札幌市西区のJR琴似駅周辺に立ち並ぶ真新しいビル群は、都市再開発によって誕生しました。駅前には30階、裏には40階のマンションがそびえ、そのほかにも大型マンションやショッピングゾーンが軒を連ね、しかもそれらの2階部分が渡り廊下でつながれ、冬でも快適な屋内空間を形づくっています。
この建物群の一角、駅裏(北口)の40階マンションと一体化した商業棟「ザ・タワープレイス」の奥まったところにコンカリーニョがあります。目立つ看板も、エントランスホールも、気の利いたオブジェもありません。ふだんはひっそしりていて、およそ芸術・文化とは無縁なたたずまいです。ところがイベント当日になると、その光景は一変、無機質な建物に人だかりができ、何の変哲もない金属のドアを開ければ、そこは別世界が広がっているのです。
2008年2月9日・10日の両日、コンカリーニョではミュージカル「オシャレな果実」が上演されました。これは大正時代の琴似村を舞台にした創作劇。今年の作品が3作目で1作目から「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る音楽劇」と銘打たれてきました。2006年の第1作「とんでんがへし琴似浪漫」は入植当時の屯田兵の生活や西南戦争出征を、2007年の第2作「蝶よ、花よ~琴似新劇団物語~」は昭和初期に実存した劇団を題材につくられました。
今回は大正時代、琴似村に農事試験場と工業試験場が設置されたころの農家を主題にしています。古くからの農業にかたくなに固執する農家の主人は、じつは次男で、長男は長く地元を離れて外国の技術などを勉強し、札幌農学校に戻ってきたばかりの学者という設定です。農事試験場が農家の女性たちを出面(でめん=アルバイト)として募集し、栽培を始めたのがリンゴでした。やがてそれが見事に実り、弟も新しい農業を認めて兄弟が和解するという筋書きになりました。
活動写真(映画)の弁士と楽士、農業指導に招かれたドイツ人の家族など登場人物は多彩で、場面転換もスピーディ、この芝居のためにつくられたオリジナル曲が場面場面を引き立てます。フィナーレでは、りんご園の絵をバックに就学前から60代までの役者24人全員で華麗な踊りを披露し、上演時間の1時間50分があっという間に終わってしまいました。
この役者さんたちはほとんどが札幌市西区在住か西区内で仕事をしている地元の人々です。地元の琴似に住む齊藤久美子さんは第1作から参加しています。きっかけは役者募集を知らせる町内会の回覧板でした。
「それまで家の外に出るのは買い物や主人がやっている会社の手伝いで銀行に行くくらいでした。でも時間ができるようになって、それからの人生をどうしようかと。列車で1人、海を見ながら小樽に行ったり、映画を観に行ったりしました。映画は楽しかったですが、映画館から出ると、私は何をやっていたんだろうかと罪悪感に襲われたり。そんなときに募集の回覧板が来て、とりあえず説明会だけでもと、会場のドアを開けたんです」
それからの人生はガラリと変わりました。特に昨年の2作目では劇団で男役をやらされる女性団員の役を演じ、役作りができずに眠れない夜が続きました。しかし公演の直前になって吹っ切れ、役を演じきることができたのです。今は、芝居だけでなく、コンカリーニョの活動を支えるボランティアグループ「カリット」のメンバーとしてイベント時の手伝いのほか、「おらコン通信」という手書き新聞の編集などをしています。
「周囲から今の生き方はうらやましがられています。琴似に住んで35年になりますが、それまでコンカリーニョのことはまったく知りませんでした。身近なところにこういう劇場があることを地元の人にもっと知ってもらいたいです」
田中久雄さんは日高で38年の教師生活を過ごし、定年後に琴似のマンションで暮らしています。街頭紙芝居など大道芸のボランティア活動を始めたころにコンカリーニョに出会いました。第1作では途中から体調を崩して役者を降り、裏方に回りましたが、2作目からは役者をつとめています。カリットのメンバーであるほか、コンカリーニョ以外のところでもボランティア活動をしています。コンカリーニョの魅力の1つは、使い方が自由であることだといいます。
「正月の餅つき大会とか、コマ回しだとか、畳を敷いて書き初めをするとか。指導者がちゃんとついてやっています。今の学校教育では時間もないし、できないことです。留学生が日本に来て、日本の文化に触れるようなことを、日本人ができなくっている。それには自由な場というものが必要だと思います。イス席を取り払えばワンフロアになっていろいろ使える。固定席の劇場ではできないことです。そういう意味でもコンカリーニョの価値は高いと思います」
コンカリーニョとは、この劇場の名称であり、NPO法人の名称でもあります。NPO法人コンカリーニョ(斎藤ちず理事長)は、この劇場を運営するほかに、「まちとアートをむすぶ」をコンセプトとして幅広い活動をしています。
その歴史は1995年に設立されたコンカリーニョから始まります。斎藤ちずさんは愛媛県出身で北大の医学進学課程に入学、ところが北大演劇研究会に入って演劇にのめり込み、医学の道を断念、大学を中退し、1986年に劇団「札幌ロマンチカシアターほうぼう舎」の設立に参加、役者としての道を歩み始めました。その練習や公演の場として目にとまったのがJR琴似駅の北側にあった昭和初期に建てられた札幌軟石の石造り倉庫でした。
大家さんだった日本食品製造合資会社会長の戸部謙一さんは文化活動に理解があり、快く貸してもらうことができました。ほかの劇団もこの石造り倉庫を借りて公演などを行い、だんだんと使用頻度が多くなります。そこで常設の小劇場、フリースペースとして運営していこうと設立されたのがコンカリーニョで、1口1万円で120万円を集め、簡単な改装と設備を入れて運営が始まりました。「コンカリーニョ」とは愛をこめて、といったスペイン語です。運営の主体は演劇人の斎藤ちずさんと照明家の高橋正和さんが中心を担い、ほかに2人のスタッフを抱えました。
芝居だけでなく音楽、踊り、パーティなど石造り倉庫ではさまざまなイベントが開かれ、知る人ぞ知る札幌の芸術拠点となっていました。そこに持ち上がってきたのが琴似駅北口の再開発計画だったのです。すでに駅前は再開発でショッピング街やマンションが建ち並んでいましたが、それと駅の北側を渡り廊下でつなぎ、40階建てという札幌のマンションでは一番高い建物を核にした再開発を行うというものでした。
コンカリーニョはそこで決断を迫られます。歴史的建造物としてこの建物を残してもらい、活動を続けるのか、同じような建物を探したりプレハブでも建ててここから立ち去るのか、それとも再開発で新たな施設をつくってもらうよう働きかけるのか。
この石造り倉庫は、梁(はり)などの木造部分の傷みが特に激しく、現在の建築基準にはとうてい絶えられない状態でした。補強するとなれば億単位の費用が必要です。現に、マンション住民の集会所として残され、FM三角山放送局が入っている「レンガの館」は億単位の費用をかけて補修されました。
NPO法人旧小熊邸倶楽部の代表として歴史的建造物の保存や保存支援の活動をしている東田(とうだ)秀美さんは、そのとき石造り倉庫をなんとか保存して活用できないかと関係者に当たっていました。
「歴史的建造物ということでは食品工場だったレンガづくりの建物と倉庫だった建物が、それに隣接する戸部さんの自宅も全部セットでした。そこで戸部さんや再開発の関係者にお会いして状況を教えていただきました。現実的に石造り倉庫をそのまま残すことは難しかったので、コンカリーニョの内部で移転すべきだという意見と、この地に再建するという意見に別れましたが、結局この地で再建しようとなったのです」
移転して建物を借りたり、プレハブでも建てれば、これまでと同じような費用負担で済むかもしれません。しかし再建となればまったく違います。再開発組合は、劇場を設置することには理解を示しましましたが、建物をつくって、その投資に見合った賃貸料を払ってもらうことが前提です。また劇場が立ち行かなくなっても、ほかに流用できるように、外側だけのいわばコンクリートの箱のようなものしかつくりません。コンカリーニョの再建を応援する建築士が試算したところ、劇場として機能させるには莫大な費用がかり、その額は1億円にものぼりました。
個人、企業からの寄付を募っても、1億円はとても無理です。そこで設備を絞り、最低限の費用として試算されたのが5千万円でした。
石造り倉庫を使ったコンカリーニョの活動は2002年で休止し、再建に向けた活動に入ります。2003年に斎藤ちずさんを理事長とするNPO法人コンカリーニョを設立、応援する不二家琴似中央店の2階に事務所を借り、募金活動を開始しました。しかしさまざまな試みをしたものの、思うような寄付は集まりませんでした。個人からの寄付はまずまずでしたが、企業からの大口寄付はほとんど獲得できません。不況が続き、かつてのバブル期のように寄付をどんどん出せる状態ではなかったのでしょう。
劇場を失ったコンカリーニョですが、再建までに募金活動に並行してさまざまな活動を展開します。その中心は地元に根付いた活動でした。
琴似商店街振興組合の感謝祭とタイアップした「琴似あーとdeバザール本通り」は2003年に始まりました。8月下旬の土曜日に、商店街やJR琴似駅前など数カ所で大道芸が連続して繰り広げられます。このイベントには地域との連携という大きなねらいがあったと、NPO法人コンカリーニョの理事の白鳥健志さんは言います。白鳥さんは都市開発や地域計画などを担当していた札幌市職員ですが、地域住民活動の大切さを痛感し、札幌市内ではなく隣の江別市野幌町で地域活動に取り組んでいました。現在はNPO法人えべつ協働ねっとわーくの代表をつとめています。
「たまたま道庁の文化振興課に出向していたときに、斎藤ちずさんが訪ねてきて紹介されたのが始まりでした。以前、再開発の仕事もしていて、琴似地区で再開発のコーディネートをしている人とも仕事を一緒にしたことがありました」
その白鳥さんが大切にしようとしたのが地域住民との交流でした。
「2000年から江別で地域活動をやっていましたので、地域の場づくりが大切だと。たとえば行政が商店街の空き店舗を借りて商店街のPRをしたり交流したりする場をつくっています。古くは喫茶店が交流の場でした。劇場にもその可能があるのではないか。僕が知っているイギリス・ヨークシャーの劇場は、学校に行って演劇のワークショップをやったり、おじいさんおばあさんたちが市民劇の衣装をつくったりと、地域の中でいろいろな活動をしています。まちづくりのツールとして劇場があるんです。それでまず地元の商店街と結べるのではないかと。商店街で我々ができることといえば、大道芸をとなりました」
2002年に劇場を失い、中心スタッフの高橋さんは照明家としての仕事がありましたが、斎藤ちずさんはありません。そこで札幌市こどもの劇場やまびこ座に演劇指導員として勤務したり上川の朝日町のサンライズホールで住民参加型プログラム専門員として1年間の常勤やそのあとも通うなどして生活費を稼いでいます。NPO法人は専従職員を置くところも多いようですが、コンカリーニョの場合はまず個人や企業から寄付を集めなければなりません。その集めた資金を理事長自身が給料としてもらうこはできないという意識がありました。
思わぬ助け船もありました。地下鉄琴似駅構内にあるターミナルプラザことにPATOS(パトス)は、150人ほど収用できるホールで、札幌市西区が管理運営していましたが、利用は低迷していました。そこでコンカリーニョの企画運営力を見込み、運営を任されることになったのです。新たな劇場ができるまでのつなぎとして、パトスは願ってもないものでした。新劇場ができた現在でもパトスの運営は1年また1年と延長されています。
2006年5月、待望の新生コンカリーニョが誕生、3ヶ月にわたる生誕祭が開催されます。演劇はもちろんダンス、コンサートなどそれまで石造り倉庫のコンカリーニョを利用したグループが手弁当でイベントを繰り広げ、収益を再建資金としてカンパしました。
しかしあの手この手で資金集めをしても目標の5千万円には遠く届きません。設備はさらにしぼられ、自分たちができることは自分たちでと、床張りや壁塗りなどもボランティア総出で行いましたが、結局かかった費用は、キャットウォークといった劇場用の設備など、付帯工事の支払いを含めて4300万円に及びました。それに対して寄付は札幌南ロータリークラブの創立50周年で募集した助成金や馬主協会などからの大口はありましたが、ほとんどが1口1万円の個人からの寄付金で、約1600万円でした。
これでは2700万円ほど足りません。そこで照明や音響機材調達のための任意の事業組合(高橋正和理事長)を立ち上げて610万円の出資金を集めました。そしてさらに必要な2100万円のうち、国民金融公庫から1600万円、道の新生ほっかいどう資金(たんぽぽ資金)から500万円を借り入れました。
こうした資金集めの経験で斎藤ちずさんはさまざまなことを学びました。(社)演劇演出空間技術協会の機関誌にこう書いています。
「困難だった資金調達の過程で気づいたことがあります。当時、私は会う人、会う人に名刺とともに資金調達のリーフレット、振り込み用紙を必ず3点セットで手渡し、『1万円ください』と言っていたのです。すると10,000円というリアルな金額が興味をひくのでしょうか。普通に舞台芸術をみてみませんか?とお誘いすると『文化音痴で』とか『演劇やダンスの興味はないから』と言って、あまり話を聞いてくれなそうな方々が、『なにをやっているの?』『造る劇場でどういうことをやりたいの?』と活動のことを聞いてくれるのです。お金というのは、こうやって活動を広げるためのよいツールになるえるのだと実感しました」
こうして資金不足ながらも新劇場で新たな活動を開始したコンンカリーニョは、1年以上がすぎてようやく落ち着きを取り戻し、まずは順調な歩みを始めています。コンカリーニョの理事もつとめる、やまびこ座の岩崎義純館長は、大きなスポンサーなしで市民から小口の寄付を集め、芝居だけでなくさまざまなジャンルの芸術活動をしているのは全国的にも例がないと言います。そして自分も劇場を運営する立場として、中心人物の斎藤さんが女性だったことが、うまくいった要因ではないかと考えています。
「女性のプロデューサーがいる劇場は全国的にたくさんいるんですが、女性は物事を理屈で進めるのではなく、感性でやるんです。かなり変わっていて、その人しかできないということも割とソフトにできて長続きする。それが男性だと理屈でガンガン押し通して、結局けんかしてやめることも多いんです。よそと協力するときにも男性なら足場を固めて理詰めでやって、自分たちにプラスになるかマイナスになるかといった判断をする。その点斎藤ちずなんかは悪い言葉で言えば甘いということですが、計算ずくで先を読んでやることより、女性特有のフワーとした雰囲気でわがままを通していく。それはものすごい武器かもしれません」
歴史的建造物の保存でコンカリーニョに関わり、現在はNPO法人コンカリーニョの監事として運営を見守る東田秀美さんは、NPO法人立ち上げのとき斎藤さんに助言したそうです。
「理事長になるというので、おやめなさいと止めたことがありました。法人の理事長になれば経営能力が問われてお金の計算ができなくてはならない。アートのできる人とは真逆の性格が必要で両方やると二重人格のようになってしまいます。金の計算をするとなると演劇人としての斎藤ちずのいい部分が消えてしまうような気がしました」
しかし斎藤ちずさんは自ら理事長になることを決意、現在のコンカリーニョがあります。
新しいコンカリーニョの外観はコンクリートや金属、ガラスでできた無機質なものです。資金不足で、石造り倉庫の面影をどこかに加えることもできませんでした。その点で東田さんの歴史的建造物を後世に残していくという願いは叶いませんでした。しかし、地元の歴史に学ぶ創作劇が今年で第3作を数え、地元の歴史と記憶は現在によみがえっています。物質としての歴史は閉じても、文化としての歴史は掘り起こされ、しっかり保存されているのです。
そして地域に密着し「街のおばちゃんがサンダル履きで来ることができる劇場」が口癖の斎藤ちずさんですが、その目標は徐々に、そして着実に実現しつつあるようです。
斎藤さんはコンカリーニョは第3期に入ったと言います。
「95年から2002年の閉鎖まで、私と高橋さんがやっていた時代が第1期、NPO法人を設立して劇場が完成し、借り入れができて支払いを終えたころまでが第2期だと思っています。去年までは取材を受けて『夢が叶いましたね。次の夢はなんですか?』と聞かれても『つぶさないことです』と真剣に答えていました。それは本心だったんです。でも今は資金が潤沢でなくて問題点はたくさんありますが、私が元気なら、なんとかやりくりしながら借金を返せるまでに落ち着きました。これからどう展開していくのか、団体のリーダーとしてやっと悩み始めたところです」
さまざまなプランが頭の中には浮かんでいるそうです。それをコンカリーニョ全体のプランにして、どう実現していくか。市民が作り上げた芸術・文化の拠点が新たな段階を迎えています。