ウェブマガジン カムイミンタラ

2007年09月号/ウェブマガジン第17号 (通巻137号)  [特集]    

夢の追える社会をつくるために
植松電機 植松努さんの挑戦 ―赤平―

  住宅ローンや教育費などで縛られた大人たちが時間と精神の自由を失い、子どもたちが語る夢さえも頭から否定されてしまう現代日本。宇宙開発に取り組む中小企業として知られる植松電機(赤平市)専務の植松努さん(41)はそんな社会から決別するために『住宅にかかる費用が1/10、食費が1/2、大学教育が0』という生活を想い描き、その実現を広く世間に問いかけています。

モデルロケットに歓声

2007年(平成19年)7月20日、植松さんは札幌市手稲区の星置東小学校で6年生たちと一緒にモデルロケットを組み立てていました。モデルといっても火薬を使った本格的なもの。パラシュートも組み込まれ、打ち上げられたロケットは空中で頭部が外れ、パラシュートを開いて下りてくる仕組みです。午前中の2時間を使って子どもたちが1機ずつロケットを組み立て、思い思いのシールを貼ったり模様を描いたりしながら『マイロケット』を完成させます。

イメージ(モデルロケットづくりを指導する植松さん)
モデルロケットづくりを指導する植松さん

午後は植松さんを講師にスライドを使った1時間ほどの授業。宇宙開発の話とともに、小学生のころから飛行機やロケットを夢として持ち続けた自分の経験も話していきます。これから子どもたちが必ずぶつかるであろう『夢と現実』について、植松さんの話は明確です。

「進学とか仕事とかを夢と一緒にしてはいけません、夢とは好きなこと。だから1つでなくたくさんあっていい。仕事とは社会のためにすることなんです」
「どうせ無理、やったことがないからできません、という言葉はきょうから使わないでください」

イメージ(1時間ほどのお話ですが子どもたちは真剣です)
1時間ほどのお話ですが子どもたちは真剣です

この授業には父母たちも多数参加し、時おりうなずく姿が見られました。植松さんが語りかけたのは子どもたちですが、本当に訴えかけたかったのは大人たちだったのでしょう。

放課後のグラウンドに「サン」「ニィ」「イチ」という子どもたちの声が響きます。秒読み「ゼロ」でロケットエンジンのスイッチオン。シュルシュルという音と白い煙を残してロケットは空に向かって上昇していきます。3階建て校舎の2倍の高さくらいまで上がったでしょうか。

イメージ(ついに打ち上げ。マイロケットが宙に飛び立ちます)
ついに打ち上げ。マイロケットが宙に飛び立ちます

初めて見る者にとって、その迫力は想像以上です。子どもたちも同様で、目を丸くして見上げています。でも2機3機と飛ばしていくうちに慣れてきて、友だちのロケットの秒読みをしながら、マイロケットの発射を今か今かと待っています。思いもよらない楽しさをクラス全員で味わっているという一体感が、大きな秒読みの声からも伝わってきます。子どもたちだけでなく、先生も、親たちも興奮状態です。植松さんはそんな雰囲気を感じながら、ロケット発射の世話を黙々とこなしていました。

この中から1人でも…

植松さんがこうした授業を始めて1年半になりますが、実施した学校は60を超えました。今年(2007年)7月には旭川、札幌、岩見沢、また札幌と子どもたちの授業をこなしました。8月に入っても寿都、函館と教室を開いています。しかし学校でこうした授業を行うのは簡単ではありません。前例がないなどの理由で断られることがほとんどです。

イメージ(学校の扉を開くのは「宇宙」)
学校の扉を開くのは「宇宙」

「『宇宙』というと学校が玄関を開けてくれるんですよ。子どもたちに物づくりについて伝えたいと、うちの製品のマグネットを使ってやろうとしたんですが、実現しませんでした。いち企業の行為である、ということなんでしょうが、『宇宙』というと先生たちも興味があるようで、開けてくれやすくなるんです」

もちろん『宇宙』が万能ではありません。そのときに力を発揮するのがPTA、子どもの親たちです。親たちの働きかけと先生たちの理解が、ロケット授業を成立させているのです。

モデルロケットは小学生が遊ぶには高価です。ふつうに買うと4千円にもなります。特別に安くしてもらっていますが、それでも高価であることに変わりありません。これまで1500機ほど飛ばし、その負担額は200万円以上になります。でもこれは投資であって安いものだと植松さんは考えています。

イメージ(マイロケットは個性いっぱい)
マイロケットは個性いっぱい

「1500人の中のたった1人でもいいからロケットが大好きになって、うちの会社に就職してくれる子が出たらボロ儲けです。ふつうの人をロケット大好きにして知識を持たせたら2年くらいかかります。800万とか900万とかかかります。それがたった200万の投資で手に入るんです」

世間の一般常識から一見はみ出ているような植松さんの行動ですが、その裏には解りやすい明確な理論が存在します。これはモデルロケットの費用負担と自社の事業を結びつけて損得勘定をしてみる例にとどまりません。すべてにおいて裏付けが存在し、それは理論的ではあるが頑固でもある一流エンジニアの体質そのもののようです。

身近だったものづくり

イメージ(植松努さん)
植松努さん

植松努さんは1966年(昭和41年)、北海道のほぼ中央部、炭鉱のまちだった赤平市のとなりの、やはり炭鉱まちだった芦別市で生まれました。現在、植松電機の社長である父親、清さんはマチの電気技術者としてさまざまな仕事をしていました。また鉄板でモーターボートをつくって空知川に浮かべたり、『007』の映画を見ては水中スクーターをつくり、これも手づくりのプールで試験してみたりといろいろなものをつくり出す人でした。

努さんが小さいころ、バッテリーで動くゴーカートをつくってくれたことがあります。最初は充電してくれましたが、そのうち子どもたちに充電方法を教え、子どもたちだけで走らせていました。2軒となりは馬の蹄鉄屋さんで、向かいが鍛冶屋さん。溶接作業をじっと見ていて、目を痛めたこともあります。ものづくりが身近にある環境で植松さんは育ったのです。

宇宙や航空機にあこがれるきっかけになったのがアメリカのアポロ計画だったようです。ようです、というのは、本人がまだ3歳で記憶が残っていないためです。1969年アポロ11号が人類初の月面着陸に成功します。植松さんは祖父の膝の上でテレビ画面を見ていたそうです。その記憶はありませんが、祖父が興奮していた感触はなんとなく体が覚えている気がしています。

家ではプラモデルが禁止されていたので、もっぱらペーパークラフトで飛行機をつくっていました。また関連の書籍もたくさん買い集めました。小学3年のころは飛行機の重心位置などを電卓を使って計算するようになっていました。

母の「思いは招く」が支え

飛行機や宇宙にあこがれ、のめり込んでいた植村さんですが、進路を決める中学生のとき、その思いは打ち砕かれます。将来、航空機や宇宙開発に進みたいと先生に話しましたが、返ってきた言葉は「芦別に生まれた段階でそれは無理」というもの。頭から完全否定されてしまったのです。航空宇宙の分野に行くなら東京大学に進学する必要があり、それは絶対あり得ない、という先生なりの理屈でした。

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父親にも理解してもらえません。受験勉強をせよとの一点張りで、ペーパークラフトや航空宇宙の本は捨てられてしまいました。しかし植松少年はあきらめません。捨てられた本はちゃんと拾ってきて、今も残っています。植松さんは子どもの頃から本が好きで、特に伝記などをたくさん読みました。現在も出張で各地を訪ねると必ず書店をのぞきます。ときには10万円単位で本を買ってしまうそうです。

さて、絶望のどん底に突き落とされた植松少年でしたが、救われたのは母幸子さんの言葉でした。『思いは招く』と幸子さんは何度も植松さんに聞かせてくれたのです。最近、植松さんは子どもたちにサインをねだられることがあります。そのとき必ず添えるのは『思いは招く』という文字です。講演のタイトルにもよく使っています。また名刺には「想い描く事ができれば、それは実現できる。」と刷り込んでいます。

高校の勉強はあまり熱心でなかった植松さんですが、北見工業大学に進学すると、勉学の意欲が復活します。専攻した流体力学が、かつて自分がのめり込んでいた飛行機や宇宙ロケットそのものだったのです。

卒業して就職したのが三菱系の菱友計算という会社でした。そして幸運にもその会社から派遣されたのが名古屋にある三菱重工業の航空宇宙部門でした。

「職場を訪ねたとき『このフロアはね、堀越二郎が働いていたところなんだよ』と言われました。あこがれていた零戦設計者と同じフロアで仕事ができる。まさに『思いは招く』だと思いました。人材派遣業を日本で初めて採用したのが航空機業界です。その網にうまく引っかかって、連れて行かれた先がそこだったんです」

航空機の開発・設計のほかに、新幹線やリニアモーターカーの先頭車両などにも取り組みました。

「700系というヘンテコな新幹線やリニアモーターカーの先頭部分は、僕たちがデザインしたものです。いずれもヘンテコすぎて最初はミソクソに言われましたが、試験をしていくうちに、これは性能がいいねと、認めてもらいました」

違和感つのった飛行機設計の現場

あこがれの航空機業界で水を得た魚のように仕事をしていた植松さんでしたが、4年ほど経ったころ、職場に違和感を感じるようになります。

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「空力設計という飛行機の形を決めるすばらしい仕事です。自分としては天国ですね。ところが百数十人が働いているフロアで、飛行機が好きだというのは僕ともう1人くらいしかいなかったんです。みんな飛行機のことをほとんど知らない。飛行機の名称もわからない。この飛行機って、あの飛行機に似ているから参考にすれば、と言ってもピンと来ないんです。飛行機を好きでもない人間が飛行機の設計をしているんです」

そのうち植松さんは職場を去る気持ちを決定づける、ある場面に出くわします。それはカナダのボンバルディア社から新しい小型ジェット機の開発を依頼された、その最初のミーティングでした。三菱重工業としては丸ごと1機の開発は久しぶりで、ミーティングには見慣れない老人たちが向こう側の席に並んでいました。

「先輩にあの人たちはだれ?と聞いたら、YS-11の生き残りだというんです。YS-11は堀越二郎、土井武雄、太田稔といった戦争中に戦闘機を設計していた人々が結集してつくった旅客機です。その爺さんたちの目の鋭いこと。プロジェクターで機体の三面図が投影された瞬間です。いきなり向こう側に座っていた年寄りが、エンジンの位置がおかしいから変えろと言うんです。言われた現役たちはびっくりしました」

カナダから来た仕様書で変えることができないと現役たちは言い張りますが、老人たちは納得しません。資料を探してきて検討してみると、ほんとうにエンジンがダメな領域に入っています。そこでボンバルディア社と連絡をとりましたが、その反応は拍子抜けするものでした。仕様書とされたものはただのイメージ図で、設計はすべて任せるというのです。

「これはダメだと思いました。ひと目見ておかしいと思って変えろと言った老人たちと、なんにも確認しないでただのイメージ図に従おうとした現役の設計者たち。俺は指摘をした側にいたかったと思いました。そして会社を辞める決心をしました」

リサイクル作業用マグネットで新市場を開拓

芦別に帰った植松さんは当時父親の主な仕事だった自動車電装品修理業を手伝い始めます。高度な技術を必要とする仕事でしたが、高度であるがゆえに消えゆく職業でもありました。なかなか技術者が育ちません。そんなこともあって、修理はトラブルのあったところに手を加えるのではなく、その部分を丸ごと取り替えてしまうという形になっていったのです。また芦別では炭鉱が閉山し、仕事が目に見えて減っていました。新しい仕事の開拓が必要でした。

イメージ(画期的製品でしたが、はじめは売れません)
画期的製品でしたが、はじめは売れません

目を付けたのが父親が製造していた電磁石(マグネット)です。そしてもう1つ目を付けたのが資源のリサイクルでした。その現場では廃棄物の中から鉄を取り出すためにマグネットを使っていますが、独自に発電機が必要な大型のものでした。しかし鉄を取り出すのにそんな大電力を食う大型のものは必要ないように思えました。そして植松さんは各地の現場を回って確信します。油圧ショベルなどの先に付けて使用できる小型マグネットあれば、それで十分ではないのか。費用が抑えられ、作業能率も上がります。

そこで重機の電源だけで稼働し、そのアタッチメントの先に取り付けて使用する小型で頑丈な鉄選別用マグネットを開発しました。これはリサイクル現場の作業行程を変える画期的なものでしたが、つくってはみたものの売れません。それまでなかったものなので、使うほうがピンと来ないのです。

経営はどん底となり、体調まで狂わせる苦しい月日が過ぎていきます。そんな中で植松さんはひたすら提案書を書くという仕事に没頭しました。これには図面をつくったり書類を書いたりした航空宇宙産業での経験が大いに役立ちました。こうしてマグネットを1つまた1つと売り込み、新たな市場をつくりあげていきました。

問題はほかにもありました。ユーザーに届くまで何段階もの業者を通すため、価格はどんどん高くなってしまいます。それにもかかわらずアフターサービスは結局は自分のところに回ってきて日本中に出張しなければなりません。そこで価格を抑え、利益を確保するために、ユーザーに届くまでの中間業者の数を減らしていきました。

アフターサービスのためにシステムも変えました。マグネットの制御盤に自己診断機能を持たせ、故障があれは、そのパーツをユーザー自身で丸ごと交換できるようにしたのです。パーツは宅配便で送るので、すぐに直して使うことができます。こうしたマグネット製品が植松電機の主力となり、父親と2人だけだった事業所も従業員が必要な会社へと発展していきます。

航空宇宙の世界ふたたび

2000年(平成12年)、植松電機は芦別市のとなりにある赤平市の工業団地に工場を新設し、会社も移転しました。芦別市内にも工業団地はありましたが、そこは進出企業しか入れず、地元企業は対象外でした。

2004年、植松さんは北大で行われていたロケット開発を知ります。当時助教授だった永田晴紀さんと学生たちが試作を重ねていたポリエチレンなどのプラスチックを液体酸素で燃やす独特のロケットで、これまでの液体燃料または固体燃料を使うロケットとは異なり、個体と液体の両方を使うことからハイブリッドロケットと呼ばれていました。

「エンジン1つをつくるのに90万円もかかるので、1年に1個しかつくれない、エンジンを壊してしまうと論文が書けなくなるので、壊さない試験しかできないと言っていました。でも不安要素があれば、何回も試験してその1つ1つを潰していくしかないんです」

そのためにはロケットを安くしなければなりません。北大のロケットはほとんど特注品でできていました。しかし設計を少しずつ変えれば規格品が使えて時間も節約できます。そこで製作の舞台は植松電機に移され、学生と社員の手によってCAMUI(カムイ)と名づけられたロケットがつくられ始めます。何度も燃焼実験が行われ、改良が加えられてどんどん進化していきました。費用も下がり、いまでは8千円ほどの材料でロケットエンジンができるまでになりました。

イメージ(世界に3つしかない無重力実験塔が植松電機に)
世界に3つしかない無重力実験塔が植松電機に

植松電機で行われている『宇宙開発』は大まかに4つに分類されます。1つ目がロケットの開発です。2つ目は無重力実験で、2005年に建てた57mの実験塔の上からカプセルを落下させ、カプセルの中を無重力状態にして、さまざまな試験を行います。こうした施設はドイツに1つ、岐阜県に1つ、そして北海道の赤平と世界に3つしかありません。近くの上砂川町に炭鉱の立て坑跡を利用した実験施設がありましたが、あまりにも費用がかかるので2002年に閉鎖されてしまいました。そのため上砂川で実験していた人たちに頼まれて植松さんが自腹で建てたのです。

「ドイツでは5秒の実験を1回やるのに120万円かかります。岐阜は4秒で90万円。上砂川にあった施設は7秒で250万円もかかりました。うちのは3秒ですが、無料で使ってもらっています。お金がかかりすぎると、費用を捻出するために、計画書とか申請書とかを書かねばならず、『結果がどうなるか分からない』なんて書けばお金は出てきません。それじゃ奇蹟につながらないんです。試しにやってみるか、という環境をつくらなければと思って無料運転しています」

イメージ(このカプセルの中が無重力になります)
このカプセルの中が無重力になります

2006年の1年間で350回もの試験が行われました。この実験塔は、ほかに建設を頼めば3億はかかると言われたそうですが、社員が設計して3千万円かからずに完成させたそうです。ほかの施設もそうですが、植松さんは銀行からお金を借りることはあっても、補助金をもらっていません。「もし補助金を受けたりすると、多くの人は、あいつらうまくやりやがって、と思うでしょうし、あとに続く人もみんな補助金を探すだけの人間になってしまう気がします」という理由です。

米国の民間宇宙開発と交流

イメージ(プラスチックが燃料のCAMUIロケット(札幌駅での展示「北海道の宇宙開発」にて))
プラスチックが燃料のCAMUIロケット(札幌駅での展示「北海道の宇宙開発」にて)

3つ目は小型人工衛星の開発で、北海道工業大学などと共同で製作しており、2006年に種子島から打ち上げられたM-Vロケットに積載されて地球を周回する軌道に乗り、いまも稼働しています。そして4つ目がアメリカのスペースシャトルの次代を担おうという民間会社、ロケットプレーン・キスラー社との交流です。

ふつうの小型ジェットのような機体にジェットエンジンとロケットエンジンの両方を搭載しているのが「ロケットプレーン」です。滑走路からジェットエンジンで離陸し、上空でロケットエンジンに切り替えて一気に上昇、宇宙空間に到達してから地上に戻って来ます。この計画に植松電機が取り組んでいる『宇宙開発』4部門のうち、期せずして2部門が大いにかかわっていました。

1つはCAMUIロケットです。これまでのロケットエンジンは燃料に水素や石油または火薬といった危険物を使うため、安全管理のための制約があり、コストがかかりました。もし爆発して燃料が飛び散ると大変な事態を招くので、さまざまな対策が必要なのです。そこで1基当たりの安全管理コストが同じなら、打ち上げる重量あたりの費用を低くするには大型化しかなく、世界のロケットはどんどん大型化していきました。

ところがCAMUIロケットは燃料がプラスチックなので、たとえエンジンが爆発してバラバラになっても、燃料のプラスチックは燃えにくいので安全です。植松電機では燃焼試験を住宅のすぐそばで行っていますが、そんなことができるのもCAMUIならではのことです。

ロケットプレーンの構想では機体のお腹の部分に小型ロケットを抱いて離陸し、宇宙空間でそれを発射させて衛星を軌道に乗せる事業もありました。CAMUIロケットは、ふつうの滑走路から飛び立つ宇宙船に取り付けるものとしてはぴったりだったのです。

そしてロケットプレーンは機内で得られる無・微重力空間を使ったさまざまな実験の場も提供する計画です。でもいきなり宇宙空間で実験するよりも地上で予備試験ができればそれに越したことはありません。ただし高コストなら元も子もない。その無重力実験施設が、それもタダで使わせてもらえる施設が赤平にあったのです。そんなことで植松さんとロケットプレーンの創始者でロケットプレーン・キスラー社副社長チャック・ラワさんとの交流が始まりました。

「どうして我々が必要としていた2つのものがここにあるんだ?と聞かれて、たまたまじゃないのと。僕らは微少重力実験の予備実験環境と爆発しないロケットを彼らに提供する代わりに、彼らからスペースシャトルの技術をもらえばいいわけです」

夢によって育まれる人々

イメージ(宇宙開発で植松電機の社員は大きく変わりました)
宇宙開発で植松電機の社員は大きく変わりました

こうして植松電機の宇宙への挑戦は思わぬ成果を次々に生み出していきました。ロケットを担当している社員は高価な専門書を自分で購入し、付箋だらけにして勉強しました。そして国内の学者や学生だけでなくアメリカに行って対等に話せるまでになったのです。

「ロケットをつくっているのは工業高校を中退し、ラーメン店で働いていた人です。僕が行けないので代わりにアメリカに行ってくれと頼んだら、英語がぜんぜんできないから行けないと言います。それでも強引に行かせたら、ロケットをやっている人たちとなんの問題もなくコミュニケーションができたと喜んで帰ってきました。専門用語が英語なので通じたんですね。ただレストランで何も注文できなかったと…」

植松電機では工場の見学会などがあった場合、できるだけ社員の家族にも来てもらい父親たちがどんな仕事をしているか見てもらっています。

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「『うちの子が将来私と一緒にロケットをつくりたいと言うんですよ』とか、別の社員は『うちの子が小遣いはたいてトランジスタの本を買ってきちゃったりして』とか、うれしそうに言うんですよ」

宇宙開発によって植松電機の社内は大きく変わりました。社員の意欲や能力はどんどん高まり、その影響は家族にも及んでいます。

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「できるだけ効率を良くして工場の稼働率を下げる努力をしています。そして社員にはPTA活動などに積極的に参加しなさいと言っています。忙しく働いているばかりではスキルもモラルも高まりません」

そもそも航空宇宙開発がどこの国でも国家プロジェクトになっているのは、その技術や意識が他産業に波及し、それがまた航空宇宙開発を発展させるためだと植松さんは言います。

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「宇宙開発とか飛行機の開発というのはどこの国でも国策でやります。お金がかかるからと思うかもしれませんが、そうじゃないんです。価値があるからなんです。この世界は常にモアを目指すんですよ。より高くより速くより遠く。アメリカやヨーロッパでは航空機の開発プロジェクトが終わると全員解雇され、一般産業に吸収されます。一般産業ではこういった人たちを優遇します。自動車産業やらIT産業やら、いろんなところに航空宇宙の人たちが入り込みます。そしてまた飛行機やロケットをつくるときに自動車の技術やITの技術や繊維の技術をもった人たちが集まってくるんです。新しい技術を持った人たちが航空宇宙産業を変えていきます」

ロケットプレーン・キスラー社は広大なアメリカのほぼ中央、畜産が盛んなオクラホマ州のオクラホマシティにあります。民間による新たなプロジェクトのために2001年に設立され、航空宇宙の技術者たちが全米から結集、2008年のロケットプレーン試験飛行、2009年の商業飛行を目指しています。

「宇宙」に取り組んだもう1つのわけ

社員に地域活動をすすめる植松さんですが、PTA会長など自身も地元で積極的に活動しています。7月の「あかびら火まつり」ではたいまつを持った赤ふんどし姿で街を走ります。

ふつうの単なる企業活動だけでなく宇宙開発や地域活動も行う企業体にしていったきっかけの1つに、地域のボランティアで訪れたあるところでの強烈な体験がありました。植松さんは無力感に襲われ、新たな決意を固めるのです。北海道新聞の「朝の食卓」というコラムで植松さんはこう書いています。

      ☆  ☆  ☆

以前、ボランティアをしている知人に誘われて、とある養護施設にもちつきに行きました。児童虐待で家に帰れない子どもたちの施設でした。かわいそうな目に遭ったことが信じられないぐらいかわいい子どもばかりでしたが、表情に硬さがあり、準備をしている僕たちを、遠くからじっと見つめていました。

しかし、もちをつく光景が不思議だったのか、だんだんと子どもたちが集まってきて、最後にはきねに手を添えて、一緒にもちをつくようになりました。二升のもちを残さず食べてくれて、帰り際には、おんぶにだっこに肩ぐるまで「帰らないで」の合唱です。

そのとき、私の前に一人の男の子が立ちました。
「おじさん、赤平なの? 僕も赤平なんだ。ぼくんち知ってる? あそこの角を曲がって、何番目のおうちで、青い屋根で、花壇があって…」

この道案内を、僕は最後まで聞くことはできませんでした。
「どうして君は、殺されるような目にあったのに、おうちに帰りたいのか…」
 いくら会社を経営していたって、業績が上がっていたって、この子一人助けることができない自分の無力さに気がつきました。

この時のことを思い出すだけで、今も泣けます。なぜなら、まだ僕は誰も救えていないから。救えたと思える日まで、毎日だって泣きます。(2005/04/23)

      ☆  ☆  ☆

人間性を取り戻す社会を

植松さんたちにとって宇宙開発とは夢です。いくら努力しても終わりがありません。だから永遠に夢が夢として存在し続けると植松さんは考えています。植松さんにとっての目的は宇宙開発ではありません。目的はこの現代社会の改革です。

「最近になって偽装問題がどんどん発覚しています。ミートホープもそうですが、社長の命令に逆らえなかったと。もちろん逆らえなかった人が悪いのですが、なぜ逆らえなかったかというと、いろんなことで人生を縛られてしまっているからなんです。家のローン、子どもの教育費、それをカタとしてとられているので働かなくてはならない。白いものを黒と言い続けて我慢しなければならなんです」

給料は上がらないのに労働時間だけがどんどん長くなり、ローンや子どもの学費が重くのしかかります。働く者たちは経済的にがんじがらめにされ、会社を辞めたくても辞められません。賃金の低い派遣労働者が増加し、人口の一極集中はますます加速しています。働く者たちは人間性を失い、その子どもたちは夢をつぶされ意欲をなくしてしまう。これが日本の現実でしょう。植松さんはこうした現実を打開するために、3つの目標を掲げました。

「まずやりたいのは住宅の建築コストを今の10分の1にすること。食費を半分にすること。大学のコストを0にすること。こんなに高い住宅を売っているのは日本くらいなものです。アメリカやオーストラリアなんかも住宅のコストは10分の1です。なぜかといえば日本のように30年くらいで寿命が来たと家を解体しないからです。ライフラインがダメになるから寿命が来る。水道管がダメになれば取り替えればいいだけなのに、日本の家は結局壊さなければならない構造なんです」

コストのかからない大学とは、それぞれの企業が場所を提供し、学生はそれを巡回するというもの。校舎や設備、教員の給料も必要としないので、ほとんど経費のかからない大学をつくることができます。そして食費は、農業の形を変え、これまで余るほどつくっては廃棄していた食品工場のシステムなどを見直すことで半分にできると考えています。

目標に向かって歩み出す

2006年12月、植松電機の構内に植松さんと北大教授の永田さんが出資した株式会社カムイスペースワークスが設立されました。北海道発の宇宙産業創造への寄与、地域社会に支えられた新しい宇宙開発の実現などを目的とし、宇宙関連機器の開発・販売、実験の請負、教材の開発などを行っていく会社です。北大でも植松電機でもない新たな法人として宇宙関連事業を担えるようになったのです。

2007年8月4日早朝、十勝の大樹町でCAMUIロケットが打ち上げられました。これまでの燃焼試験の失敗から、基本的な内部構造を変更し、何度も燃焼試験を積み重ねたうえでの打ち上げでした。これには多くの地元の人々が協力し、機体回収には漁船3隻が参加しました。

8月10日には北海道新聞社主催の「夏休み宇宙実験教室」が植松電機で開かれ、モデルロケットの製作・打ち上げ、無重力実験やロケットエンジンの燃焼試験の見学など盛りだくさんのメニューで子どもたちが楽しみました。社員たちが総掛かりで子どもたちの世話をして、その顔はみんな優しく楽しげでした。

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メイン会場となった植松電機の第3工場は1階が工作機などが置かれた作業場で2階には70人ほどが入れる会議室と8つの小部屋があって、人工衛星の開発、ロケットの開発などのスタッフに割り当てられ、宿泊できるようになっています。植松さんの思い描く大学が形になってきたのです。

植松さんは住宅建設についても研究を始めています。講演を聞いた建設業者から「今の1/2にならできる」という話があったそうです。メンテナンス費用があまりかからず何世代も使えるなら、1/10はあながち不可能な数字ではないのかもしれません。

こうした生活環境がつくられれば、人材の移動が可能となり、赤平だけでなく日本のどこでも夢を追う挑戦ができるでしょう。赤平での新たな挑戦はすでに始まっていますが、これはなにも植松電機ひとりの課題ではありません。企業や個人みんなに投げかけられた課題なのです。

[関連サイト]
カムイスペースワークス
http://www.camuispaceworks.com/

北海道宇宙科学技術創成センター
http://www.hastic.jp/

ロケットプレーン・キスラー・ジャパン
http://rocketplane.jp/

関連リンク植松電機  http://uematsu-electric.fte.jp/

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