(登場するビバハウスの若者たちはすべて仮名です)
小樽市から海沿いを車で30分、北海道でも温暖な気候に恵まれた余市町は、古くから果樹栽培が盛んです。札幌よりも早く、フキノトウやクロッカスがいっせいに花開いた4月上旬。海に青さがもどり、手入れよく整然と植えられたリンゴやブドウの果樹園が、なだらかな丘のような起伏を描き、さんさんと春の陽を浴びています。
安達俊子さんと夫の尚男(ひさお)さんが運営する青少年自立支援センター「ビバハウス」(運営委員長は俊子さん)は、こののどかな余市町の町はずれにありました。NPO法人余市教育福祉村の敷地内にあるプレハブ2階建て。ここにはいま日本各地からやって来たひきこもりの若者たち(16歳~36歳、男女15人)が、社会復帰をめざして安達夫妻とともに暮らしています。
安達夫妻が若者たちのために実践しているメニューや約束事は、意外にゆったりと開放的なものでした。
起床・朝食の時間は自由。ただし、午前8時半の全員ミーティングまでに食べ終わり、食器は各自で洗うこと。
労働は午前中に約3時間。依頼条件により午後も2~3時間。昼食は午後1時をめどに準備する。
午後は原則自由。習い事も可能。夕食は午後7時ころで、毎回2名の担当者がレシピを決めてつくる。伝達事項などあるので、全員そろって食べる。
金曜日の夕食後はホーム・ルーム。一週間のスケジュールや食事の担当日を確認。生活上の問題もここで話し合う。
就寝時間は自由。門限は10時。消灯時間はないが、平日は午後10時、土日は11時に個室に入る。
若者たちの入所期間はそれぞれです。1年間ここで暮らす若者もいれば、1カ月の人もいます。通所してくる女の子もいれば、たった3日間の滞在で元気になって帰っていく若者もいます。
みんな安達夫妻をおじさん、おばさんと呼び、交代で食事の支度をしたり、アルバイトに出かけたりしています。
そうして創立から7年半、これまでに約90人の若者たちがビバハウスを巣立ち、就学したり家庭や職場に戻っていったといいます。
「余市はゆたかな自然が自慢です。この教育福祉村の広々とした敷地のなかで、採れたての野菜をたくさん食べ、きれいな空気をいっぱい吸って、ゆっくりと心と身体を休めてもらいたい」と俊子さんはいいます。そしてビバハウスは「いつでも、何度でもやり直しができる施設でありたい」と語ります。
「一人で抱え込んでいないで、苦しくてどうにもならなくなったら、いつでも言いにおいで」
「ひきこもり」の問題は最近にわかに注目されたように見えますが、同様の事例は70年代から報告されていました。厚生労働省の定義では「6カ月以上自宅にひきこもって、会社や学校に行かず、家族以外との親密な対人関係がない状態」とあり、あくまでも"状態"であって特定の病気や障害ではありません。
要因はさまざまで、統合失調症や発達障害などの精神障害が影響している場合もありますが、多くはいじめなど強いストレスが原因で不登校となり、そのままひきこもりになるケースが多いと報告されています。
俊子さんはまず「ひきこもりに対する予断を取り除いてもらいたい」といい、尚男さんはビバハウスの食堂の壁にかけてあるビバハウスの飼い猫ラミちゃんの絵を見せてくれました。
その絵は、毛の一本一本まで細かく描かれ、まるでラミちゃんが生きているような精密なタッチの絵でした。ビバへ来る前、イラストレーターとしてすでに社会へ出て働いていた青年の絵だといいます。
しかし「描くのに時間がかかる彼のイラストは、利潤追求のため効率化とスピードを求める現代社会のなかで、商業ベースにのれなかったのだ」と説明してくれました。
こうして社会はもはや、個性をゆるさない社会になったのかもしれません。
ひきこもりはきわめて日本社会に固有の現象だと尚男さんはいいます。ちかごろは韓国でも事例が報告されているといいます。
俊子さんは「新聞などでビバハウスを紹介してもらうと、そのあとたいへんな数の相談がきます。そのたびに、青少年にとって今がどれほど生きにくい、先の見えない時代なのかを思い知らされます」と語ります。
「彼らはあまりにも理不尽な目にあったことから、自分を守るために殻の中に閉じこもってしまっただけなんです。その殻を破って脱出したいと願っているのは、だれでもない、彼ら自身なんです」と。
運営委員長の俊子さんは、じつは2000年(平成12)3月まで、北星学園余市高等学校の英語教師でした。ここは全国から中退生や不登校の生徒を受け入れることで知られています。俊子さんは現参議院議員で「ヤンキー先生」こと義家弘介(よしいえ ひろゆき)さんの元担任でもあります。
俊子さんの教員生活は、創立から35年間に及びます。なかでも不登校生を受け入れた十数年をふり返り、あのころの学校を「教師、生徒、父母がまさに一体となってつくりあげていた」と熱く語ります。
バイク事故で生死をさまよう義家さんに、「死なないで、あなたは私の夢だから」と語りかけた恩師は、ほかならぬ俊子さんであることは多くの人が知っています。
夫の尚男さんもまた同校で9年間、社会科の教師でした。
ところが、北星余市高校に人一倍の愛着があった俊子さんでしたが、定年まであと3年というときに、1日の睡眠3~4時間という悪戦苦闘の日々についに体調を崩します。
「階段の上り下りもままならず、最後には声も出なくなりました。気がついたら疲労が極限を超えていたんですね」。
しかし、泣く泣く学校を去り、一日じゅう家にいて精神不安定になっていた俊子さんのもとには、以前と同様、生徒や父母からのさまざまな相談が寄せられたのです。なかには卒業した生徒の両親からの相談も少なくありませんでした。
「進学した大学になじめず、家にこもっている」「就職先をすぐにやめ、職場を転々としている」「北星余市高に入学できたが、学校と下宿の往復生活に耐えられなくなっている。どこか安らげる場所はないだろうか」。
苦しんでいる若者たちの姿が目に浮かぶようでした。
職場をやめてからも、「なんとかこの若者たちのためにできることをしてあげたい」。そんな思いで毎日を過ごしていたときのことです。
「俊子先生、助けて! 私もおばあちゃんのように餓死してしまう」。電話から聞こえた悲痛な訴えは、卒業生の聖子さんからでした。
意味不明で戸惑っているうちに、学校から、そして警察からも電話が入り、その内容にびっくり。そのころの聖子さんは病気の母と祖母の三人暮らしでしたが、亡くなったばかりの祖母の死因が餓死に近いので調べているとのことでした。
俊子さんには、以前、卒業時期の忙しさから相談にのってあげられなかった青年が自殺してしまったというトラウマがありました。放ってはおけませんでした。
高校時代の聖子さんはまじめな生徒でしたが、お母さんがとても厳しく、ボランティア委員会があるときは俊子さんから電話を入れて了解を得なくてはなりませんでした。
警察の電話のあと、夫の尚男さんと車を飛ばして小樽の自宅を訪ねましたが、結局このときも家には入れてもらえませんでした。
その後、精神病の病状が悪化したお母さんからの暴力、祖母の年金が切れて困窮しているなどの話を聞き、俊子さんは彼女と一緒に生活することを決断します。夫の尚男さんも直ちに同意しました。
「聖子ちゃんが元気になる家をつくる」そう約束してから8月完成までの4カ月間はすさまじい日々でした。図面や予算、土地の借用折衝、建築業者との交渉…。
土地は、教育福祉村の菊地大(ひさし)理事長に交渉してその土地の一部を借りることができました。
こうして2000年9月1日、当初プレハブ1階建て5室、男性1名、女性2名、男性ボランティアスタッフ1名、俊子さんと尚男さんの計6名で、24時間365日の共同生活が始まったのです。
施設の名前は「ビバハウス」。ビバはスペイン語で「万歳」の意味です。みんな人生万歳!、となるように願って俊子さんがつけました。
施設の対外的なことは、いまも尚男さんが一手に引き受けています。
いざ「ビバハウス」をスタートさせてみると、野戦病院のような日々が待っていました。当初は戸惑うことばかり。
「ある意味では北星余市高校35年の体験より密度の濃いものでした」と俊子さん。疲れ果てて着替えもせず眠り込み、数週間もお風呂に入れないこともあったそうです。
若者たちは自らの意志でビバハウスにくることもありますが、親御さんから真剣な相談を受けて入所を検討することもあります。
「無理やり部屋からひっぱり出そうとする親御さんもいますが、それでは彼らの心に傷を残すだけ。あくまでも自分からこころを開いてもらうことが大切だ」と尚男さんはいいます。
そのためには北海道であろうと本州であろうと、なんども家を訪ね、話しかけ続けます。もちろん、親御さんの求めに応じてです。
ビバハウスでは入所にあたって、集団生活ができることを条件にしています。それは夫妻が、自立への道は集団生活のなかでこそつかみ取れると考えているからです。そして、みずから"自分を変えたいと望んでいる若者"であることが前提だといいます。「ですから自分から部屋の戸をあけて出てきてくれることが重要なんです」。
しかし、ひきこもりの子は他人を怖がるといいます。自分がだめな人間に見られているのではと、いつも他人の視線にびくびくしているといいます。いじめなどに遭うと人間不信になり、容易に人を信じません。入所してからも、彼らと信頼関係をつくることが第一歩だといいます。
「はじめは何かの作業をしながら話を聞きます。良いところは率直にほめてあげます。自分が肯定されることで彼らは自信をとり戻すことができるのです」。
こうして夫妻との信頼関係ができてくると、彼らは少しずつ仲間にも心を開くようになるといいます。「同じ苦しみをもつこの仲間とならわかりあえる、一緒に生きていける、そう思えるようになることが最も大切なんです。そうなると若者たちは互いに語りあうようになります」。
埼玉から来た奈美さんはビバハウスに来てヘルパーの資格をとり、グループホームで働いていますが、薬の管理ができないとよく悩むといいます。
しかし同じ職場に、法政大学を出てから5~6年ひきこもり、今は副主任となって働いているビバハウスの卒業生の仲間がいます。またビバにも別のグループホームで働く2人がいて、この3人がお互いに励ましあって続いているといいます。
「理解しあえるようになると、こんどはお互いがお互いから学びあい、刺激しあい、影響しあう。若者たちはそうやってメンバー同士でぐんぐん育ちあっていくんです。私たち夫婦が貸してあげられる力なんて、ほんの少しだけ」。
「私たちは教師ではありましたが、福祉の資格はなにももっていません。ビバハウスは公的にはいちおう2002年(平成14)4月にグループホームの認可をうけましたが、私たちは福祉施設でもなくボランティアでもなく、教育施設と考えています。ですからご両親たちにはちゃんと料金をいただいています」。
夫妻は、教師というのは、子どもたちや若者が"変わる"ということを期待して"挑戦"するのだといいます。「しかもここは、自分を変えたいと思っている若者が前提です。だから、彼らと"切り結べる"んですね」と俊子さんはいいます。
"切り結べる"とはどういうことなのでしょうか。
「彼らの人生はいままで、"切られたらそれで終わり"という経験ばかりだったんだ。だから自信喪失、人間不信になっている」。
「しかし私たちは、たとえ切っても(叱っても)、どう立ち直らせるかを前提に考えてやっているので、それをわかってくると、彼らは私たちを受け入れ、前に進もうとする力がわいてくるのです」。
そのとき彼らの表情や態度に変化が出てくるので、それを見るのが嬉しい、というより「教師のだいご味」だと夫妻は語ります。
「ただ、相手は生き物。切る(叱る)ときもほめるときも、すぐでなきゃだめです。時間をおくと、彼らは変に考えたり、圧迫感を感じたりする」。
尚男さんがそう話してくれているあいだにも、「はい、お帰り~」とアルバイトから帰ってきた若者へ気配りをわすれない俊子さんです。
そして、北星余市高で「教師、生徒、父母」が一体となって取り組んでいた夫妻です。ここでも若者たちの家族に理解と協力を求めると同時に、親御さんたちへのフォローも忘れません。
親御さんの苦悩は並大抵のものではありません。わが子への心痛はもちろん、家庭の教育のせいではと自責の念に苦しむ親御さんもいれば、家庭そのものに多少問題がある場合もあります。
「ビバハウス家族会」では、そうした家族の相談にのったり、若者たちへの接し方を一緒に考えたりしています。
その第3回のビバハウス家族会は、思い出に残るものになりました。それまで参加したお父さんはドライブなどのとき車を運転するだけのアッシーくんでしたが、その年はお父さんの参加が5人にふえ、食事の準備を見事なチームワークでやってくれたといいます。
そして、お酒を飲みながらの食事のあと、後片づけをしながらのお父さんたちの会話は、中身の濃いものでしたが、聞いているうちに吹き出してしまうものだったと俊子さんはいいます。
「出来の良いお宅のお子さんなら、うちの子のような苦労はしなかったでしょうね」「いや、うちの息子のほうが大変だった」と、それはまるでけんか腰のようでしたが、いかに自分の子どものほうが大変だったかを自慢? していたのです。「ほほ笑ましいというか、ああ、親御さんたちも話し合える仲間ができて良かったなと思いました」と俊子さん。
また、俊子さんはひきこもりの若者たちのことを知って理解してほしいと、忙しいなか全国からくる講演依頼にできるだけ応えようとしています。また、いただいた講演料は、若者たちの研修費や旅行費用など、親御さんたちの負担を少なくするために使われています。それには留守中の若者たちの世話など、この家族会の協力があってこそ実現していると語っていました。
ひきこもりの若者は、昼夜逆転で生活が不規則になり、外出もしないため、筋力や体力が思いのほか衰えています。これは社会的にも「ひきこもりがもたらす健康障害」のひとつとして注目されています。ひきこもりは家族だけでは解決が難しく、5年、10年と長引くとかなり深刻です。
ビバハウスにも以前、高校中退後7年間ひきこもり、ビバにきたときはほんの少し歩くにも傘を杖がわりにしていた建治くんという若者がいました。テレビゲームの毎日で体重が200キロにもなった若者もいました。
尚男さんはまた「守られたひきこもりと、放置されたひきこもりがある」といいます。食事をつくってもらえる守られたひきこもりとは反対に、放置されたひきこもりは両親の死あるいは虐待などで満足な食事をとれず、生命の危険がある場合さえあるといいます。
傘を杖がわりにしていた建治くんは極度の対人恐怖症で、ビバに来たときは4カ月間部屋から出て来られませんでした。俊子さんが部屋に三度三度の食事を運んで語りかけ、ようやく出てきたのは大晦日でした。「紅白歌合戦を見ながら一緒に食事をしませんか」と声をかけたら、はじめて出てきてみんなと食事をしたのです。
いちど出てくることができると、あとは1日1回が2回になり、2回が3回に。そして人と接触することに慣れてくると、こんどは「話したくてしようがない、知りたくてしようがない。ちょうど3歳児のように、これはなんですか? どういうことなんですか? あれはすごかったね」と尚男さんはいいます。
ビバハウスにいる若者には大学卒や大学中退者が多く、なかには大学院の人もいます。建治くんも、もともと医者をめざして勉強していた人でした。
夫妻が2階の本棚の百科事典をあずけると、「それからだんだん勉強するようになったんだよな」。話題も「最初はタレントの何々さんがどうのこうのと話していたのに、そのうちイスラエルとパレスチナはどうして戦争をしているのか、とか、靖国神社のことを聞いてくるようになった」と尚男さんはいいます。
夫妻はひきこもりの若者たちに体力を取り戻してもらうため、「体を動かす」ことも重要と考えています。そこでボランティアやアルバイト、あるいは日帰り旅行や一泊旅行などをできるだけプログラムに取り入れています。
そこで春一番、4月10日のビバスコーレ「余市の歴史」講座は、フゴッペ洞窟までの散策と洞窟見学をすることにしました。
ビバスコーレとは、ビバハウスの運営で昨年10月から定期的に行われている講座です。ほかに合気道やギターなどの講座もあります。
この日の講師は近藤芳二さん(ビバスコーレ校長)。アルバイトやボランティアの人は別にして、9人が参加しました。
余市は見どころのたいへん多い町で、ニシン漁の繁栄を彷彿とさせる「旧下ヨイチ運上家」(国指定史跡)をはじめ、新しいところでは余市出身の宇宙飛行士・毛利衛さんを記念してつくられた「余市宇宙記念館」などたくさんの名所旧跡が詰まっています。
なかでもフゴッペ洞窟は続縄文時代の岩面刻画(岩に彫られた絵 国指定史跡)が残されており、1950年(昭和25)に札幌から海水浴に来ていた中学生が発見して大変な話題になった遺跡です。日本国内で岩面刻画を残す洞窟は、ほかに小樽市手宮洞窟しかありません。
この日のビバスコーレは、若者たちをいっせいに春のなかへ連れ出しました。北星余市高校の横のリンゴ園の前を通り、身近な川や小高い山の説明を聞きながら、フゴッペ洞窟までゆっくりと約30分の散策です。
見学したフゴッペ洞窟は、岩面刻画はもちろん、土器や石器、動物や魚の骨など、古代人の暮らしへの興味をそそられるものばかり。岩に彫られた有翼人像(翼の仮装をした人物像)を指さし、「君たち、これ見たら飛んでみたくならないかい」と問いかける近藤先生のお話に、古代へのロマンがいっそうふくらむひと時でした。
屋外でのエピソードといえば、俊子さんが余市教育福祉村が発行する機関紙『のぼり通信』のなかで連載している『ビバハウス便り』には、こんなことが載っていました。
ビバハウスを立ち上げて1年ほどたったころのことです。誕生会はすっかりみんなの楽しみのひとつとなっていました。亮太くんのアルバイト先のハンバーグレストラン「ロビン・フット」で食事をしたり、余市駅前のカラオケに行ったり。俊子さんはこのころの若者たちを、ビバにたどり着いたころの彼らからは想像もつかないほど元気になっていたと書いています。
そして7月の誕生会にみんなで小樽水族館に行ったときのことです。再び「ロビン・フット」で昼食をとり、二台の車で水族館へ。館内は人が少なく、みんなゆっくりと見学して大喜び。
ところが、イルカやペンギンのショー会場に移ってから、みんなの表情が一変したのです。さっきまでの笑顔はこわばり、みんな首をうなだれ、うつむいたままに…。
「帰りの車の中はまるでお葬式のようだった」と尚男さんはあのときをふり返ります。
俊子さんは彼らのあまりの変化に驚くばかり、戸惑うばかりでした。彼らにいったい何が起きたのか、それも全員がいっせいに黙り込むなんて…
夫妻は帰ってから一人ひとりの部屋を訪ね、聞いてまわったといいます。そして彼らが重い口を開いて語ってくれたのは
「ショーの会場で大勢の幸せそうなカップルや子ども連れの家族を見て、自分は何をやっているんだろう。輝いているあの人たちを見て、自分の惨めさにショックだった」というものでした。
俊子さんは「どうなぐさめたらいいのかわからないし、良かれと思って実行した揚げ句の結果でしたから、私たちのほうもショックを受けました」。彼らがこの落ち込みから立ち直るのには、半月ほどかかったということです。
つい先日も、昔の忌まわしい体験を思い出し、叫び声をあげた若者がいたそうです。フラッシュバック(再燃現象)です。
「彼らの内側にある苦悩ははかりしれません。あの日は、若者たちにも私たちにも、これから乗り越えなければならない壁が無限にあるのだと学ばされた1日でした。7年半たったいまでも、毎日が模索の日々です」と夫妻は語ります。
ありがたいことに、ビバハウスは開設当初からこれまで、じつにたくさんの方々の支援をもらいました。
食事の支度の手伝いにはじまって、自家栽培・無農薬のお米を2002年からずっと送り続けてくれる日高門別の吉田さん…「これは本当にありがたい」と尚男さん。
岩内でパン工場を経営していた岡本正己さん夫婦は、おいしいパンを持って3日とあけず若者たちを励ましに来てくれたといいます。「岡パンはほんとうにおいしくて、みんな夢中で食べました」。
「岡本さんは、行くたびに若者たちが元気になり、いい笑顔になっていくのを見ると自分も元気になるといって、若者たちのために資産を差し出し、パン工場をつくる計画をたててくれていたんです。でも、その下見に行く前の日に心筋梗塞で亡くなったのは、ほんとうに悲しい出来事でした」。
あのころは、ビバオープンいらいの台所仕事で痛んでいた俊子さんの指を見て、若者たちが食事当番の案を申し出るという成長ぶりをみせ、俊子さんは涙がでるほど嬉しかったといいます。
宮田先生のようにボランティアで指導を手伝ってくれている先生たちにも感謝しています。自分のスキルアップになるといって福祉の仕事をめざす人が来てくれることもあります。
「若者たちの気持ちを理解できるスタッフがいて、協力者がたくさんいて、ビバはうらやましがられています。ことしは島口先生に職員として入ってもらいましたが、宮田先生にも前々から正規の職員になってくれるようにお願いしているんです」。
また、北星余市高校との縁も続いています。学生が手伝いに来てくれたり、ビバハウスのスタッフとして働いてくれる志のある卒業生を紹介してもらうこともあります。
「私たちは後継者がたくさん育ち、ビバハウスのような施設がもっと全国に増える必要があると思っています。ほんとうは、このような施設はないのが望ましいのですが、いまの世の中は第2,第3のビバハウをますます必要としています。将来、そのたくさんの施設と情報交換したり協力しあえるようになればと考えています」。
尚男さんは、西欧ではストリートチルドレンなど若者の問題を社会の問題として政府が積極的に取り組んでいるといいます。しかし、日本社会はニート対象の政策にしぼって今ようやく動き出したばかりで、充実するまで待っていられない状況だと、日本社会の遅れを指摘しています。
夫妻は、支援のなかでも、若者に仕事の場を与えてくれることが最もありがたいといいます。自立のために労働が重要だと考えているからです。「人は働く場を得て、はじめて人間になれる」。仕事をすることは自立への第一歩であり、生活すること、生きていくことそのものだからです。
ですから夫妻は若者たちの仕事さがしにも力をそそぎます。
ニセコのペンション・ガンバの伊藤さんのところで働いてきた若者は、「自分の世界が広がった」と目を輝かせて帰ってきました。
無農薬の紫蘇栽培をしている(有)サンユー農産では、雑草とりも収穫も手で行ないます。こうした農家からいただく仕事には、複数の若者を送り出せます。サンユー農産の寺井社長夫妻は作業の最終日、労をねぎらう大ジンギスカンパーティーにビバハウスの全員を招いてくれたといいます。
また冬の季節はなかなか仕事がなく、俊子さんは気をもむといいます。「岩田椎茸農園」と「中岡椎茸園」は、若者たちがあたたかな室内で仕事ができる冬場のかけがえのない職場でした。
ところが、2004年の台風18号が、若者たちからその2つの職場を奪ってしまったという出来事もありました。どちらの椎茸園も風速50メートルの突風で倒壊し、再建不可能という大変な目に遭ったのです。
「その無念をなぐさめてさし上げるどころか、私たちにも大きなショックでした。若者たちのこれからの就労をどう確保すればいいのかと、がく然としました。伸二くんは特にショックだったと思います。岩田椎茸園さんと正規の雇用契約を結び、車の購入も予定していたのに、すべての希望を奪われたのですから」。
そんなとき、いつもビバを気にかけてくれる町内の中村夫人から、仁木町の国道5号線寄りにある2400坪のブドウ園の管理させてくれるとの電話がきました。条件は毎年2本のブドウの木を所有者のために保全することだけ。あとは賃貸料なし、無条件、期限なしとのことでした。
「台風なんかに負けていられるか! とあのときは闘志がわいてきました」と俊子さんはふり返ります。そして尚男さんは「あのとき、若者たちもくじけなかったなあ。毎日の積み重ねのなかで、どんな困難に遭っても簡単にはあきらめないという気持ちが育ってきていた」といいます。
ことしも春早々、2つのアルバイトをいただきました。ひとつは中野農園からトマトの栽培作業のアルバイトです。
中野農園の経営者・中野勇さんは、水や肥料を極力制限して植物本来の生命力を最大限に引きだすという永田農法でトマトを育ています。その完熟トマトでしぼったジュースは、札幌三越デパートでしか手に入らない高級品です。
その日の作業はトマトの水やり。一株に400ミリリットルと決められています。それを苗の根元にていねいに、右と左にわけて注ぎます。
2月に宮城県から入所したあき子さんは、1週間前の苗の植え付けのときもこの農園を手伝いました。以前、自宅の家庭菜園を手伝っていたこともあり、植物を育てるのが好きだといいます。「世話をしたトマトが成長しているのを見るのは楽しい」といつものやさしい笑顔がさらに輝きます。「土にさわるのって気持ちいい」という若者もいました。
もうひとつは、フルーツ街道(小樽塩谷から仁木町へ向かう途中)沿いにある仁木町フルーツ・パーク内のコテージ5棟のベッドメイクです。クリーニング・エムズの三浦幸夫さんが紹介してくれたアルバイトでした。いわゆる第三セクター方式で仁木町から請け負った仕事をビバハウスに斡旋してくれたのです。
三浦さんはときに、お祭りの奴さんなど、いろいろおもしろいアルバイトをもってきてくれる人です。
宮田先生がみんなにシーツや布団カバーの取り換え方を指導します。掛け布団をカバーの四隅にきちっと入れるのは、なかなか難しい作業です。みんな布団と格闘していました。
尚男さんはボランティアやアルバイトが終わると、いつも感想を求めます。「ぼくはいがいと掃除の仕事は嫌じゃないです。黙々とやれるから」というのは福島県から来た16歳の少年です。
ホームヘルパーでもある別の女性は、「自分の仕事にも役立つことなので、きちんとできるように練習したい」と感想を述べました。
「あたたかい人間的な雰囲気のなかで働かせていただけることがなにより嬉しい。この安心感こそが若者たちの心身を健全に育んでいくんです。これはビバハウスの私たちが与えられない経験です。世の中にはいい人たちもたくさんいることを知って、早く元気になってほしい」と俊子さんは語ります。
尚男さんは「ここ十数年で日本社会はどれだけ改善しただろうか。何も変わっていないどころか、ますますひどくなる。とくに若者の就労環境が問題だ」といい、「若者にもっと働く場を!」と続けます。
バブル崩壊以降、長引く景気低迷のなかでニートと呼ばれる若者が社会問題となってきました。ニートとは、簡単にいえば就職意欲がなく働かない学卒無業者のことをいいます。フリーターは正規社員の雇用者やそうした形態の雇用を希望する人で、就労意欲がないニートとは区別されています。また、ひきこもりの定義に就労意欲のあるなしは含んでいませんが、ニートの中にはひきこもりの人もいます。
厚生労働省では2005年から、こうしたニートに対しての就労支援事業として全国20カ所に「若者自立塾」を設置し、生活訓練や労働体験をとおして働く意欲を醸成し、就労へつなげようとする施策を開始しました。1回の塾は3カ月間の合宿形式で、年4回のペースです。
この年、その全国20カ所のひとつに、北海道で唯一「ビバの会」(ビバハウスなどの運営母体。8人の運営委員で構成。委員長は安達俊子)が認定されました。ビバハウスなど、「ビバの会」のそれまでの実績が評価されてのことです。
「若者自立塾ビバ」を開設するにあたり、新たに実施団体として「(有)青少年自立支援センタービバ」を発足させ、夫の安達尚男さんを塾長としてスタートすることにしました。「ビバハウス」の母体「ビバの会」とはまた別組織で運営され、すでに8期目の塾がこの2月にスタートしました。
「ビバハウスの創立当初、私たちは北星余市校の在学生や卒業生が一時期疲れた心を休め、充電してもどっていくための場所としか考えていませんでした。子どものない私たちが、まあ2~3人、自分の子どものつもりで面倒をみようかという感じでした」。
それから7年半、現在のビバハウスは2階建ての15室が満室になっています。15人の若者たちの対応だけでも大変なのに、そういうなかでなぜ「若者自立塾」を引き受けたのか。
「不登校やひきこもり、さらにはニートの若者たちは、決して親の育て方が悪かったのではなく、その背景にある日本社会のあり方に問題がある。その象徴が教育の問題です」と尚男さんはいいます。
「残念ながらこの国の教育は真の生きる力を培う教育ではなく、人を蹴落としてでも前へ進めという競争の教育になっている。そしてすべての責任を個人に負わせるひじょうにきつい社会です。そしてもはや社会のすべてが壊れている。そんななかで多くの若者が苦しんでいるんです」。
これが夫妻がビバハウス6年目を迎えたときの実感だったといいます。
ビバハウスへの問い合わせが引きも切らず続く状況に、ニートもふくめれば自立に支援を要する若者は、50万人どころか、300万から500万人になっているのではないかと尚男さんはいいます。そして50歳代のひきこもりも出るなどひきこもりが高齢化し、しかも精神を病む人が増えているといいます。
「ですから家庭福祉での解決ではなく、私たちが従来から考えていた社会福祉としての解決を進めるには、この国の事業を引き受けるべきではと考えたのです」。
「もうひとつは、若者たちがビバハウスで基本的な生活習慣を身につけたとき、次のステップへ進ませてあげるもうひとつ上の場がどうしても欲しかったのです。もっと公的な形の訓練場所をです」と俊子さんはいいます。
尚男さんは「悩みに悩みました。しかしこれまで僕らが主張してきたことを、国がやっと施策として実行しようというときに、力がないからできないといって受けないで済むだろうか」と。
結論は「大胆に挑戦してみる」ということでした。
そして「これは現代社会への挑戦だ」と言い切りました。
安達夫妻のチャレンジはこれからも続きます。
ひとり一人の若者たちの心の声を聞き取り、それを励まし支えていく仕事はとても気苦労と根気のいることです。健康に留意して仕事を続けてほしいと願っています。
安達俊子(あだち・としこ)
1942年小樽市に生まれる。1965年3月北星学園大学文学部英文科卒業。同年に新設された北星学園余市高等学校に英語科教諭として勤務(2000年3月まで35年間)。00年9月、NPO法人余市教育福祉村・青少年自立支援センター「ビバの会」「ビバハウス」を設立。05年10月、厚生労働省委託実施事業「若者自立塾ビバ」を設立、同塾代表。社会福祉法人仁木福祉会理事。北星学園余市高等学校、北翔大学、北星学園大学、札幌大谷短期大学で非常勤講師を務める。01年国際ソロプチミスト日本財団より社会ボランティア賞(社会人の部)受賞。
安達尚男(あだち・ひさお)
1939東京都世田谷区に生まれる。1961年早稲田大学第一政経学部経済学科卒業。在学中キリスト教学生奉仕団体・早稲田奉仕園学生会会長を務める。卒業後3年間総合商社に勤めた後、イスラエル共和国に、第1回日本青年キブツセミナー代表として1年間留学。帰国後、北星学園余市高等学校に社会科教諭として勤務(9年間)。その後、余市町町会議員(20年間)を経て、00年9月、妻俊子と「ビバハウス」を設立。「若者自立塾ビバ」塾長。04年余市町功労賞(地方自治)受賞。