木が好きで、手に取り香りをかいだりして、実際に触れるたびに、木はいいものだと感じる。
しかし、木、特に木工に使用できる太い広葉樹になると年々確実に少なく、貴重なものになってきている。ここ旭川でも、二、三十年前までは多量にあったという樹種の多くが、ロシアや中国、その他の外国産のものになっている。
数十年、あるいは数百年かかって育ち、伐採された木が、数年かかって乾燥、製材などの過程を経て木工の材料として使えるようになり、ようやくわれわれ木工屋の手もとにやってくる。
そうやって長い時間をかけてやってきた木を、例えば一枚の厚板を刳り、削って仕上げる「刳り物(くりもの)」という方法でお盆を作るとなると、その材のほとんどが鉋屑となり、おが屑になる。お盆になって残る部分はほんのわずかである。特に値の張る材料を使うときは、高い金を払って、高価なおが屑をひたすら産み出しているようなものである。
それでも、何の工夫もしなければ、それは単なる木材以上ではありえない。
「何十年、何百年を生きてきた木を削り、加工をして、その木に新しい命をふきこむ―というよりも、木のなかに在る新しい命になろうとするものを探り出す―ことにより、この後、何十年と大切に使われ続けるモノを作る」ことが木工屋の仕事であり、常にそういう「思い」を抱いていなければならないのだとつくづく思う。
安易な、その場限りの仕事の誘惑は、いつでもすぐ隣にいるのだから。
その「思い」を実現させるために、十分な技術やセンスが必要なのは言うまでもない。技術やセンスは一朝一夕には向上しないとしても、この「思い」を持つことはすぐにできる。また、今どきこういうスタンスで仕事ができるのが木工屋の特権である。
ただし、この特権にはメリットはほとんどなく、あるのは大いなる自己満足と、少しのお客さんの笑顔、そして死ぬまで付きまとう貧乏神との共同生活。昔から「木工屋には貧乏とおが屑が付いてまわる」という言葉があるらしい。
Dog yearという言葉さえ、もう遅すぎるといわれるこの時代にあって、「何十年、何百年かかってつくられたモノを、新しい別な形にして次の何十年か先に託す」なんて、さしずめWood yearとでも言ったらよいのか。この期間の考え方、世の中の端っこの方でもしぶとく、したたかに生き残ってほしいと祈る日々である。
そのために今、自分は何をするべきか、やらなければならないことは山ほどある。