『石ころのうた』は、女学校に入った時から、小学校教師として敗戦を迎えるまでの、平凡な女の平凡な話である。「いかなる英雄といえども、その時代を超越することはできない」(中略)まして平凡なる人間は、超越するどころか、この世の時流に巻き込まれ、押し流されてしまう弱い存在なのだ。
平凡な一少女のわたしが、次第に軍国時代の色に染められつつ、ついに敗戦にあって挫折するまでの自分を、見つめてみたい。(角川書店版・角川文庫版、以下同じ)当時のわたしは純情なものでした。教師になったときも、16や17歳の娘ですから純情でなければ困りますが、小学生のときから軍国教育を受けている、まだ少女の身には、とても時代を知ることも越えることもできません。とにかく何もわからなかったのです。わからないから、いわれたとおりにしていました。
わたしが女学校に入学した昭和10年4月現在の家族構成から、述べてみよう。父、堀田鉄治45歳、母キサ40歳で、兄3人、姉1人、弟3人、妹1人、わたしをふくめて11人の大家族であった。
とても貧しい家庭だったと思います。父は新聞社の営業部長で、当時300円くらいの収入がありました。親たちの話を聞くと、収入は多い方でした。しかし、父が長男、母が長女であったため、3家族の家計の面倒をみなければならなかったのです。わたしが女学校に入学しても、自分の手で授業料を納めたのは最初の1回だけ。あとは全部「おれが持って行く」といって、つまり納入日にまにあわなくて、あとで父が事務室に届けていたり、事務長さんが家まで催促に来ていたこともあったようです。
しかし、気持ちは豊かだったかもしれません。ひとに分け与える心が、両親にはありましたから。親せきのだれかが来ていると、ときどき母がすうっと居なくなることがあります。近くの公益質屋へ行ってお金を借りてきては5、6円包んで渡しているところを、きょうだいたちが見ています。
ひとつの定見があって、子どもたちを育てるということはありませんでした。子どもが多くて、手がまわらないのです。だから、母はわたしが小学校に入学したときに、いちど学校に連れて行ってくれただけ。あとは学芸会にも卒業式にも、そして女学校の入学式にも来てくれたことはありませんでした。自由というか、行き当たりばったりに自由な家庭だったと思います。
父は決して、わが家では温和な人ではなかった。むしろ、火の玉のように激しく、烈火のごとく怒る短気な人だった。一方、父は非常に子煩悩で、子供たちが熱を出したり、けがなどをすると、すぐ顔色を変えておろおろし、心配のあまり母を叱りつけるというところがあった。幼い子供たちの鼻汁を紙で拭うのは痛くてかわいそうだといい、自分の口ですすりとっていたのを、わたしたち子供は、「いやねえ、汚いわねえ」と眉根をよせながら、しかし内心感じ入ってもいたのだった。
教師をしていたときに買った『風と共に去りぬ』を父が先にさっと読んで「こんなもの読んだら不良になる」といって怒るのです。療養中にも、わたしが購読していた雑誌を自分でも読んでいて「おれの目の黒いうちは、こんなもの読ませない」って。なんでも読んでから怒るのです。とてもワンマンで、ガミガミと怒る人でした。でも、とても好きでした。
父は、中肉中背の美男であったが、母もきれいだった。子供も多く、絶えず乳呑児を抱えて、多忙な家事に追われる身であったが、いつも着物をきちんと着、髪をきれいになでつけ、身だしなみを整えていた。(中略)わたしたち子供に対して、口やかましい母ではなかったが、子供たちはみな、父よりも母を畏れていたのではないはないだろうか。
母は、明るくて公平な人でした。(親戚の人たちの誕生日、結婚記念日、命日などをよく覚えていましたね=光世氏)
わたしが療養で寝ている。友達も同じように寝ているのを、なんども見舞いに行ってくれる人でした。
でも、父と母とどちらに心が通じるかといえば、父でした。よその人に「どこか恩のある人の子をあずかっているみたい」と言われるほど、わたしはかわいがられました。よく小説を読む人でしたし、相性というのがあるのですね。
わたしは姉と、とても仲よしでした。クラスに親友と思った人がいても心をわって話すということがなかったのですが、姉とはいつも内容の濃い話ができ、近所の人に「10年ぶりに会った姉妹みたい」といわれるほどでした。それに、なにごとも許すことのできる心の豊かな祖母がいて、いろいろなことを教えてくれました。
よい環境とは、身近に響きあえる人がいることではないかと思いますが、わたしにとって、それが特に祖母と姉でした。
わたしは、車窓に見えてきた、自分の赴任する炭鉱の街に目を注いだ。山間にできたこの街は、1本の幹線道路が真中に走り、その道路から左右の山腹に、幾本もの枝道が這い上っていた。山腹には、俗にハーモニカ長屋といわれる1棟5戸程の長屋が、整然と段状に並んでいた。それは、わたしの想像していたよりも、ずっと豊かな活気のある街に見えた。
女学校の卒業が迫ったとき、何になろうというほどの志は持っていませんでした。戦後は平和通りとなった師団通りに出征兵士をよく見送りに行きました。ある時、小学生も引率されて見送りに来ていました。子どもたちが「先生、先生」といってまつわりついていました。「ああ、先生っていい職業だな」と思い、愛の関係につながれた仕事がしたいと、在学中に資格試験を受けました。配属されたのが、炭鉱の街・歌志内の神威小字校でした。
4月から始まった学校は、必ずしも平穏な学校ではなかった。まずめっぽう出勤時間が早かった。校舎の内外を清掃するため、教師たちは朝5時ともなれば、出勤しなければならなかった。
なるほど人を教える身ともなれば、朝早くから学校に行って、校庭を掃いたり清めたりして自己鍛練につとめねばならぬのか(中略)そうした聖職意識がわたしに、この早朝の作業を怪しませなかったであろう。
教師になったのは、いまの高校1年を修了したのと同じ年です。空知は、当時、教育王国といわれていて、そのなかでも最も活気のある学校に赴任したのです。どの先輩教師も、わたしは恩師のように尊敬していました。
「皇居に対し奉り、遙拝しましょう」という。生徒は一斉に斜め後を向く。
「最敬礼!」
朝礼が終わると、粛然と教室に入るのだが、(中略)訓練の悪い先生の生徒は目がきょろつき、頭が動く。歩き方も乱れる。だから、どの先生も厳しかった。女教師も容赦なく生徒に体罰を加えた。
それは、全くの軍国調であったが、わたしはその生徒や教師たらの真剣さに打たれ、学ぶとはこのように折目正しく、真剣でなければならないものかと、感じ入ってしまった。
あのときは軍国精神をたたき込まれて、たとえ1人になっても最後まで戦うと、みんなが大まじめに思っていましたものね。(天皇陛下は現人神であり、白馬にまたがっている姿を見るだけで涙が出てくるのですから。そして、日本は神の国だから負けるわけがないと、敗戦のその日まで信じていました。そんななかでも、「生命は大切にするものですよ」といっていた校長先生や「日本は無条件降伏するかもしれない」と、ひそかにいう人はいました。しかし、こちらにはそれを聞く耳も目もなかったし、少数の声はかき消されてしまいます。なにしろ、“赤トンボ”というのでさえ恐れていました。“赤”という字がつくだけで、官憲に引っぱられる時代だったのですから=光世氏)。
とにかく、国策に乗って生きている人は熱心で、明るいんです。しかし、ちょっとでも国策に反すれば、引っぱられます。何がほんとうの生き方なのかを知る本を買うこともできない。「これを読んでごらん」と貸してくれる人もいない。だれもそんな話を絶対にしてくれないのです。
わたしは、自分が日本の歴史のいかなる時代の流れの中に生きているのかを知らない、16歳の少女に過ぎなかった。
だから、暗い時代だとわかったのは、あとからのことです。光を知って闇がわかるのであって、闇の中で闇を知ることはできません。
わたしは、7年間、精魂こめて、生徒に対してきたつもりであった。生徒たちを心から愛し、教壇に倒れるなら、本望だと思って生きてきた。その7年間に教えたことが、敗戦によって「教科書に墨を塗る」という形で終止符を打ったのだ。
天皇陛下のために死ぬのはとても光栄なことに思われ、天皇の赤子を育てていることが光栄でした。修身の教科書を開くときにはお辞儀をし、少しでもぺージがめくれているとアイロンをかけさせたり、カバーをつけさせたりしてきました。その教科書に墨を塗る。子どもたちには、何のために墨を塗るかの自覚がないからこそ、なお痛みを感じました。
教師は間違ってはならないのです。子どもたちは、教師を特別に信頼しているのですから、その痛みは何といってよいか…。
わたしは乞食になろうと思いました。乞食の言うことを聞いて一生懸命になろうとする人はいないだろうし、死ぬまで蔑まれて生きるなんて最高だ、自分はそれに値いすると、本気で思いました。わたしの教えてきたことは、償うことのできない罪であった。もう、何も信じない、何も信じない、何も信じない。子どもたちにも顔をあわせたくない。
何を教えるべきかを見失ったわたしは、遂に敗戦の翌年3月退職した。
(とうとうわたしも肺病になった)
内心、「ざまあみろ!」と自分を嘲笑したい気持だった。
それまで、わたしの信じていたものは虚の世界でした。虚を信じていたら、虚無になるのは当たり前です。
時代とは何なのか。自然にでき上って行くものなのであろうか。わたしが育った時代、その時代の流れは、決して自然発生的なものではなかったと思う。時の権力者や、その背後にあって権力を動かす者たちが、強引に一つの流れをつくり、その流れの中に、国民を巻きこんで行ったのだと思う。そして、そのために、どれほど多数の人命が奪われ、その運命を狂わされたことか。(角川書店版あとがきから)
(綾子と世界の国々をまわってみて、清き水、青き山、この恵まれた、美しい日本を、再びあの暗い時代に戻してはならないと、ほんとうに思いました=光世氏)
平和と民主主義、言論の自由の大切さを痛感していますよ。いま、とうとうと時代が逆流しているのを感じます。2度とあの時代に戻してはならないと、わたしたちは毎日ピリピリして生きています。そのことを、ふたりで口にしない日はありません。
すでにいま、言論の自由も失われつつあると思います。国家機密法案を国会に再提出しようという動きもあります。わたしたちは、口封じにあってはならないし、かけがえのない生命と平和を守る問題から、目を外してはならないと思います。
わたしは、自分が蹴られて、溝(どぶ)の中に落ちた小さな石だと思った。
石ころのわたしの青春は、何と愚かで軽薄で、しかし一途であったことだろう。わたしは、今も石ころであることに変りはない。が、幸いわたしは、聖書を知った。そして聖書の中の次の言葉を知った。「このともがら黙さば石叫ぶべし」(ルカ伝19章40節)
故に、わたしはこの書を記した。叫ぶほどではなくても、どんなつまらない石ころもまた、歌うものであることを人々に知ってほしいが故に。そして、すべての石ころをおしつぶすブルドーザーのような権力の非情さを知ってほしいが故に。(角川書店版あとがきから)
1935年・昭和10年代は、まだ大正デモクラシーを受け継ぐ自由な思想が残っていた。堀田(三浦の旧姓)綾子の学んだ女学校も「民主的な明るい学校で、自治会活動も活発だった」という自由があり、スカートの長さ、レインシューズ、流行歌の禁止といった校則を彼女の抗議で解禁にするほどの寛容さもあった。しかし、満州事変がおこり、国内にはテロ事件、エロ・グロ・ナンセンスの風潮がはびこっていて、それほど問題意識を持った少女にも社会に目を開かせない“暗黒”がすでにあった。
1935年に天皇機関説が問題化し、36年(昭和11)の二・二六事件、さらに翌年の日支事変によって、日本は軍国時代へ坂落としのように転落していく。『国体の本義』という本が国民教育の書となり「天皇が著しく神格化され、その天皇に生命を捧げ奉ることを光栄とする教育がなされはじめたことも、わたくしたちは何の抵抗もなく受け入れ」ていくのだった。
当時の旭川には第七師団があり、その兵士を相手にする遊廓ができて、足抜けした遊女が牛朱別川原で血をはいて死んだとか、廃娼運動をしていた佐野文子女史が日本刀で切りつけられながらも、再び立ち上がって演説を続けたという話があった。女学生たちが慰問に行く陸軍病院の傷病兵は、多くが結核患者であった。
1939年(昭和14)、堀田綾子は16歳で代用教員として、歌志内の神威小学校に赴任する。日支事変とともに急成長した炭鉱の街は明るく、またのどかだった。学校は教育熱心な多くの教師に恵まれ、子どもたちは若い女教師を慕った。しかし、そこには毎夜南京虫に刺されても平気でいる炭住の暮らしがあった。強制労働のために異国に連行され、泣く子に「日本人が来るよ」と、まるで日本人を鬼と恐れるように暮らしている朝鮮人家族が多くいた。その一方「自由主義が一番いい」ともらす第2の赴任先の校長や「人間はみな、同じ程度の経済生活をすべきだと思いませんか」と語り、炭じんにまみれて働く“主義者”もいた。
しかし、思想弾圧は過酷を極め、国策に協力しないものは「非国民」と白眼視された。そして、世界の動きや日本の現状を正しく知らされることなく「お国のすることは正しい」と信ずることが大方の庶民のあり方であり、堀田綾子もまた、そうした1人であった。
1922年(大正11)4月25日、旭川市に生まれ、1939年(昭和14)に旭川市立高等女学校を卒業後、満16歳で炭鉱の街・歌志内の小学校教師となります。のちに旭川市内の小学校に転勤しますが、敗戦によって国家の欺瞞や軍国教育の過ちに気づき、7年間勤めた教員を退職します。間もなく肺結核となり、さらに脊椎カリエスを併発して13年間の闘病生活を送ります。30歳でキリスト教の洗礼を受け、1959年(昭和34)、37歳のときに三浦光世氏と結婚。1962年(昭和37)雑誌「主婦の友」第1回“愛の記録”に『太陽は再び没せず』が入選。1964年(昭和39)42歳のときに朝日新聞社1,000万円懸賞小説に『氷点』が入選して、一躍、注目の女流作家となりました。以後、旭川市に在住のまま優れた作品を発表し続けています。
おもな作品は、『ひつじが丘』(主婦の友社)『積木の箱』(朝日新聞社)『裁きの家』(集英社)『自我の構図』(光文社)『塩狩峠』(新潮社)『細川ガラシャ夫人』(主婦の友社)『天北原野』(朝日新聞社)『泥流地帯』(新潮祉)『広き迷路』(主婦の友社)『果て遠き丘』(集英社)『千利休とその妻たち』(主婦の友社)、その他エッセイ、書簡集など多数。1983年(昭和58)には朝日新聞社から『三浦綾子作品集』が刊行され、海外でも多くの国で翻訳出版されています。
1924年(大正13)4月4日東京に生まれる。1939年(昭和14)小頓別高等小学校卒。同年小頓別丸通運送社勤務、1940年(昭和15)中頓別営林署毛登別官行事業所に勤務。1966年(昭和41)旭川営林局を退職。以後、綾子氏の著作活動のマネージャーとして現在に至っています。(1949年受洗)