スキーをやめてから、もう30年になろうか。もっとも、十余年前に更科源蔵さんたちとニセコに遊び、禁を破って(?)たわむれに当時の最新式金具の貸スキーを履いたけれど、滑る気も力もなかった。
やめた理由は単純で、テニスで傷めた足首の故障が治らずじまいになったから。それと、札幌住まいを始めて以来、電車やバスに乗ってスキーに出掛けるなど、性に合わなかったせいもある。
私は小樽に生まれ育った――と言えば、昔ならそれだけでスキー自慢の連中は一目置いだものだった。ジャンプと直滑降、私のスキーはそれだった。札幌あたりの学生連中など歯牙(しが)にもかけぬ粋がりがまかり通ったものである。踏み固めた斜面に棒ッコを立てて通り抜けたからって何がおもしろい!? 無茶苦茶なスキー論をサカナに飲む酒はうまかった。
ヨチヨチ歩きとともに始まったスキーだから、見よう見まねの我流技術、見映えはしない。ジャンプ台も手造り、今も汽車で眺める山肌の、あのあたりに台を作れば…などと、うっとりすることがある。とはいえ、私の通った小樽市若竹小学校には、樽を組んだアプローチを持つレッキとしたジャンプ台があったし、2本ミゾ、3本ミゾの本式のジャンプ用スキーも備わっていた。校内大会の、私は花形ジャンパーだったノダ。
皮製の締具からカンダハーに替わる頃、敗戦が迫る。すべて物不足、デパートの物々交換場で、私は洋傘で中古カンダハーを手に入れ歓喜したものだ。家が銭函に移り、そこは奥手稲への登山口だったから、山スキーに熱中するようになる。アルバイトで貧弱なアザラシを買うまでは、最初はナワを巻きつけ、また、ミックスが合う雪質の日はメデュームをスキーにたたきつけることで登りをこなした。毎週日曜、日帰りで山小屋に行った。小屋開き直前の毛布運びの仕事もした。納豆と新聞を土産に、タダで泊ることもあった。
そんな私のスキーだから、汽車賃かけてスキーに出掛けるなどは、異人種のオ遊ビに見えたのだった――が、今や“マチの酒場をスラローム、鬼門危門にひっかかり”の態たらくなのである。