2007年6月初旬、札幌市生涯学習センター「ちえりあ」の視聴覚センター。その映像編集室に藤本さんと、アメリカ取材のパートナーで英語が堪能な影山あさ子さんの姿がありました。影山さんは撮影した映像のダイジェストを使い、戦争する国アメリカの現実を講演しに歩いています。それ用のビデオを手直ししているのです。
「100人以上の人たちから話を聞きましたが、強く感じることはアメリカの人たちがとても苦しんでいるということ。戦争へ行った青年、イラク行きを拒否した兵士、兵士の家族、路上で暮らす人たち、劣化ウランの後遺症に悩む元兵士、イラクで子どもを失った親たち。日本の近未来にも見えました」(影山さん)
藤本さんは昨年(2006年)10月から11月にかけてと今年2月、そして3月から4月にかけての計3回、影山さんも6月の渡米を合わせて計3回アメリカ取材を行いました。
実際そのダイジェスト映像は、日本で暮らす者にとって衝撃を与えるものでした。戦争をするということは、たとえ国土が戦火に見舞われなくとも、国民に計り知れない犠牲を強いるのです。
テキサス州クロフォードにあるブッシュ大統領の牧場前に座り込んだシンディ・シーハンさん。彼女の息子ケーシーはイラクで戦死しました。座り込む彼女のもとには、イラクで死亡した息子をもつ母親などがおおぜい集まり抗議の声を上げています。次々に読みあげられる戦死者の名前と年齢…。残された家族の気持ちはどんなものなのでしょうか。
運良く負傷せずに帰還した兵士も無事では済まされません。PTSD(心的外傷後ストレス障害)に冒されるのです。野球選手になることが夢だったダレル・アンダーソンは、高校生のときガールフレンドが妊娠し、生活のために軍隊に入りました。そしてイラクに派遣され100人以上を殺しました。無事帰還しましたが、かつてのような生活はできません。悪夢に悩まされ続けています。
「普通に歩いていたら急に誰かと戦う羽目になったり、周りが死体だらけだったり、暴力と怒りにあふれていて、それから逃げようと必死に目を覚ます…」
PTSDはイラク戦争からの帰還兵だけではありませんでした。ベトナム戦争の元兵士なども苦しめられ、それは家庭の荒廃を招いて、子ども、さらには孫たちへも大きな苦しみをもたらすと、アメリカの精神科医が語るシーンも撮影されています。
イラクでは女性兵士も前線に送られます。ある女性兵士が母親に泣きながら電話をかけてきました。
「12歳くらいの若者を撃ったと。彼がライフルで撃ってくると思ったので殺した。そして死にゆく彼の目を見たと。彼はまだ少年で自分の家族を守ろうとしただけだったと。」
またイラクで娘が上司にレイプされた母親は、現役兵士である娘の代わりにそのことを訴え続けています。イラクの米軍内では言葉によるセクハラは日常だといいます。女性兵士は本来の敵だけでなく味方の兵士からも身を守らなくてはならないという過酷な環境に置かれます。
ニューヨーク州兵のハーバート・リード元軍曹は自衛隊が駐留したサマワに派遣されました。刑務所の再建が任務でしたが体調不良となり30日で帰国しました。体中の痛み、湿疹、甲状腺の腫瘍、血尿、血便、抑うつ、などの症状で、数時間おきに10数種類の薬を飲んでいます。肺の機能も低下し酸素マスクが欠かせません。同じ部隊にいた15人全員が同じような症状に苦しめられ、体内からウランが検出されました。リードさんは日本の自衛隊員の健康を心配しています。
イラク行きを命令されて拒否した兵士たちに藤本さんたちは会うことができました。その中の将校で初めて拒んだアーレン・ワタダ中尉は軍法会議にかけられました。支持者たちを前にした言葉には、仲間だった兵士たちが死んでいくことへの無念さがにじみ出ています。
「みなさん、罪のない兄弟姉妹たちがいったい何のために死んだのか。解放、自由、民主主義、テロとの戦い。言われているような大義はどれもあてはまりません。それどころか我々がイラクにいることがテロを拡大し続けています。彼らが何のために死んだのか、ずっと考えてきました。そして1つの答えに至りました。彼らは私たちのために死んだのです。私たちが2度とこのような戦争を繰り返さないために」
軍に対して静かに抵抗する老人たちがいました。オレゴン州ポートランドの軍の募集センターの入口を封鎖しています。警察官に「このまま座り続けますか」と聞かれて「ハイ」と答えると、逮捕されます。ある女性は「世界のほかの場所では私たちみたいなことをすると、撃ち殺されてしまうような場所もあります。私たちに権利を行使する自由があるなら、そうした人たちのためにも私たちがやらないと」
4千億ドル、日本円で50兆円。アメリカの連邦予算の50%が軍事費に費やされ、福祉予算や教育予算が削減されています。アメリカの大学は公立でも年間2万ドル(約250万円)かかり、大学に行けない若者に「奨学金がもらえる」と軍のリクルーターは甘い言葉で誘います。しかし実際は軍に行っても行かなくても奨学金の総額は変わりません。元海兵隊員のパブロは高校生たちにその事実を伝え、スペイン語を話せることから全米からの電話相談を受けています。移民の子など英語が話せない若者まで兵士としてかき集められているのです。
高校生たちにアメリカの軍事予算がどれほどのものか、目の前でお菓子のクッキーを重ねて説明するシーンがあります。4千億ドルをクッキー40枚とすると、初中等教育の予算は3枚半、子どもの健康ための予算は4枚にすぎません。そして『悪の枢軸』と言われたイラク、イラン、北朝鮮の軍事費は3カ国合わせてクッキー1枚にも満たないのです。
アメリカにはホームレスが300~350万人もいるといわれています。全人口は約3億人ですから100人に1人以上の割合です。そのホームレスの4人に1人、男性ホームレスでは3人に1人が戦争の帰還兵です。
藤本さんが言います。
「アメリカは国土が戦場になってこなかったので、戦争の悲惨さは想像できなかったと思います。でも戦死者が3500人にも及び、誰がどこで死んだかを伝えるテレビ番組もある。帰還しても無事ではない。そんな兵士やその家族は大変な数にのぼり、一般の人々もそうした戦争の悲惨を理解し始めました。アメリカ社会がカネの面でも人の面でもイラク戦争を支えきれなくなっています」
「ぼくたちはブッシュ大統領がどう言ったとか、大きな声しか聞くことがありませんでした。でもアメリカに行って小さな声、1人では力を持たない人たちの声がたくさん聞けました。アメリカの人々が口をそろえて言っていたのは、いったん戦争を始めたら止めることがほんとうに難しいということです。戦争を始める前だったら何とかなるかもしれないが、戦争をする国になったら泥沼に足を踏み入れていくしかないことを日本人に伝えて欲しいと。この映画を観てもらって戦争をする国にならない、その1つの力になればと思っています」
さて今回の映画は藤本さんが代表をつとめる森の映画社(新得町)が自主制作しており、資金は募金でまかなわれます。費用は1千万円ほどにのぼりそうですが、ビデオカメラを使った撮影で、かつてのフィルムの時代とは費用が文字通りケタ違いに少なくて済むそうです。華々しいドキュメンタリー映画制作の裏側にあるのは、泥くさくて地道な資金集めなのです。藤本さんは常にその中に身を置いてきました。
「アメリカでの撮影は長期間やってきたので、たぶん1千万円くらいかかると思いますが、フィルムの時代だったら1億近くかかったんじゃないでしょうか。1988年にぼくが助監督で5ヶ月間アフガンのロケをやったときには7千万円かかりましたが、そのときと同じくらいのスケールですので」
ビデオ編集ならパソコン画面で簡単にできますが、フィルムではそうはいきません。ネガで撮影し、それをまずラッシュと呼ばれる編集作業用のポジフィルムに焼き付けます。ドキュメンタリーはほとんど16ミリフィルムで撮影されますが、400フィート(約120m 約10分)のネガフィルムは2万円、ラッシュをつくれば3万円かかり、素材費だけで1時間あたり30万円くらいになってしまいます。撮影するカメラやテープレコーダーも高価なので、1日3万円ほどでリースします。
人件費もまったく違います。撮影にはプロカメラマンが必要で、また録音スタッフなどを合わせると4~5人になってしまいます。いまならビデオカメラの性能が良くなり音も録れるので、1人だけで撮影できないこともありません。
藤本さんの代表作の1つ「闇を掘る」(2001年)は炭鉱で生活した人々の姿を収めたドキュメンタリーです。制作委員会を結成し、個人の募金、企業からの寄付金、国や道、市町村などからの補助金で2500万円を集めましたが、かかったのは4千万円。各地での上映会などを積み重ねながら少しずつ返済してきました。
「闇を掘る」の制作は1994年から準備が始まります。当時、小規模な露天掘りを除くと道内には歌志内市の空知炭鉱と釧路市の太平洋炭鉱の2つが残るのみ。そして空知炭鉱が親会社の北炭(北海道炭礦汽船)の倒産によって閉山となるのです。1995年、撮影は始まりました。最初にフィルムに収められたのは閉山する空知炭鉱のシーンでした。
「闇を掘る」は炭鉱の内部や炭鉱マンや家族の生活、思いなどを幅広く記録しています。生産を続ける太平洋炭鉱の採炭現場や鉱夫たちの表情が映し出される一方で、草木が茂る山野に戻った炭鉱の跡も映し出されます。炭鉱町で生きた人々の暮らしが語られ、坑内事故の悲惨さ、職業病である塵肺の苦しみ、そして炭鉱での思い出を引きずりながらも新たな環境で生きていく人々の姿も追います。
「闇を掘る」は6年の歳月をかけ、数多くの人々の協力を得て制作された1時間45分の大作ですが、これまで藤本さんが一貫して追及してきたテーマからはちょっと外れていたといいます。
「炭鉱の映画はじつは自分の中でも特別なものなんです。助監督のときも含めて撮ってきたのは環境破壊と戦争のことです。ぼくは四日市ぜんそくで全国に知られた三重県四日市市で1954年に生まれました。水俣病の胎児性の患者さんがたくさん生まれた年でもあり、ビキニの水爆実験で第五福竜丸が被爆し、それをきっかけに映画『ゴジラ』が制作された年でした。大学時代は水俣の運動をずっとしていました。20世紀後半は環境破壊、それに戦争の時代だと思っています。その時代に生まれた者としてこの2つのテーマをずっと追い求めていこうという気持ちがありました」
藤本さんは早稲田大学政治経済学部を卒業後、「水俣-患者とその世界」など水俣病の作品を作り続けていたドキュメンタリー映画監督の土本典昭さんのもとで助監督になります。そのテーマは原発にもおよび下北半島の漁業者に降りかかる原発・原子力船問題を撮った「海盗り―下北半島浜関根」(1984年)、さらにはアフガニスタンの内戦を撮った「よみがえれカレーズ」(1989年)などを制作、藤本さんが助監督をつとめます。
そして初の監督作品となったのが「教えられなかった戦争-侵略・マレー半島」(1992年 高岩仁さんと共同監督)です。
「太平洋戦争の初期にマレー半島で起こった出来事について元兵士などを訪ねて撮った映画です。ハワイ攻撃と同時に陸軍がマレー上陸作戦をやるのですが、12月8日未明と決めているので、波が高かったにもかかわらず50キロの荷物を担いで海に飛び込み数多くの溺死者が出ました。そしてシンガポールまで進軍するのですが、中国系住民に不信感を持っていて、次々に殺していく。ある二等兵は刑務所に入れた200人くらいの中国系住民を突き殺して埋めたという話をしてくれました。今の日本の平和憲法はアジアの人々の犠牲と日本人が大陸の土となり太平洋の藻屑となってできたものだ、と言っていたのが印象的でした」
藤本さんの初の監督作品は自主制作であって、普通の映画館では上映してもらえません。札幌のシアターキノのようなミニシアターがない時代で、地域で実行委員会をつくってもらい、自主上映してもらうしかありませんでした。1992年、藤本さんは試写用のフィルムを持って北海道にやってきます。38歳でした。
「水俣病の運動をやっていたときの知り合いが北海道に2人いたので、まず試写会を開いてもらおうと。フィルムを入れたカバン1つ持って。寅さんと同じですよ。札幌や帯広、旭川で試写会をしているうちに2週間のつもりが1ヶ月になり、考えが変わってきて。ドキュメンタリー1本つくるのに最低2千万円はかかる時代で、環境や戦争がテーマではスポンサーも付かない。東京に帰っても次の作品はできそうにありません。それよりは地域を回ってしっかり上映することで、次の映画をつくったときにまた上映してくれるつながりができる。北海道でたくさんのおもしろい人々に出会ったし、おもしろいテーマもある。ここで本腰を入れてやってみようと思ったんです」
1995年、藤本さんは新得町に定住し、森の映画社を設立します。しかし映画づくりの構想は頭で描けても現実問題としてできる環境がありません。特にフィルムの映画で必要不可欠なスタッフがいないのです。プロに来てもらうカネもありません。そこで映画づくりをしながら若いスタッフを育てました。藤本さん自身、学校で映画づくりを学んだわけではなく土本監督の助監督をしながら技術を身につけたのです。まず始めたのが「SHINTOKU空想の森映画祭」でした。
「新得には映画館もないしドキュメンタリーを観たことがある人なんて数えるほどしかいない。そういう人々にドキュメンタリーのおもしろさが分かってもらえないと映画づくりの土壌もできないと思って映画祭を始めました。もう1つの理由はドキュメンタリーを観ておもしろいと思う若者に出会いたかったんです。そういう人に一緒に映画づくりをしようよ、と」
そして制作を始めたのが町内の名山トムラウシの自然をテーマにした映画「森と水のゆめ」でした。長いときには20日間もトムラウシ山頂付近にとどまり東大雪の自然を撮っていきました。その中で2人の映画人が育ったといいます。1人は田代陽子さんで、現在、十勝の大地に根ざして生きる人々を撮った初の監督作品を制作中です。また写真家が本業の小寺卓矢さんは写真絵本「森のいのち」(2006年 アリス館)を刊行しました。
2006年、藤本さんの新しい作品「Marines Go Home(マリンズ ゴーホーム)-辺野古・梅香里・矢臼別」が完成します。沖縄の米軍普天間(ふてんま)基地の移転計画で住民が反対行動を続けている辺野古(へのこ)、米軍が射爆場として使い、その砲弾やすさまじい音によって死者や病人を生み出していた韓国の梅香里(めひゃんに)、そして自衛隊の射爆場で米軍も使っている北海道の矢臼別(やうすべつ)。日本や韓国で演習や作戦を展開するアメリカ軍と、そのまっただ中にいる住民たちをとらえた映画で、北海道アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(北海道AALA)が企画し、藤本さんの森の映画社が制作しました。
この映画ではアメリカ軍に抵抗している姿は映し出せても、当事者であるアメリカ軍そのものはほとんど何も捉えていませんでした。
「沖縄で撮影できなかったところの1つが米軍基地の中でした。アメリカ軍の人たちは、ときどき基地から出ては来るけれども、その人たちがどういう人間で、どういう経験をしたかといったことが分からない。アメリカの人たちは本当はどう思っているのか、実際にイラクで戦争を体験した人たちはどう思っているのか、それをちゃんと見なければと思ったんです」
こうして「アメリカ-戦争する国の人々」(仮題)の撮影が始まりました。アメリカ各地で「Marines Go Home」の上映会を開きながら取材していきます。自分の監督作品を自分で上映しながら、共感者の輪を広げ、次の作品につなげていく。初の監督作品から変わらない藤本さんのスタイルです。
藤本さんは戦前・戦中に幌加内町の朱鞠内湖や猿払村の浅茅野飛行場建設で、犠牲になった人々の遺骨を掘り起こしながら、若者たちが国を超えて交流した「東アジア共同ワークショップ」を撮影しており、順次編集を進めています。また戦争末期の満州で婦女子400人余りが集団自決した麻山(まさん)事件で生き残った人の証言などを日本国内や中国で取材中です。
「ぼくはドキュメンタリーは希望を描くものだと固く信じている」という藤本さん。その希望は、過去や現在の現実を見すえることで初めて生まれます。
2007年6月、日本では自衛隊の情報保全隊が、イラクへの自衛隊派遣に批判的な市民を監視し情報収集していたことが明るみに出されました。シビリアンコントロール下に置かれているはずの自衛隊が秘密裏に国民の監視行動をしていたのです。また道内の自衛隊で同僚からわいせつ行為を受け、上司に相談したら退職を強要されたという女性自衛官が国家賠償請求を5月に札幌地裁に提訴し、その裁判が始まりました。
国会では6月20日に自民公明両党が、イラク特措法の2年延長を押し切りました。2004年7月に4年間の時限立法として成立した法律を継続させるものです。以来、イラクで自衛隊が活動していますが、その内容は国会でも具体的に明らかにされておりません。今はもっぱら多国籍軍のための輸送を行っているといいます。
日本はアメリカとの戦争によって国土が戦場となるという悲惨な経験をしています。しかしそれ以前には現在のアメリカのように他国に戦争を仕掛け、兵を送っていました。1937年(昭和12年)には盧溝橋事件をきっかけに全面的な日中戦争に突入し、日本軍は中国各地に進軍していきます。そして中国が悲惨な戦場となり、日本兵にも多大な犠牲が生じたのです。
当時、言論の自由が制限され、特に中国に進軍する政府への批判などほとんどできない時代にあって、それを川柳という形で試みた人がいました。
屍(しかばね)のゐ(い)ないニュース映画で勇ましい
手と足をもいだ丸太にしてかへ(え)し
若き川柳作家、鶴彬(つる あきら)が「川柳人」(281号 1937年)に載せた句です。この強烈な政府批判で鶴は治安維持法違反に問われて逮捕され、長期拘留中に赤痢にかかり、死亡しました。
アメリカの現実はけっして他人事ではありません。かつて日本が経験し、そして今、また同じような状況が見えつつあるのです。私たちはこの映画で、そんな現実に向き合わなくてはなりません。そして同時に希望も見いだしていかなくてはならないのです。
映画「アメリカ-戦争する国の人々」は2007年9月14日から17日にかけて開催されるSHINTOKU空想の森映画祭で試写が行われ、一般公開は11月からの予定です。
森の映画社
〒081-0039北海道上川郡新得町新内
電話・FAX0156-64-3923
Eメール mail@marinesgohome.com
同社ではこの映画の制作に当たって、協力金等を募集しています。
[ 資 料 ]
・イラクでの戦死者のリスト(CNN.com)
―イラクにおけるアメリカ人戦死者は2007年7月現在3,500名以上にのぼります
・「アメリカ 戦争する国の人々」予告編ビデオ
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