1916年(大正5年)ですが、その前から公開されていたことを「旭川・アイヌ民族の近現代史」著者の金倉さんが史料から発見したのです。

秩父別町の記念誌に尋常高等小学校校長の旅行記がありました。第七師団が来て間もない1901年11月のことです。秩父別から修学旅行として旭川を訪れ、地元の校長が近文に案内しますが、みんな逃げてしまってだれもいません。川村家の娘さんがいたなら生活用具を見せてくれたのに、と残念がるのです。近文でよその者が見学できたのは川村家だけだったことが古い旅行記から知ることができました。

川村館長の父、川村カ子ト(1893‐1977)については「カネト 炎のアイヌ魂」で解りやすく物語られています。尋常小学校に入り、和人の子どもたちから陰惨ないじめを受けますが、上川地方の酋長だった祖父モノテクから厳しく仕込まれ、たくましく成長していきます。

旭川に鉄道が敷かれ、カ子ト少年は巨大な鉄のかたまり「陸蒸気」を目の当たりにして魅せられます。そして小学校卒業後、鉄道の測量人夫として働き始めますが、そこでも給料の格差などアイヌがゆえの差別を受けます。しかしじっと耐えながら測量技術者としてだれにも負けないような力量を身につけていくのです。

天竜峡での偉業

2年間の軍隊生活を経て旭川に戻ったカ子トのところに、突然の依頼者がやってきました。当時、三信鉄道(現在のJR飯田線)が建設されていましたが、三河川合(愛知県)から天竜峡(長野県)までの区間が、あまりにも急峻な地形なので測量にも着手できませんでした。そこで危険なところでも測量してきた腕のいい技術者が北海道にいるという話を聞きつけてきたのです。

イメージ(1983年に出版された「カネト 炎のアイヌ魂」はいまも増刷が続いています)
1983年に出版された「カネト 炎のアイヌ魂」はいまも増刷が続いています

1926年(大正15年)4月、カ子トはアイヌだけで結成した測量隊を引き連れて現地に赴きましたが、天竜峡では息を飲みました。両側が断崖絶壁で歩く道さえありません。その崖沿いに測量し鉄道を通すのですが、和人はみんな尻込みしていたのです。

現地の人も加わったカ子トの測量隊は険しい地形に行く手を阻まれ、幾多の困難に遭遇しながらも、2年数ヶ月をかけて担当区間の測量をやり遂げます。その疲れで体と心はボロボロになりながら、開放感に浸っていたカ子トでしたが、今度は鉄道工事の会社から声がかかります。工事の現場監督になって欲しいというのです。難工事をやってのけるためにはカ子トの卓越した技量とリーダーシップに頼るしかなかったのです。

腹をくくって引き受けてはみたものの、カ子トには大きな不安がありました。測量では部下のほとんどがアイヌたちでした。ところが工事となれば、和人たちを使わなければなりません。工事現場には全国から荒くれ男たちが集まっていました。

1929年(昭和4年)7月、工事が始まります。削岩機で岩に穴をあけ、ダイナマイトを詰めて爆破する。それをくり返しながら、線路のスペースをつくっていきます。しかし地盤が悪く、突然土砂が崩れ落ちてくるのです。台風が来れば増水で盛り土の線路が流される。そんなことがくりかえされる、まさに一進一退の状態でした。

一番の難工事がトンネルでした。予想外に出水が激しく、どうにもならないならない状態です。建設会社の工事責任者はカ子トの意を受けて、費用のかかる壁面へのコンクリート打ちを決断します。それで工事は進み始めましたが、一部人夫のイライラが積もって事件が起こります。

トンネル内の出水現場で、カ子トは突然男たちに丸太で脚を打ちつけられます。続いて肩を殴られ、一瞬気が遠くなっていきました。男たちは犯行を隠すために、カ子トを穴に入れ、生き埋めにしようとします。スコップで土砂を入れ始めた男たちですが、明らかに気は動転しているようでした。

イメージ(コンサートでの川村さん。独自のスタイルを貫いています)
コンサートでの川村さん。独自のスタイルを貫いています

そのときカ子トは男たちを静かに諭したのです。

「北海道にいるときも、ここに来てからも測量という仕事に男をかけてきた。おれは、おれの仕事に誇りを持って生きてきた。だからおれはいつ死んでもいい。だがいっておくが、おれを殺したからといって、アイヌ魂までも殺したと思うのはまちがいだ。

アイヌをさげすむおまえたちは、いったい、なにをしてきたのか。おまえたちのようないいかげんな気持ちで生きていても、それは生きているということにはならない。生きているということは、仕事に誇りを持つということだ。わたしを殺しても、かくし通すことはできない。おまえたちもこのままではすまなくなる。

なあ、おまえたち誇りを持って、トンネル工事を続けようじゃないか。それともアイヌを殺して、それが誇りだというのなら、さあ、早くコンクリートをこのあなにぶちこむがいい」(カネト 炎のアイヌ魂より 一部省略)

カ子トの言葉に男たちは立ちすくみます。そこに会社の工事責任者たちが駆けつけ、カ子トは穴から助け出されました。そしてこの事件のあと、男たちの態度は一変し、順調に作業を進めることができたのです。

1932年(昭和7年)10月、ようやくカ子トの担当した区間の工事が終了します。3年がかりの難工事でした。

うたい伝えられる功績とその魂

この偉業について、北海道ではそれほど知られていませんが、現地では有名です。1983年に「カネト 炎のアイヌ魂」が刊行されたことで広く知られるようになり、1998年にはカ子トの生涯をテーマにした合唱劇「カネト」が創作されました。そして愛知県三河地方で合唱劇「カネト」をうたう合唱団が結成され、飯田線沿線各地で公演を続けています。カネトの功績、アイヌの魂が現地の人々の心の中に受け継がれているのです。

カ子トはその後、樺太(現サハリン)や朝鮮に渡って鉄道の測量を続けますが、戦争が終わりに近づいたころ父のイタキシロマが亡くなり旭川に引き上げ、記念館を継ぎました。そしてそれまでの蓄えをつぎ込み川村カ子トアイヌ記念館を建設しました。

萱野さんなど各地のエカシの教えこう

父カ子トの死後、記念館を引き継いだ川村兼一さんですが、アイヌ語はほとんど話せず、文化の面でも実体験があまりありませんでした。そこで各地のエカシ(長老)たちを訪ね教えをこいます。平取、静内、阿寒…。参議院議員だった故・萱野茂さんもそのひとりでした。

イメージ(萱野さんはお酒を飲まずに、夜、本を書いていたが…)
萱野さんはお酒を飲まずに、夜、本を書いていたが…

「萱野さんはアイヌ語で育ったからね。資料館も自分でこつこつ集めて。萱野さんほどアイヌ語をしゃべれるようになったわけではないけど、おれも踊りをやったり、いろいろなものをつくれるようになったから、かなり追いついたはずなんだけどね。でも萱野さんはお酒を飲まないで、夜、本を書いていた。おれは夜、お酒を飲んでいる方だからね。だめだね、夜コップを持つと」

萱野さんは92年に社会党から参議院の11位の比例代表候補として出馬しますが落選。ところが次点だったので94年に繰り上げ当選となりました。選挙のときの思い出もあります。

「立候補したときには1位になるようにと社会党本部の駐車場で、カムイノミを5時間やった。みんなが見てくれるようにと、ずーっとやっていたんです。でも、議員になって、東京暮らしは大変だったようです。奥さんがたまに行くけど、ふだんは餅を電子レンジでチーンして食べているんだと。ひとりでレストランなんか行けないでしょ。だから東京はいやだと言っていたね。でも国会でアイヌ語で質問したのは良かった」

こうした思い出を語る川村さんですが、アイヌ語の発言では自分も注目されたことがあります。北海道が管理していたアイヌの共有財産についての訴訟で、1999年10月、札幌地裁での第1回口頭弁論の最初の意見陳述で川村さんがアイヌ語で語りかけたのです。

「裁判所で公式にアイヌ語で意見陳述したのはおれが初めて。その前に萱野さんが二風谷ダム訴訟のときにアイヌ語で話したけど、非公式ということで記録から消されたから」

川村さんが最近マスコミで注目されたのが、笹のチセをつくっている最中に起きた教科書での写真の無断掲載問題でした。扶桑社など3社の中学公民教科書に、旭川の「こたんまつり」の、顔が判明する写真が掲載されていたのです。最終的に3社が謝罪する形で和解しました。

「アイヌや琉球のことなどを正しくいっぱい書いてくれるところには、こっちも協力するし、写真も貸しています。あんまり抗議するとアイヌのことに触れなくなるからね。協力しますからちゃんと載せてくださいよということで」

早期実現が望まれるイオル再生

イメージ(嵐山は旭川の西、鷹栖町内にあります)
嵐山は旭川の西、鷹栖町内にあります

現在、アイヌ文化伝承の策として国や道が進めていることにイオルの再生があります。道内7ヵ所に設置される計画で、一番条件の整った白老が中核となり、ほかは地域イオルとなります。

「旭川には嵐山があるから、それをそのまま使うことができる。フクロウもいるし、北方野草園があって植物の種類が豊富だからね。もう手をつけなくていいくらい。あとは池を掘って、水辺の植物を育てて。嵐山の手前にある国立療養所跡地を研究センターにして」

イメージ(山全体が公園になっており動物や野草の宝庫)
山全体が公園になっており動物や野草の宝庫

和人の入植によってイオルが失われ、文化も消えそうになったアイヌ民族。弓矢をつくる樹木も、衣類をつくる水草もイオルの中で得ることができます。川村さんたちがこっそり山で木を切るなど無理に無理を重ねて行ってきた伝承が、自然環境の復元によって無理なく行うことができるのです。ただし国の予算が逼迫していることで、いつ形になるか分からない状況です

ほかにも予算不足によってアイヌ文化の伝承が途絶えようとしています。たとえば金成(かんなり)マツさんが92話にのぼるユーカラ(アイヌ叙事詩)をローマ字で書き残した「金成マツノート」の翻訳は、金田一京助さんや萱野茂さんの手によって33話まで翻訳されています。その残りの翻訳を中止するというニュースが流れたのです。

イメージ(嵐山山頂からの展望。手前に国立療養所跡があります)
嵐山山頂からの展望。手前に国立療養所跡があります

現在の北海道の社会は明治以降、アイヌの生活圏と文化を踏みにじることによって形づくられました。その掘り起こし、復活、伝承はこの社会を構成する人間の責務です。国や道には、さまざま工夫を凝らしながら、必要な事業はやり遂げる姿勢が求められます。

記念館の独自経営、そしてボランティアによるチセづくりなど川村さんたちは自分の力でできることは積極的にやってきました。こうした活動への共感、支援がいっそう広がることを望みます。

和人たちも歴史の表に

金倉義慧(ぎけい)さん

金倉さんは元高校教師で「遙かなる屯田兵」(高文研)などの著書をもつ北海道民衆史の研究家です。川村館長との付き合いも長く、一緒に沖縄に行ったこともあります。

「彼のすばらしいところは独力できちんとやっていくこと。たとえば笹のチセづくりは、多くのいろいろな人がかかわって完成させました。そこが川村さんのすごいところです」

イメージ(金倉さんは元高校教師。史料を徹底的に調べ、関係者から取材を重ねました)
金倉さんは元高校教師。史料を徹底的に調べ、関係者から取材を重ねました

「旭川・アイヌ民族の近現代史」は560ページにも及ぶ大作です。数多くの関係者から取材し、史料を徹底的に調べ、それを自分なりに噛み砕きながら執筆しており、長編ですが読みやすい本となっています。

「自分の頭で考えなかったら見えてこないことがいろいろありました。ほかのものを参考に、それに従って展開していくことができない。これには苦労しました」

今回の著書では近文のアイヌ給与地をめぐる3次にわたる争いについて史料をもとに詳しく書き込んでいるほか、クマの木彫りの歴史などについてもしっかり取材しています。

「第3次アイヌ地問題というのは、アイヌ地の奪還闘争、返還闘争なんですが、凶作にぶつかるんです。そのとき木彫りを売り歩いて資金稼ぎをしようという運動が起こります。そしてそれが生活を潤し、木彫り人口が増えていくことにもなる。アイヌは狩猟民族で農地を与えられても仕方がない。それで出稼ぎしかなくなって、みんなバラバラに散っていきました。木彫りは近文にいて仕事ができる唯一のもので、どれだけ潤したかわかりません」

金倉さんが著書で強調したかったことに、アイヌに積極的にかかわった和人の存在がありました。

「佐々木長左衛門という人はアイヌ人学校の校長で、その学校がなくなると旭川商業の先生となり、それもやめて商売を始める。ぼくは木彫りグマのディレクターだと書いたのですが、この人の力は大きかった。でも前の旭川市史には出てこないんです。第1次アイヌ地問題のときには、のちに鷹栖村長となる板垣才助が大きな役割を果たしました。彼がいたから政商との闘争が成功するんです」

戦争中のアイヌの出征のことなど、書きたいことはたくさんありましたが、聞き取りや資料不足などで、それはかないませんでした。まだまだ元気な金倉さんですから、次作に期待したいところです。

民族として新しいことを

オキ(OKI)さん

オキさんは93年にこの記念館でトンコリに出合いました。

イメージ(トンコリの単純なリズムが独特な高揚感を生み出します)
トンコリの単純なリズムが独特な高揚感を生み出します

東京芸大に入って彫刻家を目指したオキさんですが、行き詰まってアメリカに渡り、テレビCMや映画の特殊撮影の仕事をしていました。映画のアートディレクターとして日本で雇いたいという誘いがあり帰国したのですが、すぐに会社が倒産、失業状態になってしまいます。そのとき川村館長から渡されたのがトンコリでした。

「ヒマで、弾く時間もあったし。30歳過ぎていて、もう好きなことやろうと。好きなことをやらないと人間、価値ないんじゃないかと思って」

トンコリは5本の弦をもつ単純な楽器で、それぞれの弦の音程をギターのように変えることはできません。それをオキさんは両手で奏でます。

「条件は限られるので、その中でいかに多様なリズムを生み出せるか。くり返しのおもしろさというか、その中で生み出される独特の世界があります」

曲としては単純ですが、くり返しのリズムが、美しい音色と相まって、聞く人に独特な高揚感を生み出していきます。

イメージ(93年、オキさんは川村さんからトンコリを渡されました)
93年、オキさんは川村さんからトンコリを渡されました

オキさんはトンコリをスピーカーにつなぎ、音を自由に大きくすることができます。何千人、何万人と集うフェスティバルなどでも演奏してきました。

「新しいものを取り入れることはアイヌ民族としてもやらなければならなかったし、どこの民族でも同じですよ。広めていくために、機材を使うのも当たり前のことです」

現在は旭川に居を構えるオキさんですが活動の場は全国、さらに世界へと広がっています。アイルランドのキーラというグループと一緒にCDを製作し、近々発売される予定です。またそのキーラが来日し、9月24日東京、27日名古屋、28日大阪、30日札幌(芸術の森)でコンサートを行います。



川村カ子トアイヌ記念館

〒070-0825 北海道旭川市北門町11丁目
  電話/ 0166-51-2461
  FAX/ 0166-52-6518
開館時間 9:00~17:00(7、8月のみ8:00~18:00)
入館料 一般500円 中学・高校生400円 小学生300円
駐車場有り

●体験講習(要予約)
  ムックル製作体験  700円
  ムックル演奏体験  500円
  刺繍体験     1,500円
  古式舞踊体験    500円

関連リンクCHIKAR STUDIO(OKI OFFICIAL WEB SITE)  http://www.tonkori.com/

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