ウェブマガジン カムイミンタラ

2008年01月号/ウェブマガジン第19号 (通巻139号)  [ずいそう]    

不思議なご縁
末岡 睦 (すえおか むつみ ・ 酒亭すえおか経営/小樽)

「七福神の弟子」<br>版画:宝賀寿子
「七福神の弟子」
版画:宝賀寿子

「的矢(まとや)の牡蛎が届いたのでぜひに」と、昨年11月、お客さまのHさんを店にお誘いしました。的矢湾は、山から三本の川が流れ込む三重県志摩半島の栄養豊かな入り江のひとつで、ここで育った牡蛎はたいへん美味しゅうございます。紫外線を利用した無菌に近い養殖でも知られ、「清浄的矢かき」はお客さまにおすすめするにも安心です。

私が小樽に居酒屋を開いたのは1967年(昭和42)のことです。小林多喜二も伊藤整も息を切らせてのぼったという、あの地獄坂の途中です。

多喜二が「財閥の屋敷町」と称したこのあたりは、当時、テニスコートのついた三井、三菱、日本銀行、海運関係の公宅がならび、いまはその見事な石垣の上にお役所が建ちならんでいます。石原慎太郎・裕次郎兄弟も、子ども時代をこの近くで過ごしています。

私の店は灰緑色の洋館とも見える和風レストラン。自称「居酒屋」と申しておりますが、石狩川の川底に100年ちかくも沈んでいたタモやニレの巨木で建てたのが自慢です。お酒も飲めないのに居酒屋にと考えたのは、みなさんにこの木を見てほしかったから。警察や税務署などお役所を目の前に営業を始めて40年になりました。

Hさんのお父さまのUさんは、私の兄・達弥と小樽高商(現・小樽商大)の同級生で、ともにスキーの選手でした。ふたりとも全国大会で活躍、インターカレッジでも常に上位を占めていました。1936年(昭和11)のガルミッシュ・パルテンキルヒェンの冬季オリンピックに小樽高商から代表選手が選ばれたこともあって、それに続けという勢いです。戦争の影が見え隠れする中でシーハイル(ドイツ語で「スキー万歳!」)の声援も聞かれました。

Uさんの一家はあの当時、蘭島海岸に別荘をおもちで、蘭島での海の休暇は格別の楽しみのようでした。私の家は今と同じ小樽の緑町にあり、いつも人のたまり場になっていて、冬など玄関にはスキーがあふれていました。そんななかでUさんは際立ってスマートで、素敵なセーターやマフラーを身につけていました。ビーファイブという英国製の毛糸を教えられ、おかげで私たち家族も温かくて軽いセーターを着せてもらいました。

私も女学生時代にスキー選手でしたから、なにより珍しく、気になっていたのが、Uさんが毎日背にしていた細長いリュックです。いつも何かを詰め、重たかったからです。

卒業ちかいころ、Uさんやそのお仲間に連れられて十勝岳に登りました。ちかくの朝里岳や春香山には父に連れられて出かけていましたが、汽車に乗り富良野から吹上温泉を越えてのシールも凍る山行は、感激そのものでした。いらい山にとり憑かれ、人生のかなりを占めることになりました。あの重いリュックは、早くから山をめざしていたUさんのトレーニングだったのでした。リフトもなかったころ、大雪の盤の沢や黒岳に出かけたお正月がなつかしく思い出されます。

居酒屋はおかげさまで、たくさんの小樽のお客さまや著名な方々にご利用いただきました。兄やUさん、あのときのお仲間もたびたび集い、お店はたいへん賑やかに繁盛いたしました。

お店のかたわら、私の山行は機会をみつけては続きました。日本山岳会に入り、最初の山行になった台湾の玉山登山でのことです。ある女性が新婚旅行で参加されており、偶然にもそれがUさんのお嬢さんと知ってたいへん驚きました。いらい「酒亭すえおか」は、Uさんのお嬢さん、長男のHさんにも、たびたびお寄りいただいております。そうそう、次男のJさんや三男のKさんにもぜひお寄りいただきたい。

仕入れた的矢の牡蛎をながめながら、親子二代でご利用いただくのはなんとも不思議なご縁と思ったことでした。

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