仏文学者D氏は戦後の一時期、北大で教鞭をとったことがある。久しぶりに訪れた北大構内を散策しながら氏はしみじみと言った。
「長く生きていると、同じ場所の、いくつもの時代の記憶が折り重なって見えてくるんですよ。ここもそうですが、例えば銀座も、戦前の銀座、焼け跡の銀座、復興期の銀座、高度成長期の銀座、現在の銀座、といった具合で」。
その時間の幅は、ゆうに60~70年に及ぶわけである。私でさえ、30年ぶりだの、40年前には、などという会話がふつうに出る年齢になって、D氏の言う場所と時間の妙味がいくらか分かりかけてきた。
昨年秋、北見紋別を訪ねた。88年前ここを訪れた祖父が旅行記(※)を残していて、それがたいそう面白かったからである。
千葉の小作の家に生まれた祖父は、富農の山林で働くうちに植林造林を生涯の仕事と思い定め、北海道にやってきた。北見への旅は定住地を探索するため、そして当時紋別で、渚滑川流域の山林を一手に治め威勢を誇った富豪:飯田嘉吉を訪ねることが目的だったようだ。貧しい境遇から立身したあこがれの飯田、その広大な木材工場を目の当たりにした感激を、祖父は切々と書きつづっている。
さて縁は思いがけないところからやってきた。私は祖父の足跡をたずねた旅のことをネットの日記に書いた。突然、横浜からメールが届いた。飯田嘉吉氏の子孫の方だという。
実は、祖父が紋別を訪ねてわずか4年後の大正11年(1922年)、飯田は、風水害による渚滑川の出水で多量の材木を流失、さらに翌年の関東大震災のあおりで全ての財を失う。そして身内にも多くを語らず失意のうちに東京で亡くなった。したがって、私の祖父の文章は、北海道における飯田嘉吉氏の業績を語る、数少ない証言なのだった。80年余の時間と空間を飛び越えた不思議な出会いは、インターネットの賜物である。
ところで、高層ビル建設ラッシュが続くJR札幌駅東側エリア。創成川を越えたところに、娘が乳児期から3歳までお世話になった保育園があった。
園が移転して使われなくなった建物は空き家のまま十年ほど残っていたのだが、先日、ついに姿を消した。それでもそこに通った短い時代、共にあった人たちのぬくもりは、道筋の記憶やまちのたたずまいから充分に感じとることができる。
そして場所にまつわる縁は、くり返し新しい縁を招いて積み重ねられる、というのが私の実感である。札幌市内でいえば3~4ヶ所ほどの特定のエリアが、時を経て何度も、私にとって重要なまちとして登場してくる。この北3条東界隈もそのような場所のひとつで、いくつもの縁がちりばめられている。
いつの日か、紋別あたりとの縁が深まるかもしれない。100年の時間を超える場所との出会い、そしてひととの出会いがある、かもしれない。
※「十勝植林記~父・仲田市太郎の想い出」(筆者は母の飯塚ちどり)に所収