久保榮、劇作家、演出家。1900年札幌生まれ、1958年没。代表作に『火山灰地』『林檎園日記』『日本の気象』など多数、小説『のぼり窯』などがある。
その久保榮が、劇団民藝附属水品演劇研究所の生徒を相手に1956年4月から翌年3月まで講義をした記録が『久保榮演技論講義』であり、生徒の手でまとめられて(編集同人代表、山田善靖)出版されたのが1976年3月(三一書房)で、今回の再刊(影書房)は久保榮の没後50年にあたる。
私が劇団民藝俳優教室(水品演劇研究所が改称されて2年目)に入所したのは、1962年4月。前年11月から12月にかけて京都で『火山灰地』の一部、二部を観劇したのがきっかけになった。
第一部では幕開きの宇野重吉の朗読に強烈な印象を受けた。「先住民族の原語を翻訳すると/「河の岐(わか)れたところを意味するこの市(まち)は/……」。ぐいぐい肉迫してくる朗読が私に向かって語りかけてくる。
実は前夜、すでに初日に観劇した私だったが、知人などいないのに楽屋を訪ね、チケットはないが、どうしてももう一度観たい、なんとかしてほしいとお願いした。すると鈴木瑞穂と演出部のNが、席はないが通路に座って観ることでかまわないかと応対してくれて、客席にもぐり込んだ。文字通りモグリの観客だった。それが前夜には味わえなかった幕開きからの感動に結びついたのだと思っている。
1カ月後、第二部もまったく同じ情況だった。私はまた2度観た。ラストの鈴木瑞穂演ずる「市橋」のせりふ。「したらみなさんさ伝えてくださえー 愛んこい男の子だってなー 泉の治郎さ そっくりでねいすか」。
二つのせりふは宇野、鈴木の音色とともに私の胸にしまいこまれ、今でも時おり口から出てくる。
劇団に入るとすぐに、「演技論講義」をまとめるメンバーと出会った。「ことばをおぼえるだけのノートはとらないで」という講義の再現は、なかなか大変だったようだ。会合は毎週土曜日に開かれていた。
同じころ、久保マサに声をかけられ、『火山灰地』上演を機に出版されていた『久保榮全集』全十二巻(三一書房)の最終校正を手伝い、謝礼にと完成した一冊ずつをいただくのが嬉しかった。
劇団では木下順二作、宇野重吉演出の『オットーと呼ばれる日本人』の稽古が始まっていた。
ことし6月28日、札幌市豊平区の天神山緑地にある『林檎園日記』碑の前で久保榮没後50年の集いが開かれた。呼びかけ人は本山節彌、森一生である。
この機会に『久保榮演技論講義』が一冊でも多く読まれることをねがっている。