ウェブマガジン カムイミンタラ

2007年11月号/ウェブマガジン第18号 (通巻138号)  [特集]    

作って、観て、語り合う
空想の森映画祭 ―新得町―

  今年で12回を数える十勝・新得(しんとく)町のSHINTOKU空想の森映画祭。上映されたほとんどの作品の監督らが来町し、人々の暖かい歓迎を受けながら、映画上映、コンサート、ワークショップ、豊かな食材を使った交流パーティなどが続きました。作る側と観る側が渾然一体となったこの祭典では新たな試みも始まっています。

元小学校に集合

イメージ(新内ホール)
新内ホール

新得町は十勝平野の北西に位置し、人口約7300人。農業と林業の町で、特に良質なソバの産地として有名です。会場となった新内(にいない)ホールは元新内小学校。校舎正面には樹齢100年にはなろうという柏の木が1本立っていて、まさに山里の小さな小学校というたたずまいです。新得町新内地区は早くから過疎化が進み、小学校は1974年に閉校しました。その校舎が1994年になって改装され、新内ホールとして新たな歩みを始め、時おりコンサートなどが開かれています。そして毎年の一大イベントがこの映画祭なのです。

イメージ(玄関に入ると看板とカボチャがお出迎え)
玄関に入ると看板とカボチャがお出迎え

建物に一歩踏み入れると、そこは今なお児童たちのにぎやかな声が聞こえてきそうな小学校そのものです。板張りの廊下はギシギシきしみ、黒板には1974年当時そのままの書き込みが残されています。壁には児童たちの遠足の絵と作文が飾られ、棚には幻灯(スライド)のフィルムなど昔の教材が並べられていました。

イメージ(オープニングパーティ)
オープニングパーティ

映画祭のメイン会場は、職員室と教室をぶち抜き、天井板を取り払った「ホール」。9月14日(金)の夜、前夜祭であるオープニングパーティが開かれました。テーブル上にはさまざまな料理が並べられ、次々に新たな料理も運ばれてきます。チーズは全国的に高い評価を受けている共働学舎新得農場から、料理に使われているジャガイモなどの野菜は地元新得町の農家で第1回の映画祭から実行委員をつとめている宮下喜夫さんの農場でとれたもの。そのほか参加者が持参した食材、日本酒、ワイン…。映画祭のオープニングは豊かな飲食物に彩られた味わい深いものでした。

イメージ(カフェ キネマの片隅)
カフェ キネマの片隅

こうして幕を開けた映画祭ですが、このあとも朝食から夕食までの食事、そしてビールやワイン、焼酎などの飲物ほかが17日の最終日まで途切れることはありませんでした。なにしろ近くには民家もまばらで、商店や食堂がある新得町の中心部に行くには10キロほど車を走らせなければなりません。遠来の人が宿泊したホテルもやはり10キロは離れています。そのため食事の用意は不可欠なのでしょうが、飲食の場が参加者の交流の場となって、アットホームな雰囲気をつくりだしています。

この映画祭の実行委員長は新得町在住のドキュメンタリー映画監督、藤本幸久さんです。直前にロシアの映画祭に招待され、オープニングには間に合う予定でしたが、主催者の手違いでロシアからの出国が遅れ、実行委員長不在の幕開けとなってしまいました。それでも事務局担当の田代陽子さんや野田尚さんが中心となり、翌日から3日続く映画祭本番は、朝10時から夜中の12時近くまでという1日をフルに使ったプログラムが、滞りなく進行していきました。

手わたしの報道、顔の見える上映

1日目のトップが京都在住の中井信介さんのドキュメンタリー作品「クアリ」でした。フィリピンの米軍基地周辺で暮らす人々を長期取材した作品で、不発弾の爆発で死傷者を出すなど、米軍の駐留や演習がもたらす悲劇がくり返されながらも、その一方で米軍に依存しなければまともな生活ができない地域の人々をとらえた映画でした。

イメージ(中井信介さん)
中井信介さん

中井さんはほとんど1人でビデオカメラを操作し、住民から話を聞き、そして映像を編集し、ナレーションも自分の声を入れています。「手わたしプレス」という名刺を持ち、それは自分の作品を人から人へと手渡しして伝えていくという手法を表しています。新得映画祭の会場は30~40人ほどで一杯になる空間です。上映後、中井さんはフィリピンの現地事情のほか「手わたし」へのこだわりについて話しました。「手わたし」は、劇場映画で大ヒットをねらうとかマスメディアに載せるといった方向とは正反対のようです。

「僕は名刺に『手わたしプレス』と書いていますけれども、テレビとかよりも上映会で手わたしで報道する、手わたしの報道というのを理想としていて、これからもずっとやっていきたい。こういう映画祭が理想というか、あこがれです」

この日の夕方5時から上映された新井ちひろさんの「そして、どう生きる?」はカメラワークや編集がいかにも素人然とした作品です。それもそのはずで新井さんは重い障がいを持つ人の介助の仕事をしており、そして映画の主人公は介助していた障がい者その人。カメラを家具の上に載せるなど、工夫しながら日常生活の様子をとらえています。

イメージ(新井ちひろさん)
新井ちひろさん

そこに映し出された現実は複雑で深刻です。主人公たちの障がい者グループは、手違いによって介助者の賃金の一部を未払いにするという問題を起こします。未払いは長期に及び、簡単に支払える額ではありません。主人公はグループを代表してその対応に当たるという任務を課せられるのです。介助なしでは生きられず、つねにストレスを抱える重度の障がい者が、雇用主として介助者たちに相対しなければならない。障がい者そしてその生命を支えながらも労働者である介助者の苦悩がストレートに伝わってくる作品でした。

2日目の朝1番に上映されたのが「ゆらりゆらゆら」という映画で、シンガーソングライターの阿部ひろ江さんの活動を追った下之坊修子さんの作品です。阿部さんが日本各地を訪ね、その地に生きる人々との交流が映し出されていきます。

イメージ(阿部ひろ江さん)
阿部ひろ江さん

下之坊さんは大阪で映像発信のグループ「てれれ」を主宰しています。上映機会の少ないショート作品を数本まとめて1時間ほどのビデオ番組をつくり、喫茶店など10数ヵ所で上映会を開いていく「カフェ放送てれれ」や、そのビデオをケーブルテレビで放映する「市民チャンネル・てれれ」という活動をしています。「カフェ放送」には制作者も出向くことが多く、制作者と客双方からの顔と顔が見える関係を大切にしています。下之坊さんは、空想の森映画祭に「てれれ」と似た雰囲気を感じたそうです。

イメージ(下之坊修子さん)
下之坊修子さん

「ショート作品をつないで1時間くらいにしたビデオを2ヶ月に1回つくって、いろんなところで上映しています。まったく素人さんが撮ったものでもおもしろい作品がありますし、中には東京ビデオフェスティバルで大賞をとった作品もありました。いろいろな人が自分の思いを出していく、当事者自身が表現することをもっともっと応援していきたいと思っています。この映画祭と『てれれ』は、制作者の人に来てもらって、見たあとワーワー話し合うというのがよく似てますね」

映画だけでない映画祭

この映画祭はドキュメンタリー映画監督の藤本さんが東京から新得町に移り住んだことで始まりました。

1992年藤本さんは初めて監督した作品「教えられなかった戦争-侵略・マレー半島」(高岩仁さんと共同監督)のフィルムを携えて北海道にやってきます。上映会の下準備のため、その試写会を開こうとやってきたのです。知り合いを頼って道内を回り各地の人々と交流した藤本さんでしたが、特に魅力を感じたのが新得の人々でした。

1995年に新得町に定住した藤本さんは「森の映画社」を設立、そこを拠点に映画づくりを始めます。そして地元の人々にドキュメンタリー映画のすばらしさを知って欲しいと始めたのが空想の森映画祭でした。また単に観るだけでなく、自分と一緒に映画づくりに携わる人が現れてくれればという願いも込められていました。

第1回の空想の森映画祭は96年5月2日~6日(5日間)に開催されました。映画祭実行委員会と北海道新聞社との共催で、新内ホールだけでなく新得町の中心部にある町公民館も使われました。ゲストとして女優の夏木マリさんや映画評論家のおすぎさんが呼ばれています。

第2回は97年10月30日~11月3日(5日間)で、新内ホールや新得町公民館だけでなく隣町の鹿追町民ホールも会場となりました。98年(3回)は9月12~15日(4日間)、そして99年(4回)から季節が夏になり7月16~20日(5日間)に開催されました。

イメージ(屋外でもさまざまなプログラムが組まれてきました)
屋外でもさまざまなプログラムが組まれてきました

2000年(5回)には6月に移って18日~25日(8日間)と長くなり、新たに豊之進劇場が加わります。これは新内ホールに近い農家のかまぼこ型をしたD型倉庫を利用したもので、その中にスクリーンや芝居の舞台がつくられました。劇場の名前は映画祭のスタッフから慕われていた故・小川豊之進さんにちなんでいます。

6月開催は05年(10回)まで続き、豊之進劇場は03年(8回)まで使われました。また期間は、01年(6回)が7日間でしたが、その後は3~4日間に縮小されました。そして06年(11回)07年(12回)の9月開催(4日間)と続いていきます。

イメージ(プログラムは夜遅くまで組まれています)
プログラムは夜遅くまで組まれています

内容も映画上映や関係者のトーク、対談といった映画関係だけでなく、コンサート、舞踊、演劇、人形劇、大道芸、講演、そしてワークショップでは、アニメーション作り、そば打ち、豆腐作り、パン作り、生糸づくり、さらには昆虫観察、ピクニック登山など多彩なプログラムが組まれてきました。

新たな映画祭へ

12回を数える歴史の中で期間や会場の数が変化してきた大きな要因はその資金にあると実行委員長の藤本さんはいいます。北海道新聞社との共催は初回から同じですが、新得町や北海道文化財団から補助を受けていた時期のピークには事業規模が300万円までふくらみました。

その後、財団や町からの補助がだんだん減少し、ここ2年は共催している道新からの資金のほか、町内外の約50の企業・団体からの協賛金が30万円、入場料や飲食物の売上が30万円の合計100万円程度となりました。たとえば35ミリフィルム映画を上映すれば映写機や技師に30万円ほどかかり、それにフィルム料、さらに監督を招待すれば旅費も必要です。そのため2年前から35ミリの上映は行われていません。

こうした資金的な変化とともに、日本の映画を取り巻く環境も変化してきました。減り続けてきた映画館ですが、都市部ではシネマコンプレックスで盛り返し、またシネコンで上映されない映画も各地でミニシアターが開館し、私たちがさまざまな映画に出会う機会はグンと増えています。十勝でも帯広にミニシアター系の「CINEとかちプリンス劇場」がオープンしました。

資金や映画上映の環境が変化する中で空想の森映画祭が今回から始めたのが上映作品の公募でした。条件は制作者が映画祭に自費で参加すること。中井さんも新井さんも下之坊さんも公募に応じて参加しました。この方式は、資金難のための苦肉の策といった一面はあるものの、10年以上の映画祭の歴史で培われてきた観る人と作る人が交流を深めながら進めていく祭典の延長線上にもあるのです。

イメージ(藤本幸久さん)
藤本幸久さん

「僕はあまり意識していなかったけれども、今は表現の時代で、表現したい、表現したものを上映したい、観て欲しいという人が多いことを改めて感じました。もちろん技術的に上手下手はあるんだけれども、自分の作品を持ってきて観てもらおうという強い気持ちと熱があって、それが観る人に伝わってくる。実行委員の反省会でも、これについては良かったという話になりました」(藤本さん)

歌って踊り、飲んで話す

イメージ(宇井ひろしさん)
宇井ひろしさん

2007年の映画祭では期間中の3日間にショート作品を除いて9本の公募と招待の作品が上映されました。そのうち制作者または制作にかかわった人が来られなかったのは1本だけでした。また今回も近くの農家で実行委員でもあるシンガーソングライター、宇井ひろしさんのライブ、阿部ひろ江さん(京都)のライブ、山北紀彦さん(アフリカパーカッション=道南・厚沢部町)と皆吉恵理子さん(奄美のシマ唄=同)とのライブが行われ、映画上映の幕間にもピアノソロなどのミニコンサートが何度かありました。

野外でのワークショップ「廃油でロウソクを作ろう!」では、天ぷらなどで使った食用油を集めてBDF(バイオディーゼル燃料)を製造販売している帯広市の地球防衛商店が全面協力し、子どもたちがきれいなロウソクを作りました。

イメージ(山北紀彦さん)
山北紀彦さん

そして期間中途切れることなく提供された食べ物は、おでん、ソーセージといったお祭りの定番から、本格的な手打ちうどんまで。ビール片手に映画を観ては、それぞれの話題で語り合います。山北さんのコンサートでは強烈な打楽器のリズムに乗って観客が踊り出し、まさに飲めや歌えやのお祭り騒ぎです。それはまるで新内小学校の卒業生たちが毎年集まっては開いている同窓会のようでした。

 最終日のさよならパーティは午後3時半から。しかし全部の客が帰ったのは夜中の12時を回っていました。最後のパーティは毎回夜遅くまで続くのだそうです。

イメージ(皆吉恵理子さん)
皆吉恵理子さん

パーティに使われた野菜を提供した宮下さんは第1回から実行委員をつとめています。第2回まで裏方としてびっしり映画祭にかかわりましたが、第3回からは季節的にも農家の仕事が忙しく、あまり活動していません。しかし映画祭は続き、宮下さんも期間中は無理してでも時間を作り映画祭に参加しています。最終日にはジャガイモやニンジンの出荷準備を終えてからやってきました。

イメージ(宮下善夫さん)
宮下善夫さん

「最近は最初の実行委員会と反省会に出る程度ですが、よく続いてきたなという思いがあります。毎年見る顔もあるし、新しい顔もある。しばらく来なかったと思ったら、またやって来る人もいます。規模が小さいので、ラフな準備をしてもできるのかといえば、そうかもしれませんね。なんとかなるやろという感じで」

「理想の集団」で運営

イメージ(田代陽子さん)
田代陽子さん

司会などをつとめた田代さんは第2回から実行委員としてかかわってきました。また藤本さんの助監督などをしながら映画づくりを学び、初の監督作品「空想の森」を制作中で、もうすぐ完成の見込みです。今回は完成間近の映像が公開されました。また隔年で開催されている山形国際ドキュメンタリー映画祭にも10年前から毎回出かけており、実行委員会や外国の監督などと交流してきました。

「私にとっては両方とも大事な映画祭なんです。山形は自分が世界とつながっているなと思える映画祭で、新得は自分の表現の場でもあるし、仲間とつながっていると感じられる映画祭です」

藤本さんや田代さんが映画制作の追い込みに入っていることもあって今回の映画祭は長年実行委員をつとめてきた野田尚さんが委員長代理として事務局の仕事のほとんどを担いました。帯広でデザイン工房「ねこまたや」を営んでおり、空想の森映画祭のホームページも野田さんの手によるものです。

イメージ(野田尚さん)
野田尚さん

「1銭ももうからんのに、走り回ったり、交渉したり、頭を下げたりできるのは、マスコミに乗らないような、こういう現実があるんだよということを知らせたいという思いがあるからです。ふだん観ている、ふだん触れているものだけが現実ではないんだよと」

京都出身でアングラ芝居に没頭するなどさまざまな経験を持つ野田さんは、この映画祭は独特な集団によって運営されていると感じています。

「こういう集団はまれだと思います。はっきりした政治理念があるわけでもなく、指揮系統があるわけでもないし、強力なリーダーシップを持つ人がいるわけでもない。ただ好きで集まってきている。細かいトラブルはいっぱい起きます。連絡不足で迎えに行く人がいないとか、宿がとれていなかったとか。でも失敗を責めない、非難しない。そしてプラス指向。そんな信頼関係があって続いています。ある意味で理想的な集団だと思います」

そこがこの映画祭の特色なのでしょう。制作者、観客、スタッフそれぞれが気持ちに余裕を持って参加し、それが新たな交流を生み出し、個々の意識を高め、創作に結びついていく。その場が元小学校であり、人を育むような何らかの力が働いているのかも知れません。

2008年の空想の森映画祭では、藤本さんの「アメリカ-戦争する国の人々-」と田代さんの「空想の森」という主催者が監督をつとめる2作品が上映されます。また藤本さんや田代さんがほかの映画祭などで見つけた外国の作品も上映され、もちろん今回好評を得た作品の公募も行われる見込みです。地域に根ざし、その時々のさまざまな事情を反映させながら、集った人々が自然にお互いを育みあう、そんな映画祭がこれからもずっと続いて行ってほしいものです。

第12回空想の森映画祭の主なプログラム
9月14日(金)
 オープニングパーティー
9月15日(土)
 「クアリ」(中井信介監督) 中井監督トーク
 「闇を掘る」(藤本幸久監督)
 「そして、どう生きる?」(新井ちひろ監督) 新井監督トーク
 「ウリハッキョ」(金明俊監督)
 「アメリカ~戦争する国の人々~」(映像レポート 藤本幸久監督)
   藤本監督・影山あさ子(インタビュアー) トーク
9月16日(日)
 「ゆらりゆらゆら」(下之坊修子監督) 阿部ひろ江ライブ+下之坊監督トーク
 ワークショップ「廃油でロウソクを作ろう!」(by 地球防衛商店)
 「空想の森」(完成間近作品 田代陽子監督)田代監督+登場人物トーク
 「馬頭琴夜想曲」(木村威夫監督) 林隆美術監督トーク
 宇井ひろしライブ
 「妄想の森映画祭」
9月17日(月・祝)
 「精霊のモリ」(宮武由衣監督) 宮武監督+高間賢治撮影監督トーク
 ライブ「アフリカの太陽、奄美の風」山北紀彦+皆吉恵理子
 さよならパーティ

関連リンクSHINTOKU空想の森映画祭  http://kuusounomori.com/

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