ウェブマガジン カムイミンタラ

2006年09月号/ウェブマガジン第11号 (通巻131号)  [ずいそう]    

『視援隊』
金井 昭雄 (かない あきお ・ 株式会社富士メガネ代表取締役会長)

「キノコの山」<br>版画:宝賀寿子
「キノコの山」
版画:宝賀寿子

1980年代初頭、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、カンボジア、ラオス、ベトナムなどインドシナ三国で発生した動乱の戦禍を逃れてタイに流入して来た大量の難民を保護し、アメリカ、カナダ、オーストラリアなど第三国定住のお世話をしていた。大半の難民キャンプは首都バンコックから遠く離れた、国境沿に流れるメコン川に近接して民族別に設けられていた。

第三国定住に当たって各キャンプでは、定住先の国の言語や法律、生活の仕組みなどに関するオリエンテーションや教育、自立のための職業訓練などのプログラムが実施されていた。大半の難民は老眼が始まる40歳を過ぎており、読書や手元での作業に不便をしていた。もともと眼鏡を装用していた人たちも、長い避難の途中、紛失したり破損したりして、新しい眼鏡を必要としていた。

1983年、弊社創業45周年が契機となって、社員のボランティアからなる『視援隊』を組織し、難民の視力改善支援を決断した。以来、難民キャンプを直接訪問して、一人一人の視力を検査し、事前に日本で組み立て、UNHCR事務所に寄贈した新しい眼鏡の中から、それぞれの視力に合ったメガネを選んで差し上げる活動を続けている。

初回は、頼りになる情報や現地で支援してくれるパートナーがないため、さまざまなトラブルに巻き込まれたが、活動の成果に注目したUNHCRバンコック事務所の要請と支援により、2回目以降の活動が息を吹き返した。事前の知識もなく、不安に押しつぶされそうな状態で難民キャンプに初めて一歩足を踏み入れた時の大きな衝撃と次々に目に飛び込んでくる映像の理解にしばし戸惑った記憶はいまも鮮明に残っている。

タイには乾季となる10月下旬から11月上旬頃に現地を訪問したが、札幌では初雪の時期で、あまりの暑さにチームのメンバーは体調の維持に苦労したものである。

1993年、インドシナ難民の自主的自国帰還が軌道に乗ると、これらの難民キャンプは暫時閉鎖されていった。他の地域での『視援隊』の活動継続を望んでいたUNHCR駐日事務所から、ネパールに保護されている「ブータン難民」に対する支援実施の要請を受け、1994年、初めてネパールの土を踏んだ。

さらに1997年、当時UNHCRアルメニア事務所代表を務めていたロバート・ロビンソン氏(現駐日事務所代表)から、モスクワの日本大使館を通じて『視援隊』ミッション実施の要請が突然舞い込んできた。以前タイのバンビナイキャンプ責任者だったロビンソン氏は、『視援隊』の活動ぶりを思い出して、アルメニアの難民に対する視力改善サービスの提供を要請してきたのである。

『視援隊』の活動は遥か中東、トルコやイランに隣接した旧ソ連圏、コーカサス山脈南端の美しい小国アルメニアにまで拡大した。隣国アゼルバイジャンとの『ナゴルノカラバフ』を巡る領土紛争で発生したおびただしい数の難民は、遠い国日本からはるばる訪問した視力改善ミッションに、心からの感謝と喜びを表し、歓迎してくれた。

2005年には、UNHCRジュネーブ本部の要請に基づき、アゼルバイジャンを訪問した。イスラム教シーア派の国だ。『ナゴルノカラバフ紛争』から逃れてきた国内避難民(IDPs)の数は65万人以上にのぼる。『視援隊』の活動は難民に加えてこれら国内避難民や一般生活困窮者のケアにまで拡大、政府副首相もミッション終了後、心からの感謝の言葉を述べ、活動の継続に国を挙げての強い期待を表した。

1983年以来24回のミッションを実施し、合計10万8千組余りの眼鏡を寄贈した。ミッションに参加した人数は、延べ116名にのぼる。

このような活動を始めた背景には、私が1966年から1973年までオプトメトストという視力ケアの専門家になるために滞在したアメリカ・カリフォルニア州での留学生活と、当時アリゾナ州に保護されている先住民に対する類似のミッションに参加した時に得た感動的な体験がある。

 ※この文章を引用、転載する場合は富士メガネまでご一報ください。

関連リンク富士メガネ  http://www.fujimegane.co.jp/

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