ウェブマガジン カムイミンタラ

2008年07月号/ウェブマガジン第22号 (通巻142号)  [ずいそう]    

恋知としての哲学=民知について
武田 康弘 (たけだ やすひろ ・ 白樺教育館館長・白樺文学館初代館長)

「ハッケヨイ」<br>版画:宝賀寿子
「ハッケヨイ」
版画:宝賀寿子

「白樺教育館」に通う高校生・大学生・一般成人者の方は、哲学を学んでいます。
 というと、哲学書を読解し、哲学講義をしているところと思われるでしょうが、少し、いえ、かなり違います。

わたしは、フィロソフィーを「恋知」(れんち)と直訳し、その初心を活かそうと考えているのです。この恋知としての哲学は、ふつうの生活者が、日々の具体的経験に照らして、ものごと・できごと・人生・社会の意味と価値について自分の頭で考えてみることなので、これを「民知」と呼びます。

哲学の本をまったく読まない、というわけではありませんが、本の読解は必要最小限にとどめています。恋知を、哲学書を読むことから解放しないと、ほんとうに「私」が感じ・思うところから自分で考える営みが始まらないからです。自問自答したことをみなで聴き合い・言い合う自由対話こそ「哲学する」醍醐味なのだと思っています。書物はそのための触媒に過ぎません。

このような営みは、事実について調べ覚える勉強・学問(「事実学」)ではなく、意味と価値を問う思考なので、「意味論」と言いますが、この意味論としての知を豊かに広げることがないと、「知」は、他者に優越するための道具にしかなりません。受験知のチャンピョンになるための知は、自他を生かしません。競争の知から納得の知へのチェンジ!!というわけです。

人類は、「国家と文明」成立以降、「競争原理」に支配されてきましたが、いま、文明の大転換をはからなければ、どうにも先が見えません。競争ではなく納得(腑に落ちる)を原理とする生き方がそのための鍵ではないか、そうわたしは考えています。外なる価値を追いかけ、他者との比較や勝ち負けで生きるのではなく、内なる意味充実を基準として「納得原理」による人生を歩む人を恋知者=哲学者と呼ぶわけですから、わたしたちはみな哲学者になるべきだ、と言えるかもしれません。

上位者に盲従する反・哲学的な生ではなく、「私」から出発し「私」の固有のよさを開花させながら生きる人でなければ、シチズンシップに基づくほんらいの公共性・社会性を獲得することもできないでしょう。「一般意思」(公論)の形成という社会生活を営むうえでの一番大事な営みも、「私」の実存の輝きに照らされなければ、意味を持たず、色を失ってしまいます。

わたしは、小中学生の意味論としての学習に取り組んで32年、高大学生と成人者との恋知としての哲学=民知の実践を続けて21年がたちますが、さて、これからが本番です。みなさん、ぜひご一緒に!!



関連リンク白樺教育館  http://www.shirakaba.gr.jp/index.htm

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