私がすすきのにBARやまざきを開店したのは、昭和33(1958)年6月28日のことでした。この日は仏滅でしたが、私の誕生日だったので開店に踏み切りました。その店がことし50周年を迎えました。ふり返ると、開店前からじつにたくさんの困難に見舞われながらも、よく50年も続いたものだと感慨ひとしおです。
じつはBARやまざき開店の7カ月前、商工会の専務理事から紹介されたHさんという女性に共同経営でBARを開くことをすすめられ、12月も押し迫ってサイロという店を開店したことがあります。そのときHさんから所持金を訊かれ、20万円を銀行からおろして貸したのですが、3日後の大晦日の晩、Hさんの側近の女性からHさんがいなくなったことを聞かされてびっくり。しかも、店の家主からは「山崎という腕のいいバーテンダーを引き抜いてやると言われてHさんにお金を渡してある。私はあなたをうちの従業員だと思っています」と言われて二度びっくり。しかたなく1カ月ほどサイロで働いてやめた直後、酒屋のツケを負わされたのを知って、ほんとうに驚くばかりでした。
20万円は、モンタナという店で5年間コツコツと働いて貯めた大切なお金でした。BARやまざきの開店は、その20万円を失い、負債を負わされ、ゼロどころかマイナスからのスタートでした。
借金の中には高利のものもありましたが、親切なモンタナとその時代のお客様たちのご支援によってなんとか自分の店を開店できました。折からのベトナム戦争景気で、2年ほどのあいだに負債はほとんどなくなりました。
そのころ、開店以来マダムとして店に協力してくれた女性が独立開店することになりました。私の店の女性の多くが、そのマダムに付いてやめていきました。その後も売れっ娘を他店に引き抜かれたり、「あの娘をやめさせないなら、私たちがやめます」と女性従業員のもめごとがあったりと、女性を使うことではずいぶん苦労しました。
昭和49(1974)年、火災で全焼したのをきっかけに、BARやまざきは翌50年5月に現在の克美ビルに移転しました。こんどは女性なしの(ホステスを使わない)店としての再スタートでした。
それからは比較的順調でしたが、従業員が古い順に独立していったときは困りました。「BARやまざき」のような小規模の店では、一人独立させることはけっこうな痛手となります。お客さまの3分の1を持っていかれることになり、私の店はそのぶん赤字になるのです。だいたい3年くらいすると収益が元に戻るのですが、その繰り返しで今日までやってきました。
その間、バーテンダー協会や調理師会の仕事で全道を飛び回ることも多くなりました。お客様からシルエット(紙とハサミでつくる切り絵)を頼まれるなど、店の営業に直接関係のない仕事に忙殺されることもしばしばあります。
けれども、浮き沈みしつつも50年もの長いあいだ店を続けてこられたのは、こうしてまじめに努力してきたことと、多くのお客様や業界の方々、独立していった元従業員の人たちの支えがあったからこそと感謝しております。