札幌駅南口。ひと時代前からみればすべての建造物が巨大化した駅前広場で、ひっそりと人々を出迎える5体の像。3人の乙女がそれぞれポプラの若木、トウモロコシ、スズランを持ち、1人の男はヒツジを抱いています。もう1人の男は座って牧畜の角笛を吹いている。これは「牧歌」(1960年設置)という北海道の産品や風土を表した作品です。
大通公園は時計台とともに札幌観光の代表的スポット。街をつらぬく細長い公園内には数多くの像が点在していますが、その代表的なものといえば観光パンフや絵はがきなどに多用される西3丁目の「泉」(1959)という3人の乙女像でしょう。トーシューズでつま先立ちするバレリーナたちは健康的で伸びやかです。
北海道最北端の稚内。その街を見下ろす稚内公園にも本郷の作品があります。「氷雪の門」(1963)には戦中・戦後に樺太(現サハリン)から引き揚げざるを得なかった人々の無念の思いが込められ、となりにある「乙女の碑」(同)はソビエト軍が迫りくる中、最後の最後まで電話交換手としての務めを果たして自決した9人の女性を慰霊しています。碑に刻まれた「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」という言葉が悲劇を生々しく後世に伝えています。
観光地函館。市内の代表的な像といえば大森浜の「石川啄木」(1958)を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。ロダンの「考える人」に似たポーズで物思いにふける姿は、訪れる人々の旅情をいやが上にもかき立ててくれます。
石川啄木の像は釧路にもあり、こちらの「啄木」(1972)はマントを羽織った立像。シバレのきびしい釧路ならではの服装です。そのほか釧路では観光名所の幣舞橋に立つ4人の乙女像のうちの1つも本郷作。4人はそれぞれに四季を表し、本郷は「冬」(1977)を担当しました。
そそり立つ大型モニュメントも見られます。網走市能取岬の「オホーツクの塔」(1978)は高さ10m、釧路市の隣の白糠町の坂の丘公苑に立つ「太陽の手」(1966)は12m、札幌市真駒内の冬季オリンピックを記念した「雪華の像」(1971)は14mもの高さです。
東京都世田谷区のアトリエを制作拠点にしていた本郷ですから、もちろん野外の作品は北海道に限られるわけではありません。東京・六本木にはギターを持った「奏でる乙女」(1954)、横浜にはアイスクリーム発祥の記念像「太陽の母子」(1976)、広島平和記念公園には「嵐の中の母子像」(1960)、高知県には県立牧野植物園の「牧野富太郎博士像」(1974)、鹿児島県には国民体育大会記念の「太陽の讃歌」(1972)などなど。
本郷は東京のアトリエのほか、60歳になって故郷の北海道にも拠点を置きました。1965年、小樽市の銭函に近い春香山の山麓にアトリエを建て、テラコッタ(粘土の素焼)をつくりはじめます。石狩湾を望むその一帯を一大彫刻公園にする構想も練っていたようですが、高速道の札樽道が通ることになって、1977年に札幌にアトリエを移しました。72歳になっていました。
スキーのジャンプ競技場がある大倉山に至る斜面に造成された住宅地に札幌のアトリエは建てられました。レンガを多用した瀟洒な2階建てで敷地も広々しており、付近にも同じような住宅が目につきます。このアトリエが札幌彫刻美術館(記念館)となるのです。
この美術館は1981年(昭和56年)に開館しました。宅地開発された土地の2区画を占め、アトリエだった記念館と新たに建てられた本館が公共の道路をはさんで別々に建つ美術館としては珍しい構成です。
本郷新は1980年2月13日、肺ガンで亡くなりました。74歳でした。美術館の開設は本人の生前からの遺志を受けたものでした。札幌の土地・建物と東京や札幌に残された作品が遺族から寄贈されて財団法人札幌彫刻美術館が設立され、本館が新たに建てられて翌年の1981年6月29日にオープンしました。
本館の受付で入場料(一般300円)を支払ってギャラリーに入ると、まず目につくのが大きな手で顔を覆い隠している木彫の「哭」。誰にでもわかりやすい具象彫刻を主に制作した本郷のデフォルメされた珍しい作品です。展示物は定期的に入れ替えるそうですが、2階にはブロンズ、木彫、石彫、絵画などさまざまな作品が展示されていました。またパソコンが置かれ、そのほかの作品も写真で見ることができます。本郷が一生の間に制作した作品の多彩さがよく分かります。
記念館では玄関でスリッパに履き替え、本館でもらった入場券をもう一回もぎってもらいます。初めて入って思わずギョッとさせられるのが巨大な石膏の像が林立する光景。脚がすらりと伸び、その頭が吹き抜けの天井に届かんとする女性像などは下から見上げる者を圧倒する迫力です。そのほか制作の道具、色紙に描かれた水彩なども展示され、知人のアトリエで、その制作現場を見学させてもらったという雰囲気です。各所にイスやソファーなどを配置し、くつろげるようになっていることろも本館とちがうところです。
2つの建物の周りには芝生を敷き詰め、ブロンズ像を点在させています。館が収蔵している作品は、彫刻だけでなく絵画、版画なども加えると1800点あまり。それが展示され、また記念館となったアトリエの収蔵庫に納められています。
2005年、本郷の生誕100年を記念する「本郷新展」が札幌彫刻美術館と南区にある札幌芸術の森美術館との2会場で開催されました。5~6月の1ヶ月の期間中、両会場を訪れたのは約7千人。市民ボランティアが大通公園などの3カ所でブロンズ像の清掃を行い、彫刻美術館の応援団である「友の会」は野外彫刻とアートツーリズムをテーマにしたシンポジウムを開きました。さらに彫刻美術館では本郷新展が終わったあとも年末まで生誕100年の行事が続きました。
また81年の開館以来初めて、美術館が所蔵する作品の目録がつくられました。出版物という形になり、作品の写真はデジタルデータとして残されました。2005年は札幌彫刻美術館の大きな節目となったのです。
本郷新とはどんな彫刻家だったのでしょう。生誕100年の際札幌彫刻美術館学芸員の井上みどりさんが発表した論文や年譜などからたどっていきます。
1905年(明治38年)、現在の札幌市中央区北3条西2丁目で本郷は生まれました。父は島根県出身で札幌農学校(現北海道大学)を卒業し、札幌興農園を経て独自に種苗園の経営を始めます。母は山形県鶴岡市出身でスミス女学校(現北星学園大学)を1期生として卒業しました。本郷は子どものころから北辰教会(現北一条教会)に通い、自由な気風の中で育ったといいます。
札幌師範学校附属小学校(現北海道教育大学附属札幌小・中学校)から札幌第二中学校(現札幌西高校)に進学しました。二中は北3条西19丁目にありました。また父親の経営する採種場が円山近辺にあって、そのあたり一帯が遊び場だったそうです。札幌のアトリエを市街の西方に構えたのも、少年時代の原体験の場がそこにあったからなのでしょう。
せっかく二中に入学したものの翌年には親の都合で東京に引っ越します。順天中学に入学し、4年生のときに一家はまた札幌に戻り、北海中学(現北海高校)に編入しました。
美術の才能は子どものときから認められ、小学5年のとにきは学校の課目以外に絵画の特別指導を受けるほどでした。旧制中学卒業後、本人は東京美術学校(現東京芸術大学)への進学をめざしたものの、芸術家の経済的苦労を知る両親や親戚の反対にあい、東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)に入学します。輸出品の商標や意匠のレベル向上と輸出振興をめざして政府が創立した3年制の学校でした。
しかし本郷の芸術に対する情熱は高まるばかりです。木彫家の北原鹿次郎助教授に師事し、それまでの絵画から彫刻家をめざすようになります。在学中には高村光太郎にあこがれ、自宅にも出入りしていましたが、当時の高村は彫刻より詩作が中心になっており、影響を受けたのは技術よりも芸術のあり方や概念であったとされています。
1927年(昭和2年)、23歳で工芸学校を卒業、友人と玩具製作所を設立し、テラコッタの人形などをつくりますが、売れずに自然解散、翌年には母親とスミス女学校で同期だった河井道が創立した恵泉女学園(現恵泉女学園大学)の絵画教師となり、以降11年在籍します。同校の校章をデザインしたのも本郷です。
22歳のときに北海道美術協会(道展)に出品した「若き彫塑家の首」が初入選、23歳で国画創作協会(現国画会)に設けられたばかりの彫刻部に「少女の首」を出品して入選し、この作品は道展でも協会賞を受賞、道展会員に推挙されました。
25歳で結婚、国画展や道展に意欲的に出品し、そのつど賞を受け、29歳で国画展会員となります。30歳のときには父の種苗園が北聯(現ホクレン)と親しかったため日高の荻伏(おぎふし)支所前に3体の胸像を制作、その収入で東京世田谷にアトリエを建て、その後もホクレン関係の仕事を続けました。
1939年(昭和14年)34歳のときに山内壮夫、柳原義達、佐藤忠良、舟越保武ら若き芸術家とともに国画会を抜け、3年前に創立された新制作派協会(現新制作協会)の彫刻部を創設、その中心を担って牽引役を果たしていきます。
スローガンは「彫刻は個人の応接間を飾るものではない。愛玩物でも装飾品でもなく、もっと公共の広場で、社会的空間の中で生きるものこそ本当の彫刻のあり方でなければならない。彫刻が応接間やロビーにあるのは一向に構わないが、それは装飾的なあり方にすぎず、真のあり方は、社会的空間、大衆の生活の中に入ってゆくものでなければならない」というもの。その後、本郷はこのスローガンにあるような大衆に開かれた作品を生涯つくっていくのです。
本郷の作品は記念碑的なものがほとんどです。新制作派協会の初出品作は高さ230cmの「十勝岳ホロカメトック遭難記念像 氷雪」でした。稚内の氷雪の門に組み込まれた天を仰ぐ女性像と似ていますが、実物は現存せず、写真が残っているのみです。
本郷の名を全国に知らしめたのが「わだつみのこえ」です。戦争で死んだ学生たちの遺書を集めた「きけわだつみのこえ」(東大協同組合出版部)が1949年(昭和24年)に刊行され、ベストセラーになります。その益金の一部が記念像と映画づくりに当てられ、像の制作依頼を受けたのが本郷でした。
1950年、半年かけて像は完成します。ところが当初予定していた東大構内には当局の反対で設置できず、53年になって京都の立命館大学に設置されることとなりました。そして学生運動が激化した1969年、一部学生によって「わだつみのこえ」は引き倒され破壊されてしまうのです。翌年、集まった寄付によって再び鋳造されました。
同じ像は札幌彫刻美術館の玄関前にも立っています。北大構内に設置するため鋳造されましたが、これも大学当局が許可せず、アトリエで眠っていたものを、美術館の開館時に設置したのです。また出身校の北海高校などにも設置され、その若々しくも憂いを帯びた姿が平和の尊さを現代に語りかけ続けています。
像の破壊ということでは、旭川の「風雪の群像」も同じことが起きました。わだつみ像が壊された1969年、北海道では開拓100年を迎え、さまざまな記念事業が行われました。札幌の大通公園には開拓使トップだった黒田清隆やお雇い外国人ホーレス・ケプロンの像が設置されました。そんな官主導とは一線を画し、一般民衆の立場から記念碑を制作しようと「道民の会」が発足します。そして本郷と、札幌二中の後輩に当たる本田明二が依頼され、制作されたのが「風雪の群像」でした。
3人の若者と1人の女性、それにアイヌの古老の像ですが、その老人が切り株に座っています。制作が終わりに近づき、その構成が発表されると、アイヌが和人より低い位置にあるといって問題視されます。公開質問状が出され、新聞紙上の論争に発展しました。
変更を迫る声が出ても本郷は応じません。そもそも座っていることが差別であるはずがないのです。ところが時は70年前後の政治・思想運動の動乱期です。旭川の常磐公園に設置されたその像が72年、爆破されてしまいました。しかしこの犯罪は論争をした双方から非難され、5年後には復元されています。こうした行動を通して、本郷の彫刻にかける確固たる信念と真摯な姿勢がうかがえるのです。
小樽にアトリエを構えた1965年には同市内の「小林多喜二文学碑」を制作しています。費用は募金によってまかなわれました。そこにはイデオロギーを超えて、こころざし半ばで亡くなった1人の文学者の存在を後世にのこしたいという人々の思いがありました。
砂浜と海浜植物の群落が見わたす限り広がる石狩浜。その自然の中に「石狩-無辜(むこ)の民」という本郷の作品が横たわっています。除幕式が行われたのは1981年6月30日。札幌彫刻美術館が開館した翌日でした。アラブ、中東、インドシナ…、世界各地の戦争や紛争に本郷は心を傷め、罪なき人々という意味の「無辜の民」という15の小さな作品をつくりました。その中の1つの「虜われた人I」を拡大し、好きだった石狩浜に設置することが本郷の希望でした。しかし生前にはかなわず、亡くなった翌年に実現したのです。台座の中には本郷の遺骨の一部が納められています。
本郷について学芸員の井上さんはこういいます。
「本郷新は彫刻を庶民的なものにしたいと思って活動し、それが野外彫刻という形でした。それにただ単に制作するだけでなく、交渉ごともできた。ですから公共的な仕事もたくさんできたのです。人当たりも良く、人の面倒見もよく、後輩への目配りをしつつ制作もした。反骨精神が旺盛で信念を持って行動し、敵を怖れず突進する本郷に対して、周りがあわててついて行くというようなこともあったようです。そんな親分肌の彫刻家だったそうです」
数々の作品を各地に残し、歴史の晴れやかさ、悲しみなどの情念を具体的な形として現代にそして未来にと伝え続ける本郷の作品。私たちはそれからさまざまなことを感じ取ることができます。そのすべてを集約し、整理し、保存しているのがこの美術館です。
しかしその運営は楽ではありません。ぎりぎりの状態でやってきたというのが実態です。予算は限られ、建物は1981年の開館以来、補修の手を入れることができませんでした。スタッフは4人のみで、2館別々ですから少なくとも各館に1人はいなければなりません。休館は週に1日。スタッフはかろうじて週休2日ですが、それ以外の年休など取れる状態ではありません。
今年2007年に彫刻美術館は新たな段階に入りました。(財)札幌彫刻美術館が3月31日に解散し、建物や作品はすべて札幌市に寄贈されて、4月1日からは「本郷新記念札幌彫刻美術館」となったのです。運営主体は(財)札幌市芸術文化財団へと統合され、新たな歩みを始めています。同財団は、芸術の森、コンサートホールキタラ、教育文化会館など札幌市の施設や財産の指定管理者として受託運営しており、本郷新記念札幌彫刻美術館もその中に入りました。
新たな体制でまた新たなうねりが起きるのか。幅広く大衆の心をとらえる作品づくりに徹し、マネジメントにも長けていた本郷は、天国からその移り変わりをしっかり見守っているに違いありません。
より開かれた美術館に
本郷新記念札幌彫刻美術館 館長 川合悌一さん
全国的にも美術館なり博物館はなかなか事業的に成り立っていかないという状況があります。美術館はふつう人がやって来て鑑賞、観覧しますが、敷居が高いのかなかなか足が進まない。そこで子どもたちにここでデッサンをしたり物を作ったりしてもらい、その体験を通じて高い敷居を取り除き、将来のリピート客になっていただくようにと思っています。
美術館から歩いていける範囲に円山動物園と札幌ウインタースポーツミュージアムがあり、館長、園長が定期的に集まってその連携の相談をしています。動物園は自然環境や生命、ミュージアムはスポーツ、健康、そして美術館は豊かな感性を育てる芸術。三角に結んで子どもたちを育むゾーンになればと話し合っています。
たとえば、お弁当を持って円山動物園から始まり、荒井山から大倉山のウインタースポーツミュージアムに上って、ここに下りて来る。3カ所で使える割引券をつくって、もしその日だけで使えなかったら別な日でもいいよと。
今年の札幌ノルディック世界大会のとき、スポーツミュージアムで当館の像を2日間だけ展示しました。またそのことがあって外国からのお客さんに帰りぎわ当館に立ち寄っていただきました。これからもできる範囲で像を出前というか移動展示して、実際に見てもらったり、時間をとって作品を模作してもらう。そういうことを重ねながら開かれた彫刻、開かれた美術館にしていきたいと思っています。
子どもたちに触れてもらい、作品のつながりで各地との連携も
宮の森芸術フェスタ実行委員長 野崎泰男さん
彫刻美術館の庭で開催された去年の第1回宮の森芸術フェスタではチェロ奏者の土田英順さんをお招きし、金曜の夕方だったにもかかわらず400人に来ていただきました。それで第2回のフェスタは、大人も子どもも楽しめるように土日の2日間でやろうと計画を進めているところです。
美術館には地元、宮の森の住民として10年くらい前から関わってきました。私も絵を描いていて、人に教えたりしていたものですから、なんとか応援できないかと思って。
去年から彫刻の清掃も始めました。大人もそうなんですが、子どもたちが触れる機会をつくろうということもあって。いまの子どもたちはテレビとかゲーム感覚でものを覚えていきますが、彫刻の場合は実際に見たりときには触ったりできます。芸術とか美術とかいうと堅苦しくなりますが、だれでもできることなんですよ。だれでも隠れた才能を持っている。作品を見たり触れたりすることで、子どもたちのいろいろな才能を引き出し、個性を伸ばしていく。それが大切だと思っています。
本郷新の作品は全国各地にあります。そこでその地域の人々と提携できないかと準備を進めています。市と市の姉妹提携といった大きなものではなく、町内とか、小さい地域で、こことつながりをもってもらおうと。とりあえずお手紙を差し上げて、何かの機会があれば連携してやりませんか、また北海道においでになるときには、連絡していただければいろいろな情報を差し上げますよと。そういうことを少しずつ増やしていければと思っています。
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本郷新記念札幌彫刻美術館
〒064-0954 札幌市中央区宮の森4条12丁目
電話・FAX 011-642-5709